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8 彼はピアノがうまかった

「はい」

 朝乃は暗い気持ちで肯定した。

「裕也とは、おととい会いました。元気というわけではありませんでしたが、顔色も普通でしたし、食事もよく食べていました」

 ケガをしているようにも、薬物中毒になっているようにも思えなかった。となると軽度のうつ病なのか。でも由美がわざわざ知らせてきたから、もっと深刻なことのはずだ。朝乃は黙り、考えこんだ。

 気がつくと、ドルーアがこちらをけげんそうに見ている。遮音ガラスは、いつの間にか下げられていた。

「どうしたのですか?」

 ドルーアは信士にたずねる。信士は、教えていいか? と目で問いかけた。朝乃は信士にうなずいてから、ドルーアに話した。

「信士さんに、院長先生の暗号を読んでもらったのです。そしたら先生が、裕也は病気とおっしゃって」

 信士が言い足す。

「病名などは分からない。ただ裕也君は治療中らしい」

 ドルーアは複雑な顔をして、片手で口を隠した。

「僕も裕也が心配だ。だが彼は、ミンヤンさんのもとにいる。おそらく裕也はミンヤンさんの保護のもと、医者にしっかりと診てもらっている」

 朝乃も、ドルーアと同意見だ。ちゃんと治療されているなら、大丈夫だろう。それとも、もう治りかかっているのか? 朝乃の気持ちは、ちょっとだけ楽になった。

「裕也のことも気がかりだが、そろそろ市庁舎に着く。エンジェル、頭を切りかえた方がいい」

 ドルーアは言い、朝乃は首を縦に振った。裕也に次に会ったとき、病気について聞いてみよう。今は、これ以上にできることはない。

「君は、市庁舎に行くのも市長に会うのも初めてだね?」

「はい」

 朝乃は答えた。信士が会話に加わってくる。

「ドルーア、君は市長の鈴木さんに会うのは初めてか?」

「初めてではありません。短い時間でしたが、去年の市長選挙のときに会って話しました。応援演説を頼まれたのです」

 意外な答に、朝乃と信士は驚いた。

「それは、ドルーアさんが人気のある役者だからですか?」

 日本でも、芸能人が選挙の応援をすることがある。主に繁華街での街頭演説だ。そこに行けば、芸能人と写真が取れたり握手できたりするらしい。けれど朝乃は大阪の田舎の方に住んでいたため、行ったことはない。後でニュース映像を見て、うらやましがるだけだ。

「そうだよ」

 ドルーアはほほ笑む。信士は微妙な顔つきをした。

「君は、単なる人気役者ではないだろう?」

「買いかぶりすぎです」

 ドルーアは苦笑した。信士は少し黙った後で、またしゃべる。

「それで君は演説を断ったのか? もし君が応援演説をしていれば、話題になっただろう。これはただの好奇心だが、なぜ断ったのか聞いてもいいか? まさか今の状況を予測していたのか?」

 信士は案外、興味しんしんだった。ドルーアは、市長と対決すると考えていたのか? ところが彼は、かぶりを振った。

「いえ、予想はしていませんでした。僕は現市長の鈴木タニア氏を支持していました。周囲にも、そう告げていました」

 朝乃は昨日とおとといで、タニアについてインターネットで調べていた。彼女は四十代後半の女性で、日本からの移民二世らしい。五年前から市長の座についていて、今は二期目だ。ただし支持率はあまり高くない。

「演説を断ったのは、鈴木市長の選挙スタッフと意見が合わなかったからです。加えて、そもそもスケジュールが合わなかったのです」

「なるほど」

 信士はあいづちをうつ。朝乃には、ドルーアの話が興味深かった。彼はすべて自分で決めて動いている。選挙の応援をするかいなかも、ドラマの出演依頼も受けるかいなかも。それが朝乃には、かっこよく見える。

「信士さんは、市長と会うのは初めてですか?」

 今度はドルーアが聞いてきた。

「仕事がら市庁舎にはよく足を運ぶし、市長も遠目で見たことはある。しかし面会するのは初めてだ」

 信士は気うつそうに、視線を落とした。

「休暇を取って、公僕ではなく一市民として、鈴木市長に会うと予想していなかった」

 彼は窓の外を見やる。

「市庁舎に着いた」

 市長との戦いの場に到着したのだ。朝乃は緊張して、車外の景色に目をやった。背の高い三十階建てほどのビルがある。エントランスの自動ドアの前に、人だかりができている。四十人ほどだろうか。若い女性が多い印象だった。

 彼女たちはドルーアのファンで、彼を見るためにここにいるのだ。ドルーアの影響力に、朝乃は恐れ入った。ドルーアは、集まった群衆を観察してつぶやく。

「困ったな」

「どうしてだ? 人が大勢集まるのは、ねらいどおりではないか?」

 信士がまゆをひそめる。朝乃も首をかしげた。昨日、ドルーアが電話で教えてくれたことだが、彼にはネット上で公開している日記、――ウェブダイアリーがある。彼はそのダイアリーに、

「○○○という映画に出演する。ぜひ観てほしい」

「○○○という雑誌に、インタビュー記事がのる。購入して読んでくれ」

「○○月○○日に、○○○○で行われるイベントに参加する」

 などと、仕事の宣伝を書く。また彼は、自分の写真や動画もダイアリーにのせる。ドルーアが家でピアノを弾いているムービーもあった。彼はピアノがうまかった。

 ほかには芸能人の友人たちとリビングでダンスを踊っていたり、ダイニングの長テーブルで乾杯していたり。あの家が広いのは、大勢を呼んでパーティーをするためかもしれない。

 そしてドルーアはダイアリーに、今日、市庁舎に行くことを書いた。自分のけがは全快して、家の修繕は終わったことも伝えている。なのでドルーアのファンが、彼目当てに市庁舎に集まったのだ。

「だから市長が僕たちを害しようとしても、閉じこめようとしてもできない。そんなことをすれば、すぐにファンたちが気づいて騒ぎ出す」

 通話画面の中で、ドルーアは会心の笑みを浮かべる。朝乃は彼の用心深さに感心した。だがドルーアは普段から目立つので、わざわざファンを呼び寄せる必要はない。しかし今回、彼はあえて人を集めた。

 この人だかりは、市長に対するけん制だ。集まるファンは多い方がいい。なのにドルーアは、困ったとつぶやいた。朝乃と信士が疑問に思っていると、ドルーアは難しい顔をして口を開いた。

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