✤19
リゼットは、庭先でロジーナと一緒に犬たちを遊ばせていた。そうしたら、メイド長がロジーナを呼びに来たのである。
ロジーナはメイド長の話をふんふんとうなずいて聞いていたかと思うと、振り返ってリゼットににっこりと微笑んだ。
「リゼット、少しここで待っていてもらえるかしら?」
「ええ、もちろん」
何も考えずに答えた。願望のままに。
ロジーナたちが去り、庭にポツリ。リゼットとフィン、フリーゼだけがポツリ。
人目がないとリゼットも歯止めが利かず、フィンとフリーゼにデレデレしてしまう。今、客観的に自分を眺めたら、とんでもなく締まりのない顔をしているはずだ。
「もう、可愛い可愛い可愛い!」
リゼットが抱きついても、撫でまわしても、二匹は尻尾を振って、顔を舐めて、喜んでくれている。なんていい子たちだろう。
この二匹と離れがたいばかりに、この家に滞在し続けてしまっている。いい加減に切り上げないといけないと思うのに、なかなか『そろそろ』のひと言が切り出せない。
けれど、ジスランが帰ってきたらそうは言っていられないだろう。それを区切りとしようとリゼットは決めていた。ここにいると幸せ過ぎて、復讐の二文字が蕩けて消えてしまいそうだ。
忘れたらいい。消えたらいい。
他人はそんなふうに言うかもしれないけれど、リゼット当人にとってはそれでいいということではない。
リゼットが忘れたら、メロディたちに天罰が下るのなら忘れるけれど、そんなものは期待できないのだから。
リゼットが内側にドロドロとしたものを抱えていても、目の前の純白の天使たちにはなんの関わりもない。この二匹の前でだけは負の感情に支配されるのをやめなくては。
そう思い直しつつ二匹と戯れた。
その時、ふと視線を感じた。
あまりに夢中で気づいていなかったけれど、ロジーナが戻ってきたのか、メイドが呼びに来たのか。
慌てて振り返ったが、誰もいない。
――いや、いた。
垣根の向こう側に誰かがいる。しかし、その誰かはどうやら庭師のようで、日よけの帽子を目深に被り、しゃがみ込んで薔薇の蔦をいじっている。
はしゃいでいるのを見られただろうか。そう思うと少し恥ずかしい。
けれど、庭師ならば直接ロジーナに報告したりはしないだろう。されて困るようなことでもないのだが、リゼットは犬を前にすると我を忘れるとか報告されると、なんとなく気まずい。
「えっと、そ、そろそろ呼びに来るかしら?」
などと犬たちに語りかけてごまかす。
早く来てくれと思った。なるべく庭師の方を向かないようにする。庭師もまた、リゼットの視界から外れるように、少しずつ離れていった。
ただ、その庭師にもフィンとフリーゼは懐いていたらしい。庭師の後を追いかけて行ってしまった。
「あ……」
人懐っこい犬たちだから、誰にでも愛想がいい。急に周りが寒くなって、リゼットはしょんぼりと肩を落とした。
そうしていると、ロジーナが戻ってきた。隣に寄り添っているのは黒髪の青年、バディストだ。リゼットは慌てて立ち上がった。
「その節は大変お世話になりました。お戻りとは知らず、失礼致しました」
リゼットが硬くなりながら挨拶すると、バディストは柔らかく笑った。ロジーナと久々に会えたから機嫌がいいだけかもしれない。
「いや、足枷も取れたそうだし、よかったね。ここはのんびりとしていいところだろ?」
「ええ、とても」
何せ可愛い犬がいるから。リゼットは嘘偽りなく『とても』と答えられた。
その時、ロジーナは辺りを見回す。
「あら、フィンとフリーゼは? このところ、リゼットに懐いて常について回っていたのに」
「ええ、さっき庭師の方を追いかけて行ってしまったの」
すると、ロジーナとバディストは顔を見合わせた。
「庭師?」
「ええ、背の高い庭師さん」
顔までは見ていないけれど。
二人とも、それだけで誰のことかわかったのだろう。けれど、何故か複雑な表情をしているように見えた。
そんな二人に、リゼットは意を決して言った。
「あの、ご当主のジスラン様もご一緒に戻られたのですよね? すっかり長居してしまったけれど、そろそろお暇しようかと思います。ロジーナ、今まで本当にありがとう。ロジーナと出会えて本当によかった」
メロディたちに裏切られ、アダンに玩具扱いされ、すっかり人を信じる気持ちをなくしていたリゼットに、すべての人間が悪人ではないのだと思わせてくれた。そのことに心から感謝してもし足りない。
ロジーナはすぐに答えるのではなく、唇をギュッとすぼめた。バディストの方が口を開く。
