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2 バラの花がきれいに咲き誇っている

 朝乃は、机に接続していたタブレット型コンピュータを、机から外した。このタブレットは、功のお下がりだ。そして今、着ている服は、ドルーアからのプレゼントだ。紺色のポロシャツを着て、白のショートパンツをはいている

 朝乃は、服は翠に借りていた。そのうちゆっくりと買いそろえようと、翠と相談して決めていた。すると三日前に、大量の服がいきなりドルーアから送られてきたのだ。これには、朝乃も翠も功も驚いた。

 功がメールでドルーアにたずねると、ドラマやCMなどの撮影に使用した、十代の女性向けの服を、ドルーアが安い値段で買い取ったらしい。おかげで朝乃は日本にいるときよりも、きれいな服を着ている。

(先生に、自分の仕事をしなさいと言われた。でも、私の仕事は何だろう。私は今、ドルーアさんたちに頼りきり。できるだけ功さんたちの家のことを引き受けているけれど、それぐらいしかできない)

 朝乃は情けない気持ちだった。朝乃をなぐさめるように、棚の上ではバラの花がきれいに咲き誇っている。そばの壁には、かわいいデザインの時計がかかっている。朝乃は時刻を確認した。

 暗号のことを翠に相談しよう。その後は、お昼ごはんの準備だ。朝乃はそう決めて、立ちあがった。タブレットを持って、三階の自分の部屋から階段を降りていく。

 二階は夫婦の寝室だ。ダブルベッドのそばには、目隠しのために大きなついたてが増えた。これで朝乃は遠慮なく、二階のトイレや風呂に行ったり、階段を上り下りしたりできるようになった。

 朝乃は一階まで降りた。ちなみに地下室はない。リビングでは、翠がじゅうたんの上で妊婦用のストレッチをしている。座って両足を伸ばし、足首を伸ばしたり曲げたりしている。

「電話はどうだった?」

 翠は明るい笑顔で聞いてくる。朝乃は薄着だが、翠は体を冷やさないようにロング丈のガーディガンをはおっている。朝乃は、にこりとほほ笑み返した。

「院長先生は暗号を使って、何かを伝えてくれました」

「暗号?」

 翠は驚いた。朝乃はタブレットで、録画を翠に見せる。翠は感心したように、由美を見た。

「この人、すごいわね」

「はい」

 朝乃は肯定する。孤児院に来るまでの由美の経歴を、朝乃は知らない。新首都、――第二首都とも呼ばれる京都から左遷されてきた。そんな風に、孤児院の大人たちがうわさしているのは聞いたが。

「これは、日本軍の指文字だと思う。私は読めない。功も解読できないんじゃないかな」

 翠は困ったように、つぶやいた。功は今、仕事で会社にいる。由美は軍に所属していたのか。ますます彼女の経歴がなぞになった。しかし日本軍という言葉で、朝乃の頭にある男性の顔が浮かんだ。

「管理局の田上さんなら、分かるかもしれません」

 信士は日本軍にいたと言っていた。そして困ったことがあれば連絡するように、メールアドレスをくれた。彼ならば力になってくれるだろう。

「あとで田上さんにメールを送って、暗号の解読をお願いします」

「そうね。そうしましょう」

 翠はほほ笑んだ。朝乃は、リビングからキッチンへ向かう。

「メールしないの?」

 翠が驚いた声を、朝乃の背中にかける。朝乃は振り返った。

「はい。昼食の準備をしてから、メールします」

 リビングの壁時計を見ると、午前十一時前だった。

「お昼ご飯は、メールを送ってからでいいわよ」

 翠は苦笑する。朝乃はちょっと迷ったが、

「いえ。さきに昼食を作ります。多分、田上さんは今、仕事中でしょうし」

 信士は銃に撃たれて入院していた。だが彼は、あまり重傷ではなかった。なので今は、すでに退院しているだろう。さらに今日は月曜日だ。今日あたりが、仕事復帰一日目ではないだろうか。

「今、メールを送っても、田上さんは仕事が終わった後に読むと思います」

「分かった。じゃ、お昼ごはんをよろしくね」

 翠は納得して笑った。

「はい」

 朝乃は、気持ちのいい返事をする。キッチンに行くと、大きななべにたっぷりの水を入れて、火にかける。火にかけるとは言っても、月面都市はほぼIHだが。朝乃は棚からスパゲティのめんを出して、キッチンスケールで200グラムをはかり取る。

 次にパスタソースを作り始める。トマト数個を水で洗ってから、自動野菜切り機につっこむ。タマネギの皮をむいて、野菜切り機のそばに置いた。トマトの次に、野菜切り機に入れるつもりなのだ。

(バジルは自分で切った方が早そう)

 朝乃はまな板と包丁で、手早く切っていった。翠と功に指摘されたが、朝乃は包丁の使い方がうまいらしい。孤児院で毎日、料理していたためだろう。

 朝乃が台所に立つことは、孤児院にいたときと変わらない。ただ朝乃は今、料理を楽しんでいた。功も翠も、おいしいとほめてくれる。作ってくれてありがとうと感謝してくれる。

 孤児院では誰も、朝乃をほめなかった。みんないそがしくて、そんな余裕はなかった。朝乃はほめられることを知らず、認められなくても不満はなかった。けれど今の朝乃は、不満に感じるだろう。

 朝乃は月に来て、ぜいたくになった。便利な調理器具、――自動野菜切り機とかスープメーカーとかにも慣れた。ひとり部屋で、自分の時間を持つことにも慣れた。もう、もとの生活には戻れない。朝乃は翠と功が大好きだ。居心地のいい、この家にいたい。

「朝乃」

「何?」

 背後からなじみのある声がして、朝乃は返事をした。

「何を作っているんだ?」

「トマトとバジルのパスタ。裕也も好きでしょ? ソーセージは入っていないけど……」

 朝乃は、ほうけたように手を止めた。おそるおそる振り返る。行方不明の双子の弟、――裕也がそこには立っていた。

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