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そんなわけで、リゼットはエストレ地方のカントリーハウスへ招待されることになった。
素直にそれに応じたのは、エストレ地方で仕事口を見つけようかと思ったからである。あの屋敷の誰に聞いても、都会の一人暮らしは危ないからやめなさいと釘を刺された。
悪い男に騙されて売られるとか、道を歩いていたら襲われるとか、散々なことを聞かされ、リゼットの気持ちはすっかり挫けていた。それに比べ、エストレ地方はジスランの領地だけあって、治安はよく穏やかなところらしい。
ジスランはあの若さですでに男爵家当主、エストレ地方の領主であるらしかった。父と兄を一度に亡くし、仕方なくとのことだが、それでも円滑に領地を治めているのだから優秀だ。
エストレ地方へ馬車を進める間、ロジーナはご機嫌だった。
「エストレ地方の特産品は香り高い薔薇なの。その薔薇を使った香水や化粧品、お茶――でも、何よりもその見目の美しさを楽しんでほしいわ。今は見頃なのよ。当家の庭も見事に咲いているから」
「それは楽しみです。ロジーナお嬢様には薔薇がとってもお似合いですから」
世辞を言ったつもりはない。本当に、薔薇に囲まれたロジーナは眩いほどに美しいだろう。
しかし、ロジーナは口を尖らせた。
「お嬢様なんて、その呼び方はいただけないわ」
「えっ」
「リゼットはうちの使用人ではないのよ」
「で、では、何とお呼びしたら……」
さん、とかちゃん、とか、そんな気安い呼び方ができるはずもない。
それなのに、ロジーナはあっさりと言った。
「ロジーナでいいの。お友達は皆そう呼ぶわ」
そのお友達とやらは貴族だろうに。リゼットは卒倒しそうだった。
「い、いえ、その、私がそんなふうに呼ぶのは恐れ多くて」
「それは嫌だということなのかしら?」
なんでそんなにショボンとするのか。そんなロジーナは可愛い。いつもは綺麗だけれど、今は可愛らしく感じられた。
「そうじゃありません。でも……」
すると、ロジーナはパッと立ち直った。表情のクルクルと変わる華やかなお嬢様だ。
「わかっているわ。困らせてごめんなさいね。でも、二人きりの時くらいはいいでしょう? 人前ではどう呼ぼうと構わないわ。でも、二人の時はロジーナと呼んでほしいの。敬称も要らないわ。あまり堅苦しいのも好きではないから」
悪戯っ子のような無邪気さで言う。今までに出会ったどんな人とも違って、まるで物語の主人公のようだ。
それならリゼットは、そんな主役を輝かせる脇役かもしれない。
けれど、それも嫌ではなかった。
ふと、少しだけ笑った。
「はい、ロジーナ」
すると、ロジーナは輝くばかりの笑顔を向けてくれた。
「嬉しい。ねえ、どんな話でも聞くから、たくさんお話しましょうね」
「ありがとう」
ロジーナは、リゼットと友達になったつもりなのだろうか。
まるで違う二人だ。そんなものになれるとは思わない。
けれど、少なくともリゼットはロジーナに恩を感じているし、好きだ。憧れる。
そう遠くないうちにロジーナは嫁ぐのだから、それまでのちょっとした道楽ではあるのかもしれなかった。
それくらいがいいとも思う。あまりに長く接し、互いに失望して別れるよりは、綺麗な思い出を保って別れたい。
友達に裏切られて、リゼットは人を信じることに臆病になった。こんな自分は、きっと、いつまで経っても独りのままだ。
その孤独に慣れていかなくてはならない。どうしたら人は、強くなれるのだろう――。
朝、王都を出立してからすっかり日が暮れる前にはカントリーハウスに着くことができた。これほど長時間馬車に揺られていたのは初めてだけれど、ロジーナが楽しく話しかけてきてくれたから、疲れたとも思わなかった。
リゼットが働いていた屋敷は町の中であるから、規模は大きいとは言っても平民の家と比べれば大きいということであり、領地にあるカントリーハウスがどういうものかは人伝に聞いたことがある程度だった。だから、馬車が門を潜って今に停まるのだと思ってからが信じられないくらい長かった。
「さあ、着いたわ」
ようやく馬車が停まり、ロジーナはうきうきとした様子でリゼットに微笑む。
馬車の戸が外から開かれ、柔らかな光が車内に差し込んだ。本当にそれは明るい、清らかな光に思われた。
しばらく地下に閉じ込められていたリゼットは、今でもジスランやロジーナを育んだこの地方の光が眩く感じられる。
気後れしていると、ロジーナはさっさと馬車を降りた。御者にエスコートされ、リゼットも馬車を降りるしかなかった。
そこで玄関先にずらりと立ち並ぶ使用人たちにリゼットは圧倒された。
数が多い。リゼットがいた屋敷の倍近くいるのではないだろうか。
「お帰りなさいませ、ロジーナお嬢様」
使用人たちの頂点であろう家令が恭しく首を垂れると、すべての使用人たちがさざ波のようにしてそれに倣う。リゼットは、そちら側の人間なのだ。それが何故かロジーナの後ろにいて、一緒に頭を下げられている。おかしなものだ。
「ただいま。お友達を連れてきたの。しばらくここに滞在するから、そのつもりでお世話をして頂戴ね」
内心であたふたとしているリゼットだったが、顔には出ていなかっただろうか。精一杯丁寧に挨拶をした。
「リゼット・ルグランと申します。よろしくお願い致します」
ガチガチに固まっているリゼットに腕を回すと、ロジーナはそのまま屋敷の中に案内してくれるのだった。
「我が家だと思ってゆっくりしてくれていいのよ」
「あ、ありがとう……」
そう答えつつも、さすがにそんなわけにはいかない。
こんなに煌びやかなところが我が家だったことなどないのだから、そんなことを思うわけがない。繊細な織物の絨毯の上を歩くと、向こうから軽やかな足音がした。
「フィン、フリーゼ、ただいま!」
ロジーナは嬉しそうに両手を広げる。リゼットは正面からやってきた生き物に見惚れた。
それは二匹の真っ白な犬であった。
白という染まりやすい毛の色をしていながらも、何色にも染まらずに光を放つほどに純白の毛をした犬たち。
どちらがどちらなのだかはわからないけれど、大型と小型の白い犬だ。大きさが違うので犬種は違うのだろうけれど、どちらも白い。目と鼻だけが黒く、艶々している。
ここへ来てよかったと心底思えた瞬間である。
リゼットは、犬が大好きだった。




