表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/112

月面ドーム都市『浮舟』

挿絵は、NASAの画像で「月」です。

 月面滞在三日目の朝、朝乃は自分のベッドで目をさました。とは言っても、昨日から朝乃のものになったベッドで、眠りは浅く途切れがちだった。

 ベッドは、三階の屋根裏部屋にある。夜に一度、朝乃はのどがかわいた。しかし二階で眠る功たちに遠慮して、一階のキッチンに行けなかった。

 天窓の外を見ると、空は明るい。今は何時だろう。この部屋には時計がないので、妙に心もとなかった。棚の上には、ピンク色のミニバラが咲いている。朝乃は窓に向かって、

「カーテンを閉めてください」

 と命令する。窓にロールカーテンが降りた。朝乃はパジャマから服に着替える。パジャマも服も、翠から借りていた。翠は今、マタニティ服を着ているから、普段の服を貸しても問題ないのだ。そして朝乃も翠も標準的な体型なので、サイズも支障ない。

 だが花柄のロングスカートは、朝乃の年齢に合わない。でも、ぜいたくは言えない。下着は新品を買ってもらっているのだから。朝乃は功たちの金銭的な負担を思うと、下着の購入は遠慮したかった。しかし下着の貸し借りは、朝乃も翠も嫌だったのだ。

 朝乃は着替えを終えて、少し緊張して一階に下りる。リビングでは翠がソファーに座って、テレビを観ていた。朝乃に気づくと、ぱっと明るい笑顔を見せる。

「おはよう。よく眠れた?」

 翠の声で、朝乃は気持ちが楽になった。さっきまで特に何かあったわけではないが、気分が落ちこんでいたのだ。翠のほほ笑みは、遠慮しなくていいと朝乃に伝えてくる。

「おはようございます。その、……あまり眠れませんでした」

 朝乃は正直に打ち明ける。翠は優しくしゃべる。

「大丈夫よ。あなたもちょっとずつ、月での暮らしに慣れていくから」

「はい。ありがとうございます」

 朝乃も笑った。ダイニングの方から、寝ぼけまなこの功がのっそりとやってくる。

「おはよう、朝乃」

「おはようございます」

 朝乃たちは、ダイニングテーブルで朝食のパンとバナナを食べた。功は自転車に乗って、会社に向かう。

 しばらくすると、家に警察がやってきた。朝乃はリビングで、刑事たちに誘拐未遂事件について話す。日本語の分かる刑事がひとりいたので、会話には困らなかった。また、信士から事件のてんまつを聞いていたので、適当なうそがつけた。刑事たちが家から去ると、

「散歩がてらスーパーに行きましょう」

 翠は朝乃に対して、気楽に笑う。

「はい」

 朝乃は、気合の入った返事をした。朝乃は功たちの役に立ちたかった。買いものだって、おなかの大きな翠に代わって、ひとりでやりたかった。翠は目を丸くすると、少しだけ笑った。

「そんな立派なスーパーじゃないわ」

 彼女は朝乃の気合を、カン違いしているようだ。ただ朝乃には不安があった。

「翠さん。今さらですが、大丈夫でしょうか?」

「何が?」

 翠が問う。彼女は結構、天真らんまんな感じだ。

「私はまた、誘拐されそうになるかもしれません」

 朝乃は自分より、巻きこまれる翠の方が心配だった。翠はちょっと考えて、腕組みをする。

「確かに、その可能性はあるわね。かといって、家にこもりきりは無理。私たちは人気のないところに行かないし、大丈夫よ」

 彼女はにっこりと笑う。朝乃はやはり不安だったが、翠の判断を信用することにした。それに功も昨夜の段階で、朝乃と翠だけの外出を容認している。だから大丈夫だろう。

「分かりました」

 そうと決まれば、朝乃の気持ちは浮き立つ。なんせ朝乃にとって、約二年ぶりの買いものだ。昔は普通にスーパーやコンビニに行っていたが、今では朝乃の孤児院は子どもは外出禁止だ。

 朝乃は玄関で、ドルーアが買ってくれたスニーカーをはく。目指すさきは、徒歩二十分程度の大型スーパーだ。

 住宅地を歩いていると、正面から誰かがやってきた。三十代から四十代ほどの、夫婦と思わしき男女が仲よく手をつないで歩いている。女性の方は朝乃たちと同じ、東アジア系の外見だ。彼女は翠に気づくと笑って、手を上げた。

