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10 滞在許可証とパスポートだけでは不足

 会議室には大きな楕円形のテーブルがあり、いすが六脚置かれていた。うちの二脚には、すでに人が座っている。

 ひとりは、市長のタニアだ。中年の女性で、ほりの深い顔立ちをしている。暗い赤色の髪をひとつにくくり、右の方に下ろしている。彼女はゆったりとほほ笑んで、朝乃たちを見ていた。

 タニアの隣には、ドルーアと同じ年ごろの若い男性が座っている。こちらは誰か分からない。彼の顔はこわばっている。彼は緊張して、朝乃たちを警戒している。

「会うのは二回目ですね、ミスター・コリント」

 タニアは立ち上がった。さすが市長、貫禄がある。若い男性の方は、ちょっとあわてた様子で席から立った。

「おひさしぶりです。鈴木市長」

 ドルーアは、ふんわりとほほ笑んだ。朝乃はびっくりする。彼の雰囲気が、また変わったからだ。ドルーアは今、三十代後半の落ち着いた物腰の男性に見える。話し方やちょっとした体の動きが、彼を実際の年齢より上に見せている。

 ドルーアはタニアに貫禄負けしていない。おじさんくさい服装をしていたのに、今、その服は年相応のものに思える。

「こちらは、息子のクリストスです。私の秘書のひとりでもあります。彼を同席させてもいいですか?」

 タニアは若者を示して、たずねる。言われて見れば、彼はタニアと顔が似ている。

「もちろんです」

 ドルーアは快諾した。友好的な雰囲気に、朝乃はとまどう。朝乃も、にこにこした方がいいのか。

「では、席におつきください。あなたが要求したものを渡しますから」

 ドルーアは、ドアの近くのいすに座った。朝乃は彼の隣に腰かける。ショルダーバッグは、自分のひざの上に置いた。信士は朝乃の隣に座り、朝乃はドルーアと信士にはさまれた。頼れる大人たちにはさまれて、朝乃は安心した。

 朝乃の正面には、クリストスがぎこちなく座り、彼の隣にはタニアが座った。ドルーアも信士もタニアも平然としている。落ちつきがないのはクリストスだけだ。

 朝乃は奇妙な親近感を、彼におぼえた。多分、クリストスは年齢も朝乃にもっとも近い。彼は背広の内ポケットから二枚のカードを出して、テーブルの上に置く。かたい声でしゃべった。

「こちらが、村越さんの浮舟滞在許可証とパスポートです」

 朝乃は驚いた。滞在許可証がもらえるのは予想どおりだが、パスポートまでもらえるとは意外だった。旅券パスポートは簡単に説明すると、国外に出るときに必要な身分証明書だ。日本では、一部の特権階級しか持っていない。

「ありがとうございます」

 ドルーアは礼を述べた。が、カードに手を伸ばさない。滞在許可証がほしい朝乃は、ものほしそうにカードを見た。それには、朝乃の生活費に使えるお金が入っているのだ。朝乃の食費や光熱費などは今、功と翠が支払っている。

「次に、あなたが私たちに渡すべきものを渡してください」

 タニアは笑顔で言う。彼女が、朝乃の誘拐未遂事件にかかわっている証拠のことだろう。朝乃はそれについて、くわしいことをドルーアから聞いていない。もしたずねても、彼が教えてくれるかどうかも分からない。

「それはできません」

 ドルーアは、柔らかい笑みを浮かべたままで断った。彼が拒絶すると、朝乃は思っていなかった。なぜ断ったのだろう。クリストスは嫌そうに、顔をしかめている。

「なぜならあなたは朝乃に、僕の求めるものを与えていないからです」

 ドルーアは静かな調子で言う。言葉遊びのようだ。会話はすべて月面英語だ。みんなゆっくりと話しているが、朝乃は会話についていくのがつらい。

「僕が要求したのは、朝乃が安全に、かつ自由に浮舟で暮らすことです。期間はあなたの市長在任中、つまり今から約三年間です」

 ドルーアはタニアより、優位に立っているように見えた。彼女の弱みである、誘拐未遂事件の証拠を持っているからかもしれない。

「滞在許可証とパスポートだけでは不足、と主張するのですか?」

 しかしタニアは、余裕のある笑みを口もとにきざんでいる。だが声には、怒りがにじみでていた。その怒りも、計算してわざと出している印象だ。タニアには迫力があり、朝乃は彼女が怖い。

