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1 怒った顔がかわいくて

 夕方、功は会社から帰宅した。彼は裕也のことを根掘り葉掘り、朝乃と翠に聞く。なので夕飯時の話題は、裕也のことになった。弟の話がひととおり終わると、次はドルーアの話題になる。

「ドルーアは朝乃ちゃんに電話するみたい。彼のことだから、きっと八時までに電話をかけてくる」

 翠は功に、てきぱきと言う。朝乃はみそ汁をすすりながら、心持ち身を小さくした。なんだろう、妙に気恥かしい。ダイニングルームの壁時計によると、今は七時ちょっと過ぎだ。

「それで、さっきから朝乃は落ち着かないのか」

 功は興味深げに、朝乃を見た。彼の表情からは、電話を歓迎しているのかしていないのか分からない。朝乃はリアクションに困って、とりあえず白いご飯を口に運んだ。功は、高野豆腐をぱくりと食べる。

「朝乃。今日は、夕飯の片付けは俺がやる」

「え?」

 朝乃は驚いた。夕飯の片付けは、基本的に朝乃の仕事だ。とは言っても、食器を食器洗い機につっこむぐらいだが。

「ドルーアからの電話が気になるだろ? 夕食が終わったら、すぐに部屋に戻っていい」

 功が言って、翠も、うんうんとうなずく。

「ですが」

 朝乃は困った。功たちの気づかいはうれしいが、ちゃんと仕事をしたい。功はにっと笑う。

「家族なんだから、もっと俺たちに甘えろ。それから、今日の風呂の順番はどうだったっけ?」

 功は翠に聞く。

「今日は朝乃ちゃんが一番風呂。それじゃ、これも変更しましょ」

 翠は、金時豆をうれしそうに食べる。この甘い豆が、彼女の好物らしい。

「今日のお風呂は、朝乃ちゃんが最後。ドルーアとの電話が終わってから、シャワーを浴びてちょうだい」

「はい」

 朝乃は遠慮がちに返事した。風呂の順番が最後ということは、朝乃は時間を気にせずにドルーアと電話できる。だがなぜ功と翠は、こんなにもドルーアとの電話に協力的なのか。かといって、反対されても困るが。

 そんなこんなで、朝乃は七時半には自室に戻っていた。体よくダイニングから追い出された気もする。功と翠は、ふたりで相談したいことがあるのかもしれない。

 棚の上に置いてある鉢植えの、ピンク色のバラが咲き乱れている。ドルーアは、ジャニスの手を取らないと言った。素直に考えれば、ドルーアは彼女を振ったのだ。だから彼には、恋人も想い人もいない。

 朝乃の心の中で、バラ色の期待が膨らんでいく。ドルーアの恋人になりたいなんて、ぜいたくは言わない。けれど、もしかしたら、いつか……。朝乃はそわそわして、無意味に部屋を歩き回った。

「あ」

 朝乃は、ふと思い出した。信士にメールを送ろうと思っていたのに、裕也が突然やってきて、すっかりと忘れていたのだ。それに弟に会えたので、暗号を読む必要がなくなった。だが裕也以外のことを、由美が暗号で伝えている可能性がある。

 朝乃は机にタブレットコンピュータを差しこんだ。机に備え付けのキーボードをたたいて、日本軍の暗号を読んでほしいとメールを書く。メールを送信し終えると、ちょうどドルーアからの電話がタブレットに来た。朝乃は喜んで電話に出る。

「こんばんは。ドルーアさん」

 にこにこ笑顔で話しかける。画面の中で、ドルーアは驚いた表情をした。それから優しく笑う。

「やぁ、朝乃。何かいいことがあったのかな?」

 彼は車に乗っているらしく、バックには車の座席が映っていた。服装は昼間とちがい、白色のシンプルなTシャツに、黒色のレザージャケットをはおっている。おしゃれでかっこよかった。