「おはよう、翠。お買いもの?」

「えぇ。いつものスーパーまで」

 翠は笑顔で答える。会話は早口の月面英語だ。

「そう。気を付けて。ところで、その子は?」

「彼女は朝乃。昨日から、わが家に住んでいる」

 翠が朝乃を手で示す。自分の出番が来て、朝乃はどっきんとする。

「はじめまして。私の名前は村越朝乃だ」

 英語でしゃべるのは、まだ緊張する。昨夜朝乃は、功と翠から、できるだけ英会話を習った。ただ、それだけでは不十分だ。朝乃は、教科書や参考書がほしかった。

「はじめまして、私はキャサリンよ」

 キャサリンは優しくほほ笑み、手を差し出した。朝乃は彼女と握手を交わす。

「僕はアスランだ。よろしく」

 次に、男性の方、――アスランとも握手する。彼は中東系の顔立ちをしていた。

「キャサリンとアスランは、隣の家に住んでいるの。ふたりには子どもがいて、平日のこの時間帯は学校に通っている」

 翠が朝乃に、日本語で説明する。

「翠、朝乃は留学生なの?」

 キャサリンがたずねる。

「いいえ。朝乃ちゃんは弟と、日本から逃げてきた」

 キャサリンとアスランは目を丸くして、同情したように朝乃を見た。

「それは大変だったでしょう。子どもだけで、ここまで来たの?」

「はい。私は日本を去った、弟と一緒に。私たちは孤児だ」

 朝乃はどきどきしながら、うそをついた。このうそは昨日、功と翠と相談して作ったものだ。

「不運にも、私と弟は離れた。私は弟を探している。私は浮舟に着いた。しかし弟は、――私は彼がどこにいるのか知らない。私は翠の家に住んでいる。私は弟に会いたい」

 朝乃のたどたどしい英語を、キャサリンたちは真剣に聞いてくれる。うそをついているので、朝乃は申し訳ない気持ちになる。

「かわいそうに。何かこまったことがあったら、私たちのことも頼ってちょうだい。できるだけあなたの力になるわ」

「Thank you very much.」

 朝乃は心から礼を述べて、キャサリンたちと別れた。朝乃と翠は再び、スーパーに向かって歩いた。キャサリンたちとの距離ができてから、

「私はうまく、やれたでしょうか?」

 朝乃は不安に思って、翠にたずねる。

「もちろん」

 彼女は大きくうなずく。朝乃は安堵のため息をついた。

「キャサリンとアスランの顔と名前はおぼえてね。親切で頼りになる人たちだから」

「はい」

 まじめな顔の翠に、朝乃は返事した。確かにキャサリンたちは、とても親切そうだ。孤児で、さらに移民でもある朝乃に対して優しかった。前に功が「たいていの人は親切だ」と言ったが、そのとおりだった。近所づきあいの順調な滑り出しに、朝乃はほっとした。

 朝乃たちは住宅地から、大通りに出る。四車線の車道に、自転車専用道路に、歩道があった。人通りは、ほどほどに多い。

「バスも利用できるけれど、歩きましょう。私は、医者から散歩するように言われているの」

 翠はそう話して、朝乃たちは大通りに沿って歩いた。自転車で移動する人が多い。そんなに自転車は便利なのか。功と翠も自転車を持っていて、前庭に置いてある。朝乃がたずねると、翠が説明してくれた。

「月面都市は人口的に作られた街だから、坂道がほとんどないの。さらに基本的に、いつでも晴れ。だから自転車が便利で、みんな利用するの。たまにスケボーに乗っている人もいるわよ」

 今もドームの天井に、太陽や雲が映っている。夜になると暗くなり、星空が映る。月の姿は、ここが月なので映らないようだ。

「浮舟は日本の気候を基準に、一年間の温湿度を決めている。なぜなら浮舟は西暦2161年に、複数の日本企業が作った都市だから」

「え?」

 朝乃は驚いた。ぜんぜん知らなかったのだ。西暦2161年は、今から約六十年前だ。


挿絵(By みてみん)


「浮舟という名前も、日本の昔の小説である『源氏物語』のキャラクターから取られた」

 翠は言ったが、無教養な朝乃はタイトルぐらいしか源氏物語が分からなかった。

「浮舟完成当初は、日本出身者が人口の四分の一ほどを占めていた。つまりほとんど日本のようなものね。その後、何十年もかけて浮舟の人口は増えた」

 人が増えたぶん、日本出身者の割合は減った。

「でもこの五年くらいで、日本からの亡命者が増えた。私と功も、それね。今は人口の1パーセントほどが、日本からの移民らしい」

 もともと日本の月面都市なので、亡命しやすいという。よって日本人街ジャパンタウンがあるのか、と朝乃は納得した。

「今の若い人たちは知らないけれど、浮舟20(トゥエンティ)という漫画が、私が子どものころ日本ではやってね」

 翠は懐かしそうに話す。

「アニメ化されて、社会現象にもなった。実写映画もすごくヒットした」

 月面都市の建設には、大勢の人たちが関わる。その人たちの中で、特に大きな働きをした二十人を浮舟20と呼ぶ。その実在の人物たちを扱った漫画だったのだ。

「浮舟20の影響で、子どもたちはみんな宇宙にあこがれていた。特に功は、将来は絶対に火星か木星に行くと思っていたらしい」

「なぜ翠さんたちは亡命したのですか?」

 聞いていいのか迷ったが、朝乃は聞いてみた。火星に行きたいのならば、日本に残り、戦争に勝つように国家に貢献すべきだろう。なのに、戦争をしていない浮舟に亡命してしまうとは。翠は虚をつかれたように黙った。やがて悲しげにほほ笑む。

「すみません」

 朝乃は謝罪した。聞いてはいけない質問だったのだ。翠は苦笑して、首を振る。

「今はまだ、うまく説明できないの」

 彼女は、自分の大きなおなかに目をやった。いとしむように、赤ん坊を見ている。子どもが産まれ大きくなったとき、翠はその子に話すのだろう。朝乃は静かに、翠と歩いた。

 大通りに面したスーパーが見えてきた。入り口は透明ガラスの自動ドアで、多くの人たちが出入りしている。入り口の右手には自転車置き場が、左手には駐車場がある。

 駐車場の方から、手提げバッグを持ったひとりの中年女性がやってくる。彼女は笑顔で、目をらんらんとさせていた。翠は、はっとわれに返る。

「アンナだわ。感傷に浸っている場合じゃない」

 すばやく朝乃にささやいた。アンナという名前に、朝乃はぎょっとする。昨夜、翠と功が話していた、近所で唯一注意しなければならないおばさんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説の更新予定や裏話などは、活動報告をお読みください。→『宣芳まゆりの活動報告』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