Ep-663 激情
「あ、ああ...」
誰かの声が響いた。
それがユカリの声だと気づいたのは、彼女が周囲の水の冷たさを感じるようになってからだった。
――――愚かな神よ...人間を庇うなど
誰かの声が聞こえた。
だが、ユカリにはそんなことはどうでもよかった。
「水神っ...!」
「ご無事......ですか...?」
水神は不定形の存在だ、しかしブレスは水神の中枢を司る部位を破壊した。
ユカリにできることはもう、ない。
「〈魔皇之再誕〉!」
一縷の望みをかけて〈魔皇之再誕〉を使っても、水神の体は元に戻らない。
「〈魔皇之再誕〉! どうして...っ、〈魔皇之再誕〉!」
無理だと頭ではわかっているのに、彼女の体は止まらない。
――――愚かだな、ハハハハハハハ!!
笑うな。
そんな感情を込めて彼女が握り締めた拳を、水で出来た手が掴んだ。
「水神...」
「あなたを守れて、よかった.........」
「どうして...」
水神の体が消え始め、ユカリは肺に水が入ってきた事で困惑する。
だが、その苦しみはすぐに失われていく。
「まさか...水神の権能...?」
「全ては...我々の罪...あなたと共に、もう少し歩めれば良かったのですが...」
自分に水中で活動できる権能が使えるということは、水神が消滅し始めたということである。
それに気付いたユカリは、身を震わせた。
「...」
彼女自身、水神にそんな感情を抱くなどということは考えていなかった。
ただ、こんなに急に失う事を考えてもいなかったのだ。
「待って、行かないで!」
「ルシ......よか...」
ユカリはその場に蹲って、首を振る。
甘く考えていた。
〈魔皇之再誕〉があれば、失わずに済むと。
しかし、どんなに力を手に入れても...その手から、大切なものはこぼれ落ちていく。
「いやだ...」
膨れ上がった憎悪、悔恨、宛ての無い激怒。
それらがユカリの中で膨れ上がる。
「うわぁああああああああああっ!!」
――――我の、目論見通りよ
そして、深淵の底から声が響く。
ユカリの負の感情を食らった黒龍が、四氣のバランスを乱す。
「殺す、殺す...!」
ユカリの目が狂気に染まる。
黒龍がその身を奪い取ろうとしたその時。
「ころ...」
ユカリの放っていた闇の波動に、光の粒子が混じる。
邪気を抑えるために、聖力が膨れ上がる。
神々が託した想いが、花開いた。
「慈愛の――――
白き翼が光を放つ。
聖力の源であったゴッドブレスとセイクリッドフォースが消滅し、ユカリの聖力の枷が外れたのだ。
癒光...ッ!』
満ちた光が、水神の残滓を包み込む。
そして、水神の身体が、容易に再生した。
――――馬鹿な、あり得ん
海神が、無表情を崩し狼狽える。
精霊とは概念である。
それが消滅したとあれば、それは不可逆の存在を癒したという事。
――――貴様、何者だ!
海神の怒気を纏った問いに、ユカリは答える。
「......お前」
問いは答えで返される事はなかった。
水神を失わずに済んだ、そんな安堵と共に、ユカリは負の感情を抑え込んだ。
そして、最後に残ったのは。
「私の...」
その後に続くのは、どのような声だったか。
『俺の...』
『我が...』
そんな声が、どこかで響く。
そして海神は、不思議な既視感を覚える。
ユカリの姿に、かつて見た強敵の影が、重なった。
「仲間を、害したな!」
かつてない敵意を込め、ユカリは海神を睨み付ける。
その凄まじい激情に当てられたのか、海神が少し後退する。
「許さない!!」
――――その危険な力、放置するわけには行かぬ。滅ぼしてくれる!
