『屋根裏の悪女は、異界の定食屋で舌鼓を打つ』
先日知り合った友人とお話した時に、原案を頂き触りだけ書かせてもらいました。
カチャリ、と無機質な音が広い食堂に響いた。
目の前に置かれたのは、縁の欠けた安っぽい皿。
その上には、水分が飛びきって石のように硬くなった黒パンと、油膜の浮いた冷たいスープが鎮座している。
湯気はない。
香りもない。
ただ、淀んだ沼のような液体が、じっとこちらを見上げているようだった。
「あら、ごめんなさいエリアナ様。本日の厨房は手違いが多くて」
メイドの言葉には、謝罪の色など微塵も混じっていない。
口元は三日月のように吊り上がり、瞳には明らかな嘲笑が浮かんでいる。
この屋敷では、もう何年も前から常態化した日常風景だ。
「……構わないわ」
私は短く答え、銀のスプーンを手に取った。
冷え切った金属の感触が指先に伝わる。
スープを一口すくう。
舌の上で冷えた脂がざらりと広がり、鼻にツンとくる古びた野菜の酸味が抜けていく。
(相変わらず、家畜の餌の方がまだ栄養価が高そうね)
心の中でだけ毒づき、私は無表情のままスプーンを動かし続けた。
ここで癇癪を起こせば、彼らの思う壺だ。
食堂の扉の向こうから、父と後妻のマルグリット、そして義妹ミナの楽しげな笑い声が漏れてくる。
マルグリットが来てから屋敷の空気は変わった。
甘ったるい毒霧のような、思考を奪う魅了のスキル。
けれど、私には効かない。
なぜなら私の魂には、ここではない別の世界の記憶が焼き付いているからだ。
最後の一口を飲み込み、私は席を立った。
「ごちそうさま。下げていいわ」
背中でメイドの含み笑いを感じながら、私は食堂を後にした。
重厚な廊下を抜け、階段を上り詰める。
私の部屋は最上階。かつては物置だった屋根裏部屋だ。
重い木製の扉を閉め、鍵をかける。
ガチャリ。
その金属音が、世界との断絶を告げる合図だ。
部屋の隅には、埃を被った木箱が積み上げられている。
そこから溢れているのは、先代当主が収集し、忘れ去られた古書の山だ。
この孤独な部屋で、私はそれらの本を読み漁った。
歴史、魔法理論、経済……。
本から得た知識が、前世の記憶と結びつき、私に現状を打破する力を与えてくれたのだ。
私は窓際のスペースを確保し、呼吸を整えた。
空腹感は限界に近い。
あのスープだけでは、胃が怒りの声を上げている。
(さて……お口直しとしましょうか)
私はスッと右手を虚空にかざし、明確な意思を持って声を放った。
「店舗接続」
空中に、青白い光の粒子が走る。
それらは即座に整列し、半透明のウィンドウを形成した。
目の前に浮かぶのは、見慣れた日本語のタブメニュー。
【飲食店】 【小売店】 【入浴施設】 【その他】
私は迷わず【飲食店】のタブを指先でタップする。
ずらりと並ぶ店舗リスト。
その中から、ある一軒を選択した。
ブゥン……という低い唸りとともに、光が収束し、実体のある「引き戸」が現れる。
すりガラスの向こうから、温かい光が漏れていた。
紺色の暖簾には『定食処 あさひ』の文字。
私は自分の服装を見下ろした。
色褪せ、裾がほつれた貴族令嬢のドレス。
この世界の住人である私そのものだ。
この姿のまま向こうへ行けばどうなるか、最初は不安だった。
けれど、今はもう慣れたものだ。
ガラガラッ。
引き戸を開け、一歩足を踏み入れる。
「いらっしゃい……っ!?」
威勢のいい店主の声が、途中で裏返った。
カウンターの中にいた初老の女性が、布巾を持ったまま固まる。
店内にいた数人のサラリーマン客も、箸を止めて一斉にこちらを凝視した。
無理もない。
日本の下町の定食屋に、金髪碧眼、フリルのついた(古びているが)ドレス姿の外国人が入ってきたのだから。
店主の女性が、困惑したように瞬きを繰り返す。
「あ、あの……ハロー? ハウアーユー?」
恐る恐る放たれた片言の英語。
私は小さく微笑み、ペコリと頭を下げて流暢な日本語で返した。
「こんばんは。一人です」
「えっ……!?」
店主の目がさらに大きく見開かれる。
客の一人が「すげぇ、日本語ペラペラじゃん……」と小声で漏らすのが聞こえた。
「あ、あらやだ、ごめんなさいね! 言葉がお上手だからびっくりしちゃって。どうぞ、空いてる席へ!」
我に返った店主が、慌ててカウンター席を指し示す。
私はドレスの裾を少し持ち上げて椅子に座り、メニューも見ずに注文を告げた。
「豚の生姜焼き定食のご飯大盛りをお願いします」
「はいよ! 生姜焼き一丁!」
厨房から肉を焼く音が聞こえ始める。
ジュウウウッ、という食欲をそそる音と共に、焦げた醤油と生姜の香ばしい匂いが漂ってきた。
屋根裏の冷たい空気で凍えていた体が、店内の熱気でじんわりと解れていく。
「お待たせしました!」
ドン、と置かれた盆の上で、主役が湯気を上げていた。
厚切りの豚肉に絡む、飴色のタレ。
千切りのキャベツは山のように盛られ、傍らにはマヨネーズ。
白く輝くご飯と、豆腐とわかめの味噌汁。
「いただきます」
両手を合わせる作法も、ここでは自然に行える。
まずは味噌汁をすする。
カツオ出汁の風味が、空っぽの胃袋に優しく染み渡る。
次に、タレをたっぷり纏った豚肉を口へ。
肉の脂の甘みと、醤油ダレの塩気が口の中で爆発した。
(美味しい……っ!)
噛みしめるたびに、生きる力が湧いてくるようだ。
周囲の客は、時折チラチラとこちらを見ているが、私が黙々と、しかし幸せそうに定食を平らげていく様子を見て、それぞれの食事に戻っていく。
完食し、最後にお茶を飲み干すと、体中がポカポカと温まっていた。
支払いは、以前換金しておいた千円札で済ませる。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました! また来てくださいね、お嬢さん!」
店主の明るい声に送られ、私は店を出た。
引き戸を閉めた瞬間、光の粒子と共に扉は消滅し、冷たい屋根裏部屋へと戻る。
だが、今の私には余裕があった。
満たされた胃袋と、ポケットに残る小銭の重み。
ベッドの下から木箱を取り出すと、そこにはスキルで換金した現代のお菓子や、逆にこちらの世界で換金するための「向こうの世界」の雑貨が隠されている。
(ふふ、あんな冷たいスープ、いくらでもくれてやるわ)
私はふかふかの布団(これも通販で買ったものだ)に潜り込み、目を閉じた。
明日はどのスキルを使おうか。
虐げられた悪女の仮面の下で、私は密かに次の楽しみを画策するのだった。




