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前日譚――友人

 ふたりで席に座ると、ドルーアは、

「君は浮舟に、――月に来たばかり?」

 と聞いてきた。

「つい先月、日本から浮舟に亡命してきたばかりだ」

 功が答えると、ドルーアはおもしろそうにほほ笑んだ。

「どうりで僕の顔を知らない」

 彼がいきなり日本語をしゃべって、功は驚いた。しかし、ずいぶんとうぬぼれに満ちた発言だ。功は困って笑った。

「君は有名人かい?」

 日本語でたずねる。やはり母国語の方が、会話は楽だ。さりげなく会話を日本語に変えたドルーアは、なかなかに親切な人間だ。それとも彼の母国語も日本語なのか。

「ほどほどには」

 彼は意味深に笑う。いかにも東アジア系という顔だちの功に対して、ドルーアはどこの出身か分かりづらい。移民の国である月らしい外見だった。ドルーアという名前もユニークだ。

「俺は細田功だ。君は?」

「ドルーア・コリント、二十六才だ。役者をやっている。けれど僕の名前をネットで検索しないでくれ。ろくでもないゴシップばかりが出てくる」

 ドルーアはため息をついた。

「ゴシップには興味がないから安心してくれ。――黒石を持って、さきに打ってほしい。そっちの方が有利なんだ」

 功は言った。ドルーアの発言から、彼は初心者だろう。よって彼が有利になるように、黒石を持ってもらう。

「ありがとう」

 ドルーアは礼を述べて、黒石をひとつ取った。有利な条件なんてばかにするな! と怒っている様子はない。うぬぼれた発言をするわりには、謙虚なようだ。

 ドルーアは少し考えてから、黒石を碁盤にことんと置いた。「お願いします」という、試合開始前のあいさつはなかった。おそらく知らないのだろう。功は、白石を人差し指と中指ではさんで、ぱちんと打つ。ドルーアは目を丸くした。

「思い出したよ。祖父もそんな持ち方をしていた。かっこいいな」

 ドルーアは笑って、功も照れ笑いをした。ドルーアは一緒にいて、気持ちのいい相手のようだ。彼の出演しているドラマを観てみたい。

 碁を打っているうちに、観客が増えてきた。全員、ドルーアが目当てだろう。しかし誰も碁を知らないようで、ちょっと観ては去っていく。功とドルーアはほぼふたりきりで、静かに打ち続けた。

 功は翠とけんかして、このバーに逃げてきた。けんかの原因は、つまらないものだった。なぜ自分が、そして翠も、あんなにむきになったのか分からない。

(結局、俺も翠も疲れていたのだろう)

 日本では信仰の自由、集会の自由などが廃止されて、その数年後、星間戦争が始まった。功はロボット製作会社に就職し、国家のために武器を作った。自分の仕事に誇りを持っていた。翠と出会い結婚し、功の人生は順調だった。

 そろそろ子どもがほしいなと思っていたとき、功の人生プランがいきなりくずれた。翠の実家が寺であったことが、会社の上層部に知られたのだ。功と翠は、寺のことを隠していなかった。

 信仰を捨てずに平和を説き続け、警察に捕まる仏教徒やキリスト教徒はいたが、翠の両親はそうではなかった。寺はすでになくなり、彼らは別の仕事についていた。だから翠も功も、軽く考えていたのだ。

 一か月もしないうちに、功は会社での立場がなくなった。あらゆる嫌がらせを受け、周囲からは離婚を強要された。功の父母も、翠でさえも離婚を口にした。

(けれど離婚はできなかった。ただ、できなかったんだ)

 身も心もぼろぼろになった功に国外への脱出を勧めたのは、兄夫婦だった。両親の面倒は自分たちがみるとまで言ってくれた。兄夫婦には一生、頭が上がらないだろう。また、常に功と翠を思いやってくれた翠の両親にも。

 功と翠は、非合法の亡命請負業者に多額の金を払い、日本から逃げた。日本から台湾へ、台湾からアメリカへ、アメリカから月面都市イーストサイドへ、イーストサイドから浮舟へ、二か月以上かけて移動した。

 目まぐるしく日々は過ぎて、英語にも慣れて価値観も変わった。浮舟に着いたら住む場所と仕事を探し、ただがむしゃらだった。今、やっと、ささいなことで夫婦げんかする余裕ができたのかもしれない。功はふっとほほ笑んだ。

(翠に会いたい。会ってすぐに謝ろう。そして一緒に、浮舟での新しい生活を楽しみたい)

 亡命先を浮舟に決めたのは、日本人亡命者が多く、暮らしやすいとの情報を得たからだ。しかしそれ以外にも、ごく単純なあこがれがあった。子どものころ漫画で読んだ、浮舟20(トゥエンティ)たちが建設した都市に、今、功はいる。

 何の脈絡もなく笑顔になった功に、ドルーアがふしぎそうな顔をする。碁盤を見ると、ドルーアは予想以上に下手だったらしい。すでに勝負はついている。が、ドルーアは分かっていないようで、懸命に打ち続けていた。

「悪いが、俺の勝ちだ。試合終了だ」

 功が宣言すると、ドルーアはきょとんとする。

「君は碁を打つのは、ほとんど初めてだろう?」

「いや」

 功の質問に、ドルーアは否定する。

「祖父相手には、いっぱい打った。そして常に勝っていた」

 彼は懐かしそうに笑う。

「祖父は相当、手加減していたのだろう」

「碁はやめて、俺にチェスを教えてくれないか? 俺はチェスを知らないんだ」

 チェスを一戦やって、ドルーアに気持ちよく勝ってもらおう。それから功は、翠のいる家に帰るつもりだ。借りたばかりの家具つきアパートに。

「いや、君の方こそ僕に碁を教えてくれ!」

 ドルーアはちょっとむきになって言った。功は驚く。ドルーアは案外、負けず嫌いだったらしい。

「夜は長い。酒は僕がおごる。何がいい?」

 彼は緑色の瞳を、わくわくと光らせている。功は少しだけ考えた。長居せずに家に帰ると言えば、ドルーアは功を引き留めないだろう。だが、

「確かに夜は長い。俺も、もっとゲームを楽しみたい」

 功の言葉に、ドルーアはぱっと笑顔になった。

「俺の妻をこの店に呼んでもいいか? 彼女も囲碁はほぼ初心者だ。君のいい対戦相手になるだろう」

 ドルーアは、浮舟での初めての友人になるかもしれない。功はすでに彼に、十分以上の好意を持っている。

「それは困る」

 意外にもドルーアは断った。功は首をかしげる。

「僕に会えば、君の妻は僕を好きになってしまう。君とは、いい友人でいたいんだ」

 ドルーアは大まじめにしゃべった。功は彼をまじまじと見た後で、頭を抱える。もしかすると、こいつは単なるうぬぼれ屋のバカかもしれない。

「俺から君にたずねよう、君には今、恋人が何人いる?」

「星の数ほど、と答えるほどに僕は分かりやすくない。太陽系の惑星の数くらいかな?」

 ドルーアは得意げに胸をそらす。

「大いそがしだな」

 功はあきれた。そして翠にメールを送るために、ジャケットの内ポケットから小型ノートパソコンを取りだしたのだった。

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