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地球から月まで1、3秒(本編未読でも読める番外編です)

 地球には時差がある。地球は自転しているから、当然だ。裕也の故郷である日本が朝なら、アメリカは前日の夕方だ。

 ただ、月面ドーム都市や月面地底都市には時差はない。それらの都市は、人工的に朝昼晩を作っているからだ。裕也の姉である朝乃が住む月面ドーム都市『浮舟』が昼なら、すべての月面都市は昼だ。ちなみに月面都市群は、地球のイタリアと同じタイムゾーンだ。

 なぜ月の人たちは、イタリアに時刻を合わせたのか? 裕也は小学生のとき、その理由を図書館の学習漫画で読んだ。けれど答は忘れた。結構、しょうもない理由だったと思う。

(今、俺のいる中国は午後三時。朝乃のいる月は午前九時)

 裕也がそう考えていると、電動ベッドの背もたれを上げて、そこに座っている白髪の老人はほほ笑んだ。彼は老齢と身体の障害のため、自力で立つことができない。目も見えない。しかし彼には、人の心を読む力があった。

 ヤン・ミンヤン。世界最高の超能力者、千里眼のミンヤンとも呼ばれる老人だ。そして裕也の実質の保護者でもある。ミンヤンは裕也の心を読んで、それを好ましく思ってほほ笑んだのだ。

「お姉さんは元気だったかい?」

 ミンヤンの母国語は中国語だが、彼は日本語もしゃべれる。裕也と一緒にいるときは、ミンヤンは日本語を使ってくれる。

「はい。朝乃は変わっていませんでした。昼食に、トマトソースのパスタを作っていました」

 裕也はほほ笑み返して、大きなはっきりした声で答える。ミンヤンの耳は遠いからだ。裕也は彼のベッドのそばにいて、いすに腰かけている。

 裕也は昨日、ひさしぶりに唯一の肉親である姉と会った。それは、ミンヤンの勧めでもあった。裕也がたずねたとき、朝乃はキッチンで食事を作っていた。彼女は家庭的な女性だ。彼女が台所に立っているのは、普段どおりの光景だった。

 裕也は姉と別れてから、つまり軍に入ってから気づいたが、朝乃は料理がうまい。朝乃のせいで、裕也の舌はこえていた。ちなみに姉とは言っても双子なので、朝乃も裕也も十七才だ。

「おいしかったかい?」

 目は見えないはずだが、ミンヤンの漆黒の瞳はきちんと裕也を捉えている。

「はい。ただ時差のせいで、食後は少し眠かったです」

 裕也は笑った。浮舟で朝乃は、昼食のパスタを作っていた。しかしそのパスタは、中国に住む裕也には夕食だった。

 裕也は朝乃と過ごした後、瞬間移動テレポートで中国のミンヤンの家へ帰った。帰宅後はすぐに風呂に入り、歯磨きをして寝た。ミンヤンは楽しそうに笑う。

「君は、地球でも月でも、どこにでも超能力で飛んでいける。もっとひんぱんにお姉さんに会いに行けばいい」

 だが裕也は迷い、返事できなかった。裕也は地球内なら、一瞬でどこへでも飛んでいける。地球から月へ行くなら、なぜか一秒か二秒くらいかかる。妙な空白があるのだ。多分、裕也は光の速さを超えられないのだろう。地球から月まで、光ならば1、3秒ほどかかる。

 ただし、こんな風に簡単に瞬間移動できる超能力者は、世界中で裕也だけだ。ほかの超能力者たちは、たいていの場合、たいした力を持たない。そのたいした力のない超能力者でさえ、まれな存在だ。

 Sランクと認定される超能力者は、ミンヤンを含め世界に三人いる。彼らでさえ、裕也のまねは無理だろう。ものすごく時間をかけて精神を統一し、一、二メートルさきへ飛ぶだけだ。裕也は突然変異と言っていいほどに、特別な存在だった。

 ミンヤンは静かな調子で問いかける。

「俺は午後三時、朝乃は午前九時。君がさっきそう考えたのは、お姉さんに会いに行こうと思ったからだろう?」

 裕也はどきりとした。裕也と朝乃の間には、時差がある。朝乃に会うならば、向こうのタイムゾーンを気にしなくてはならない。午前九時ならば、会いに行ってもいい時間だろう。

 けれど裕也は、朝乃に会っていいのか。裕也はつい一週間前まで、アメリカの宇宙軍にいた。最新鋭の戦闘機に乗って、地球周回軌道上の戦場を飛びまわっていた。敵の戦闘機をたくさん落として、多くの人を殺していた。

 Sランクの超能力者ミハイル・ヴァレリーと戦場で対峙したときは、殺し合いに心から興奮して、戦いに没頭した。

(流れ弾で敵が落ちても味方が落ちても、俺は戦い続けた。一騎打ちをやめることができなかった。楽しかったんだ)

 過去を思い出し、裕也はかたく両手を握った。この手は血にまみれている。人間らしいまともな心はなくなり、誰でも殺せる。

 八年前に始まった地球と月の戦争は、ずるずると続いていた。裕也が軍から逃げた今も、まだ戦っている。何が正しいのか、何が勝利なのか、裕也には分からなかった。

 こんなにも汚れている裕也が、素朴であたたかい朝乃に会いに行っていいのか。中立都市の浮舟、――平和な場所に行っていいのか。そもそも、ミンヤンのそばにいていいのか。

 ミンヤンは一貫して、停戦を訴え続けている。戦争反対のシンボルとも言うべき存在だ。大勢の人がミンヤンを頼り、必要としている。ミンヤンと話したり、相談したりしたがる。彼は毎日、いそがしい。なのに今、裕也との時間を作ってくれているのだ。

――君は必要だ。

 ミンヤンの力強い声が、裕也の心に響いた。日本語でも中国語でもない、言語ではなく想いそのものが流れてくる。裕也は驚いて、ミンヤンを見る。彼は優しくほほ笑んでいた。

「君は私にとって、必要な存在だ。君のお姉さんにとっても、そうだ」

 裕也は泣きたくなった。やみに落ちる裕也に、ミンヤンは何度も手を差し伸べる。

「世界平和のために、私たちができること。それは家に帰って、家族を大切にすること。二十世紀の修道女マザー・テレサの言葉だったかな」

 ミンヤンは、ふっとほほ笑んだ。

「いつでもいい。何度でもいい。お姉さんに会いに行きなさい。彼女は大喜びで、君を迎える。遠慮はいらない」

 裕也はためらい、何も言えない。ミンヤンは勇気づけるように、裕也の手を握った。大きな手だった。

「愛することも、愛されることも恐れてはいけない。君には未来があるのだから」

「……はい」

 裕也は小さい声で返事した。声はミンヤンの耳に届かなかっただろう。けれど心には届いた。ミンヤンは手を離して、満足げにほほ笑んだ。そっと両目を閉じる。彼の目には、世界が映っている。静かで、穏やかな時間だった。

 だがすぐにまた、いそがしくなる。裕也は唇を引き結んで、ミンヤンの横顔を見つめる。世界を変えるための、次の仕事が始まる。裕也は自分の特別な力を、ミンヤンのために使うと決めていた。

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