憎悪とも、怨恨とも切り離された激情。
仲間を、大切な存在を害された事による怒り、それを湛え、ユカリは一歩踏み出した。
「契約...者...」
水神は、消えたはずの自分の体を不思議がる事もせず、静かに怒る契約者を見上げた。
「ギリッ...」
「ひっ」
水神が恐怖で後退する。
ユカリは歯を食いしばって、殺人者の目で水神を見たのだ。
どれだけ怒り狂っているかもわからない。
「...魔皇剣」
ユカリは魔皇剣を出す。
黒龍刀と同じく、白く染まっている。
「〈神聖武器化〉...!」
ユカリが呟くと、その両手の武器に変化が起こる。
武器全体に、水色のラインが走り、より武器が重厚な形へと変形していく。
「行くよ」
直後、海神の体が吹き飛ばされる。
その体には、確かに傷が入っていた。
――――あり得ぬ!
「...神は邪気に弱いんだね」
そう言って痙攣するようにユカリは笑う。
黒龍刀の邪気が、ユカリを蝕むことなく増幅され、海神の肉体に明確な損傷を与えたのだ。
――――――その力。やはり、生かしてはおけぬ...!
ユカリに周囲の水が、彼女を押し潰すように動く。
だが、ユカリは抵抗しない。
その代わり、周囲の水の制御が徐々に奪われていく。
――――馬鹿な、水神の力無しでそんなことを.....
「うぁあああああああああああああ!!」
魔力、神聖力、邪力、気力。四つの力が眩い輝きを放つ。
「〈四氣崩爆〉」
四つの力が急速に押し込められ、反発によって周囲に混じった海神の気を押しのけていく。
そして、その神聖技の名の通り、理を無視して押し込められた四氣が、衝撃波となって海中を蹂躙した。
――――最早、容赦する気はないという事かっ!
圧倒的な威力の衝撃波は、容赦なく海底遺跡を吹き飛ばし、分厚い天井をもバラバラに砕いた。
水面を映していた天井が破壊され、冷たく重い海水が都市に墜ちてくる。
――――死ねぇ!!
「〈誘雷煌爆〉!」
ユカリに喰らいつこうと襲い掛かった海神だが、ユカリの周囲に発生した魔力の機雷原に真っ向から突っ込み、邪気を纏った爆発によって傷を負っていく。
――逃がさんぞ!
「黙れ! 千刃迅撃!」
ユカリの放つ斬撃を躱しながら、海神はユカリへと迫る。
「――――空転・追憶」
ユカリはそれに慌てることなく距離を取り、黒龍刀と魔皇剣を重ね合わせる。
「〈万軍界滅〉」
幾度となく神話の時代に放たれた技。
水神はその名を聞いたとき、震え上がった。
二つの、臨界まで力を高められた武器の矛盾同士がぶつかり合い、それから放たれた斬撃。
それは、海水を瞬く間に蒸発させ、海神の頭と尾以外を吹き飛ばした。
直後に空間の歪みが断裂を引き起こし、耳を劈く轟音と共に、幻想海域の大半を飲み込んで爆発した。
「ふぅ.....はぁ.....はぁ........!」
何もなくなった場所に、周囲から海水が流れ込んでいく。
そのうえで、ユカリは佇んでいた。
怒りは少しずつ収まり、そして冷静に見据える。
目の前で、再生を試みる海神を。
「契約...者。頭は、冷えましたか?」
「うん、凍りそうなくらいだよ」
ユカリはそう言って薄く笑う。
彼女の中で、海神は「説得が難しいのであればなんとか倒す対象」から「どんな犠牲を払っても必ず殺さなくてはいけない対象」へと変わったのだ。
そしてそれは、海神も同じ。
ユカリを「生贄であり、自分に服従するべき」対象ではなく、「自らの身の安全のために必ず排除する対象」へと。
互いに引けない戦いの火蓋が、切って落とされる。
――――――――――死ねぇ、ルシファァアアアアアアア!
「海神っ!」
二つの強大な力が、海上で激突するのであった。




