✤36
「リゼット!」
屋敷の前に停まった馬車からジスランの手を借りて降りると、すぐさまロジーナが駆けよってきた。見れば泣いていて、ロジーナは泣きながらリゼットを抱き締めた。
「急に出ていくのはやめて頂戴」
リゼットもロジーナの背中に手を回した。こんなにも心配してくれる人がいるのに、馬鹿なことをしたと心底思う。
ロジーナはグスン、と涙を拭うと、そばで眺めていたジスランに言った。
「兄様、お手柄ですわ。でも、リゼットのことは私がしばらくお借りします」
「うん?」
ロジーナはリゼットの手を引いて屋敷の階段を上がると、リゼットの部屋に入るなり扉を閉めた。そこで二人してソファーに腰かけた途端、ロジーナは赤くなった目元を綻ばせた。
「リゼットに兄様の匂いが染みついていますわ」
「えっ?」
「帰りの馬車の中ではずっと寄り添っていたのかしら?」
「えっ、そ、そんなことは……」
なかったとも言えない。
焦ったリゼットをロジーナは楽しそうに見つめていた。
「冗談よ。でも、リゼットがシャリエさんと出ていったと聞いて、兄様が血相を変えて飛び出していかれた時から、兄様の気持ちはわかっていたから。私も、リゼットが兄様のそばにいてくれたら嬉しいわ」
落ち着いて見えたけれど、ジスランはあれでも慌てていたらしい。
そんなふうに改めて言われると恥ずかしい。
けれど、妹のロジーナが喜んでくれることがリゼットにしても嬉しかった。
いつも包み込むように優しいロジーナだから、リゼットはすべてを話したくなる。
多分、話して叱ってほしかった。シャリエを傷つけたのは、リゼットの愚かしさからだと。
リゼットがポツポツと語り終えると、ロジーナは嘆息した。その吐息の音にさえ、リゼットの心臓は破れそうになる。
「それは効果的な復讐方法かもしれないわね」
そんなことを言われた。決して褒めているわけではない。
「誰かを真剣に好きになったことがあれば、どの程度の痛みかはわかるでしょう? 私もバディストからそんな仕打ちをされたら立ち直れないわ。リゼットはどうなの? 兄様が万が一、そのメロディさんという方を選んだら苦しいのではなくて?」
シャリエとメロディが親しげにしていても、リゼットはなんとも思わなかった。けれど、ジスランがメロディと――そんなことはあるはずがないと思いつつも、万が一そんなことが起こったら、それこそ刺すかもしれない。
「今なら自分のしようとしたことがどういうことか、わかるでしょう?」
リゼットはうなずくしかなかった。
肩を落としていると、ロジーナはリゼットの肩を抱き、頭を撫でてくれた。
「復讐はやめにしない?」
「復讐はもう諦めるってジスラン様とも話したの」
それを聞き、ロジーナはさらにリゼットをギュッと抱き締めた。
人のぬくもりには言葉以上の説得力があるものだと、ジスランとロジーナが教えてくれたような気がする。
「それなら、リゼット、これから私と一緒に行儀作法の勉強をしましょう。社交界にもいずれ出るのだから、覚えることはたくさんあるわ。一から覚えるのは大変だけれど、頑張れる?」
「え、あの……」
リゼットが戸惑いながらロジーナに顔を向けると、ロジーナは麗しく小首をかしげてみせた。
「なぁに? リゼットにはこれからもっと自分を磨いてほしいの。もちろん、リゼットは今のままでも可愛くて素敵だけれど、あなた自身がそう思えている? 社交界に出たら美しい女性ばかりよ。そんな中で兄様を盗られずにいられる自信が持てる? 私はリゼットが胸を張って兄様の隣にいられる手伝いをしたいの」
煌びやかな世界で、みすぼらしい自分が縮こまっている姿が想像できる。
そんな間も、ジスランを綺麗な女性たちが取り囲んでいるのだろう。若くして領主であり、騎士の称号を持ち、あの美貌なのだ。狙っている女性はたくさんいる気がする。
「私にできるかしら……」
つい弱気になってしまう。ロジーナのように輝ける気がしない。
けれど、そんなことを口にしてしまってからリゼットはかぶりを振った。
変わらなくては。こんな自分ではジスランに相応しくなれない。
「ううん、頑張る。やってみる。ありがとう、ロジーナ」
労働階級のリゼットだ。これから教えられることが、今は何ひとつ身についていない。
けれど、もし大変だったとしても、それは自分のための努力だ。その頑張りは誰かに搾取されるものではなく、明るい未来へと繋がっている。それなら、そんなものは苦労でもない。
ジスランに恥をかかさないように、リゼットはこれから励んでいきたい。
――それからしばらくして、あんなふうにひどい別れ方をしたシャリエからリゼットに手紙が届いた。
ジスランはあまり読ませたくないようだったけれど、ロジーナは読んだ方がいいと言った。リゼットも、読むべきだと思った。
恨み言なら受け止めようと思って開いた手紙には、上手いとは言い難いけれど実直そうな飾り気のない文字が並んでいた。
それは、シャリエからの謝罪だった。
あの時、メロディが屋敷を辞めて実家に帰ると言っていたというのはとっさについた嘘だと。
そうやって、リゼットを煽らないと一緒に来てくれないと思った。
疚しくて焦って、不安で、自分のことばかりで、リゼットを一番に考えてあげられなかった。
だから、ごめん、と。
「――あの方はリゼットの幸せを願ってくださるのね」
ロジーナがそっとつぶやいた。
シャリエの手紙にはリゼットを責める言葉はひとつもなかった。
もしかして、何事もなくあの屋敷で働き続けていたら、シャリエと夫婦になる未来があったかもしれない。けれど、その日は訪れなかった。
それぞれ別の道を進んでゆく。
リゼットは、シャリエが新たな幸せを見つけることを祈った。