「えぇ。あなたの在任中、朝乃が快適に暮らせたら、僕は例のものを渡します」

 ドルーアはにこやかに話す。タニアは苦笑した。

「市長でいる間、あなたにずっと弱みを握られておけ、ということですか?」

「朝乃にトラブルがないかぎり、僕は何もしません」

「あなたの口約束は信用できません」

 言葉に反して、タニアはほほ笑み続けている。

「あなたが告発すれば、私は市長の職を追われます。刑事責任も問われるでしょう」

 逆にクリストスは、気持ちが顔に出ている。母親が逮捕されるかもしれないと、彼は不安そうだ。

「市長選挙がすぐさま行われて、勝つのは参戦派の候補者でしょう。和平派である私の失態ですから」

 タニアはたんたんとしゃべる。しかし、すごみのある語りだった。

「参戦派、すなわち中立維持反対派の候補者が勝てば、浮舟は大きく変わります。浮舟は月面都市連合軍に、人と物資を送ることになるでしょう。ほかの月面都市から、――おもにシャクルトンクレーター連合から、何度も戦争に協力するように要求されていますから」

 話がおおごとになっている。朝乃はおろおろとドルーアを見た。浮舟が星間戦争に関わるようになったら、朝乃はどうなるのか。日本にいたときと同じように、朝乃を人質に取られて、裕也は戦場へ行くのか。それにドルーアも裕也も、戦争には反対なのに。

 おそらくタニアは、さっさと証拠を渡せ、でないと都合の悪い未来が待っているぞとおどしているのだ。彼女の笑みは、鉄壁の守りだった。

「そうでしょうか? 反戦派や対地球穏健派の候補者が勝つかもしれません」

 ところがドルーアの余裕はくずれない。彼の考えは、表情から読めなかった。

「その反戦派の候補者とは、あなたのことですか?」

 タニアの発言に、クリストスは目を丸くする。ドルーアには政治家になるといううわさがたっているのだ。

「あなたが出馬すれば、ほぼ確実に当選するでしょう」

 タニアは言う。市長にこう言われるとは、ドルーアは何者なのだ? 政治家になると思われているだけでも、すごいのに。今度はドルーアが苦笑した。

「選挙の難しさは、僕よりあなたの方がご存じでしょう? それに僕は、政治家になるつもりはありません。さきほどファンたちにも、そう言いました」

 彼の言葉から、ドルーアがファンたちを大事にしていることが感じ取れた。ファンたちに言った以上、ドルーアは約束をやぶらないのだ。タニアは、ふわりとほほ笑んだ。

「あなたが選挙に出ないのは、ドラド社の最高経営責任者(CEO)のいすが用意されているからですか?」

 朝乃は話についていけなくなった。なぜいきなり、ドラド社が出てくるのか。ドラド社は、宇宙戦艦などを製造している軍事企業だ。ドルーアの弟であるゲイターが、役員をやっている。

 対してドルーアは、反戦ものばかりに出演する役者だ。ドルーアとドラド社は、思想が相容れないだろう。そしてドルーアとゲイターは、仲が悪いだろう。ふたりは対立していると、前に功が言っていた。

「父が臆病者の僕に、トップの座を譲り渡すとは思えません。またCEOという役職は、世襲制でもありません」

 ドルーアはほほ笑んでいる。朝乃は、え? と胸をつかれた。ドルーアの父親が、ドラド社の最高経営責任者なのだ。だからゲイターが役員のひとりで、本来ならばドルーアもそうなはずだ。ドルーアとゲイターは、ドラド社の御曹司だ。

 そして前に話に出てきたドルーアの弟のニューヨークも、ドラド社の御曹司だ。なのにプロのスポーツ選手になるつもりで、今、浮舟にいる。朝乃には、ドルーアの家族が分からなかった。

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小説の更新予定や裏話などは、活動報告をお読みください。→『宣芳まゆりの活動報告』
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