「いえ」

 朝乃は恥ずかしくなった。気持ちが表情に出過ぎている。ドルーアは上機嫌になる。

「朝乃、あさって僕と一緒に行ってほしい場所があるんだ」

「どこですか?」

 朝乃は目をぱちくりさせた。まさかデートのお誘い? 公園とか遊園地とか映画館とか。デートなんて、朝乃は初めてだ。どんな服を着ていこう。

「市庁舎だよ。市長に会いに行こう」

「へ?」

 まぬけな声を上げて、朝乃の浮かれた気分はしぼんだ。そう言えば、朝乃は結局、市長に会っていない。一度は会うという流れになったが、市庁舎に向かう途中で悪者たちに襲われた。

 その翌日、再び入国管理局に行き、市長に会えるかと聞いた。だが会えなかった。ただ管理局の局長からは、亡命許可はほぼ確実に出ると言われた。なので朝乃は、市長に会う必要がなくなったのだ。

「なぜ市長に会うのですか?」

 朝乃はいぶかしんで、たずねた。さきほどまでのピンクな気分は、完全になくなっていた。

「滞在許可証などをもらうためさ」

 ドルーアは意味深に笑う。朝乃は亡命が認められれば、滞在許可証をもらう予定だ。

「ですが、許可証の発行には二、三週間ほどかかると言われました」

 まだあれから五日しかたっていない。それに、許可証などのデータの入ったカードが、家に送られてくるという話だった。なので管理局にも市庁舎にも行く必要はない。

「通常はね。ただ君の場合は、あさってに市長本人からもらえるだろう」

 ドルーアは何かをたくらんでいる。しかし許可証は、早い目にもらえる方がありがたい。

 許可証がもらえたら、朝乃の生活費が浮舟から約一年間支給される。浮舟内の公共交通機関も、ほぼ無料になる。博物館や図書館も無料になるなど、いろいろなサービスを受けられるのだ。

 功いわく、朝乃は二十才未満なので、さまざまな優遇措置を受けられるらしい。功たちは、生活費の支給などはなかったと言う。

 ただ朝乃はこんなにも行政からお金をもらっていいのかと不安になっている。何らかの見返りを要求されるのではないか。そんな風に功にたずねたが、彼はそれはないと断言した。

「分かりました。市長に会いに行きます」

 朝乃は答えた。ドルーアは満足げに、笑みを深くする。

「それから、管理局裏手で君を誘拐するように、男たちに指示を出した黒幕たちが分かった」

 朝乃は目を丸くする。ドルーアは黒幕を探るために、朝乃のもとからいなくなったのだ。多分、危ないことをやったのだ。朝乃の顔は、自然に厳しくなる。

「それは警察から連絡が来たのですか?」

 答はNOと分かっているが、朝乃は聞いた。朝乃には犯人について、警察から何も連絡は来ていない。

「いいや。僕はフリージャーナリストの友人とふたりで、探偵ごっこをした。あとはあちこちの集まりに顔を出して、スパイ活動をしたり、……上流階級と付き合って情報収集するのは、普段の僕どおりか」

 ドルーアは楽しそうに笑う。朝乃はむっとした。

「危険なことはやめてください。私と田上さんは、あなたを心配していました」

 しかし功と翠がのんびりと構えていたため、朝乃はあまり心配していなかった。でも信士は心配していたはずだ。ドルーアは軽く笑って、肩をすくめる。

「困ったな、マイ・エンジェル。君の怒った顔がかわいくて、反省する気が起きない」

 朝乃はさすがに腹を立てた。何かしゃべろうとしたとき、

「心配をかけて、すまなかった。僕を見捨てないでほしい。もう二度と君から離れない」

 いきなりドルーアはまじめに謝った。それから、いたずらっぽくほほ笑む。

「ただし信士さんはすでに、探偵ごっこのメンバーに加わっている」

「えー?」

 朝乃はあきれた。信士はつい先週、それは警察の役目と言っていなかったか。ドルーアは愉快そうに笑いだした。

「彼は優秀な探偵だ。いや、隠密行動に長けた超能力忍者エスパーニンジャかな? ただ、わざわざ探偵ごっこをしなくても、君にも黒幕が分かるはずだ」

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