「働くところのあてはあるのかい?」
「これから探そうと思います。このエストレ地方は治安もよいところのようですし、どこか近くの町で働けたら助かるのですが」
すると、ロジーナはリゼットの手を取った。
「本当にもう大丈夫なのかしら? あんな目にあったのだから、リゼットはもっと自分を甘やかしてもよいの。急いで働かなくても……せめて私が嫁ぐまでこのままいてはどうかしら」
そんなふうに言ってくれるけれど、さすがにそんなわけには行かない。ずっと働き詰めだったリゼットだから、ここ数日のんびりとしただけで以前のように働けるか不安になるくらいだ。
「ロジーナの気持ちはすごく嬉しいけど、ジスラン様もお戻りなんだから、ほどほどにしておかないと」
「働くところを決めるのが先決だろ? それを決めないうちから出ていけなんて、事情を知っているジスランが言うとは思わないな。ここで雇ってもらうのもひとつの手ではあるし」
バディストがそんなことを言った。リゼットも、実を言うと少しだけそれを考えた。
犬の世話係が第一希望で、それが叶うなら雇ってほしい。しかし、それは無理だとして、普通のメイドとしてでもここなら人道的な扱いをしてくれるのではないかという気がしたのだ。
ただし、それはリゼットの希望であり、厚かましいことはわかっている。それに、この屋敷では未婚女性は歓迎されないらしい。
「駄目よ、バディスト。リゼットはお友達なの。使用人になんてできないわ」
そういうことを言ってくれるから、ロジーナになら仕えてもいいのだけれど、本人にそういうつもりはないらしい。
「まあ、伝手ならいくらでもあるし、仕事探しもなんとかなるとは思うけど。今ここで押し問答していても仕方ないから、とりあえず屋敷に戻ろうか」
バディストが冷静に言った。事実その通りである。
三人で屋敷の中へ戻ると、元気よくフィンとフリーゼが走ってきた。まだ庭を駆け回っているのかと思えば、屋敷の中にいたらしい。
廊下で二匹はリゼットたちの周りをグルグルと走った。
その時、階段を降りてきたのは、騎士の制服ではなく私服のジスランであった。白いシャツにすっきりと引き締まった体に沿ったベルベットのパンツと編み上げブーツ。飾りけのない恰好ですら輝いて見える。
この屋敷の使用人として未婚女性が歓迎されないのは、皆この主に慕情を募らせてしまうからだというけれど、それが大袈裟だとは言えない。
「兄様! お戻りになったらすぐに妹に顔を見せるものではなくって?」
ロジーナが不満げに言った。しかし、バディストとの再会に浸らせてあげるために、ジスランはあえて間を置いたのではないかと思う。
ジスランは階段を降りきると、ロジーナの前に立った。リゼットはなんとなくその後ろに隠れてしまうけれど、ジスランの目はむしろリゼットの方に向いていた。じいっと、見下ろされている。
まだいたのかと思っているのだろう。リゼットは消えてなくなりたいような気分になった。
あまりにジスランがリゼットを無言で見ているからか、バディストが助け船を出してくれた。
「なあ、ジスラン。リゼットはこの近くで働けるところを探したいんだって。王都よりはいいと思うんだけど」
すると、ジスランはハッと我に返ったような様子を見せた。リゼットは挨拶もちゃんとしていないことに気づき、おずおずと言う。
「お留守の間に長居をさせて頂いてありがとうございました」
頭を下げると、ジスランは小さく、ああ、とつぶやいた。
ロジーナは眉尻を下げる。
「私が嫁ぐまでいてくれてもいいのに、もう働きに出るって言うの。フィンとフリーゼもすごく懐いているし、もう少しいてほしいのに」
この時、ジスランはロジーナに、きりがないからいい加減にしなさいといったようなことを言うと思った。
だから、リゼットはせめて顔を上げて、ちゃんと話をしようとした。もう大丈夫だから、一人で生きていくと。
しかし、ジスランは――。
「そうだな。まだいたらいい」
リゼットは、思わず、え? とつぶやいていた。
それなのに、ジスランは真面目な顔をして続けた。
「もう少しいたらいい。そう急いで働かなくてもいいだろう」
「あら、兄様の物わかりがよくて助かりますわ」
ロジーナはそう言うと、リゼットの腕に自分の腕を絡めてから笑った。
「そういうことだから、もう少しのんびりしましょうよ。ね、リゼット?」
このぬるま湯に浸りきって、リゼットは今後一人で生きていけるだろうか。
不安が募るけれど、恩人のロジーナたちに強くは言えなかった。




