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討ち死になんて勘弁な  作者: 悠夜
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 76 関城の戦い…終了…

 まだ関城は落ちないので、この時間を利用して東美濃の調略を手助けするか…

 正直、東美濃の連中には、良い印象など無いけどな!…与力の分際(ぶんざい)で、於勝ちゃんに逆らいやがって…


 肥田(ひだ)忠政と久々利(くくり)頼興(よりおき)

 どちらも本能寺の変の後に(森家に対して)反旗を(ひるがえ)しているが、肥田忠政は宇佐山城での籠城戦を頑張ったので、まあ赦してあげよう…今は…

 関城での戦いの後、早々に臣従を申し出て、もう領地安堵されちゃってるしね。

 ただし久々利頼興、テメーはダメだ!

 そのうち潰す。

 森家が東美濃を任されたら、なんとかして潰す!


 そんな奴らより、あの弓兵だな。

 今までの話からも九分九厘、大島光義だとは思うが、60歳手前であの弓の腕前、是非とも森家に欲しい人材だ。

 まあ違って(ただ)のモブ兵士だったとしても、あの弓の腕なら家臣に加えたいが。


 この後、殿が大島光義をスカウトするだろうから、それより早く交渉してみよう。

 ただ、まだ親父が金山城を手に入れていないので、大した額は出せないのが問題だが。

 将来を見越して大金で召し抱えて、金山城を貰えなかったら大変だし、貰ってからなら殿に召し抱えられているだろうからな。

 美濃制覇後に、100貫目()しくは600貫目の土地だったはずだから、初めはもう少し安いはず。

 100貫目も出せるかなぁ~。600貫目は絶対無理だな。


 とか考えていたら、関城の長井隼人は織田軍の数と内通の危険から籠城を諦め、稲葉山城へと落ちていったとの一報が入った。

 まあ、仕方ないので調略は諦めよう。


 その後、肥田忠政は史実通りに真っ先に臣従を申し出て赦されてしまった。

 肥田忠政の治める米田城の更に東にある烏峰城跡を改修し、親父が受け取ることが決まったそうだ。

 東美濃の抑えと、対武田の為だな。


 本来の歴史通りなら破却されるはずの関城には、史実で佐藤家の養子に入るはずだった斎藤新五殿が入る。


 堂洞城は破却され、岸三郎兵衛殿は馬廻として小牧山城へと移っていったが、その息子の新右衛門は森家へと仕官した。

 兄親子は討ち死にしたのに自分は降伏を決意したり、幼い当主の後見人となったりで、まあ色々あるのだろう。


 塩河城の可児氏は、関城の陥落が決まったあたりで臣従しにやって来た。

 まあ、ギリギリセーフとしよう。

 元々家臣になるのは知っているから、ついでに勲功目当てに、こちらから働きかけただけだし。



 この後ずっと森家の家臣でいる可児氏は、どうでもいいとして、とりあえず烏峰城が住めるようになるまでに、久々利氏を滅ぼすまでいかなくとも領地を削りたいな。

 将来、於勝ちゃんに反乱起こすからな、アイツ。

 でも、今すぐ滅ぼしたとしても、ウチの領地にならないよね?

 切り取り次第じゃないんだし…

 たが、なんとかして領地を奪えないかなぁ。

 今は無理だが、反乱でも起こしてくれないかなぁ。



 だが結局、久々利頼興は、烏峰城の普請をする事と引き換えに、織田家に臣従する事になった。

 ちっ、残念…

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― 新着の感想 ―
[一言] 既に随分史実とずれてしまったね。 この先が大変だ
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