第一話 日本人記者銃撃(2010年、4月10日)
体験者・続 真明 文・川瀬 白帆
私の名は続真明。日本人。年齢……そろそろ白髪が気になる頃。1997年からバンコクで暮らしている。
これは、私が2010年バンコクで、実際に体験した赤シャツ騒動の記録である。
バンコクにおいて、四月は真夏である。暑い……理不尽なくらい暑い。額から滝のように汗が流れ、目を開けていられないほどだ。
一方タイの人たちは、汗の出方が日本人と全く違う。身体の作りが熱帯民族だから、汗腺の数が多くて少しずつ汗をかくので、滝のような汗にはならない。ようするに、霧吹きで吹いたような状態……だから揮発しやすい。
日本人の汗はダラダラ流れるから揮発しにくく、効率よく熱をとってくれない。おまけに陽射しはギラギラ、まるで雨季のスコールのように天から降り注ぐ。
それを遮るために、女の子はみんな日傘をさす。日焼けしやすいタイでは、むしろ北国の人よりも白い肌に憧れる傾向があるようで、女も男も色白の方がもてるのだ。
新たに立ち上げる事業のため、暑さにめげながらもバンコク市内を駆けずり回っていた私は、プラティナムのパンティックプラザで、その日遅い昼食をとった。
牛の血を入れたそば、クイッティエオ・ナムトック……牛の血と聞いて驚くかもしれないが、タイのそば屋ならどこにでもある、ありふれたメニューだ。
この料理は、牛の血が凝固する寸前で火を止めるのがポイントだ。
作り方を見ていると、まず麺を茹でてどんぶりに入れる。次に大鍋の中で、ひしゃくですくったスープに、小さなひしゃくですくった牛の血をピュッと入れ、ぐるぐるかき回しながらあっためる。そして血が凝固する寸前に鍋から出して、麺の上からかける。
これに好みで、砂糖と酢漬けの唐辛子をかけて食べる。何もかけなくてもおいしいが、私はたっぷりかけて、甘さと酸っぱさと辛さが絶妙にバランスされるようにうまく調整する。
甘酸っぱさがたまらなく食欲をそそり、牛の血がスープにコクを与え、滋養強壮の効果ももたらす。暑さにバテた時にはぴったりのメニューだ。値段は三十バーツ(約九十円。当時のレートは、円の約三分の一)。
タイに来た折にはぜひ味わってもらいたい、私のおすすめの一品だ。
パンティックプラザは、バンコクの電脳街として知られている。一つのビルが、秋葉原の電気街みたいなミニ店舗の集合体になっていて、怪しげなショップがひしめいている。
PCパーツや、海賊版ソフトが氾濫し、日本人が歩いていると、「エロビデオ、エロビデオ、しゃっちょさん」などと、日本語でしつこく声をかけられたりする。
このビルの二階にあるフードコートは、セルフサービスで好きな料理を選んで食べられる。日本の大型スーパーにあるフードコートと、ほとんど同じシステムだ。そこでナムトックを食べていた時、私は奇妙な噂話を耳にした。隣の席にいたタイ人たちの会話が、自然と耳に飛び込んできたのだ。
要約すると、こんな内容だった……。
反独裁民主戦線、UDD(通称、『赤シャツ』)のラーチャプラソン集会会場で、ステージ裏に安置されていた仏像が、今日の昼頃、誰も触ってないのに突然倒れて、真っ二つに割れてしまった。
この仏像は、デモに出発する前に幹部たちが蝋燭をともして、無事を祈っていたことで知られていた。赤シャツデモ隊の間で、これは不吉の前兆ではないかと、不安が広がっているという。
噂話をしていた連中は、赤シャツのことを快く思っていないようで、これは天罰に違いないと笑っていた。この件は翌日の新聞にも載ったから、実際にあったことらしい。
赤シャツデモ隊と、タイ警察及び国軍は、もう一ヶ月ほどに渡って、市内随所の目抜き通りで小競り合いを続けている。
毎年のようにクーデターや反政府運動が起こるタイで、こうした騒動に慣れっこのはずのバンコクっ子たちも、こうも長くこう着状態が続くとほとほと嫌気が差してきて、良くも悪くも事態が動くことを望んでいた。それに、この騒動は特にタイの主要産業である観光業に、多大な悪影響を及ぼしていた。
しかしこの時点で、今回の赤シャツ騒動を深刻に受け止めていた者がどれだけいただろうか? 私も、またいつもの小競り合いぐらいにしか考えていなかった。
その夜九時頃、へとへとになって帰宅した私は、自宅マンションの一階にあるマッサージ屋で、フットマッサージを受けていた。
タイマッサージの一種であるフットマッサージ、いわゆる足裏マッサージは、近年日本のテレビのバラエティー番組で、罰ゲームに使われて知られるようになった。
もちろん本場のフットマッサージは、決して罰ゲームなどではない。このイタ気持ちよさは癖になる。たった二百バーツで、一時間も至福の時を味わえるのだ。ちなみに普通のタイマッサージは、二時間で三百五十バーツほどが相場。
フットマッサージは一時間、普通のマッサージは二時間というのが、タイマッサージの基本。そう聞くと、たいてい日本人は、『え、そんなに長いの?』と首を傾げるけれど、実はもう二時間追加してもらいたいぐらい気持ちがいい。
そのマッサージ店は、奥に向かって簡素なベッドがズラッと並んでいる。フットマッサージ用の長椅子もあるけれど、私は疲れたからあえてそれには座らず、マッサージ用のベッドに身を横たえた。
客は私一人だけ。マッサージ嬢は若い女の子で、マッサージに関してはとびっきりの技術と才能を持っているけれど、残念ながら天は二物を与えずという格言がぴったりの子だ。
壁には、王様とお妃の写真(タイの店では、どこでも必ず飾ってある)と共に、店主の息子が出家した時の写真が掛けてあった。タイの男性の間では、一生に一度は出家するという習慣があり、期間は数週間から数年までまちまちだ。もちろん、日本と同じ意味で出家する人もいるけれど、日本で言うところの出家とはちょっとニュアンスが違う。
店主は未亡人で、息子は二十歳ぐらい。実は彼女には、現在日本人の愛人がいる。定年退職して、バンコクに住み付いたその愛人から出資してもらった金で、この店をオープンしたのだ。
店内にはテレビが一台あり、見る気もしないタイのメロドラマが流れていた。マッサージが始まってすぐ、そのドラマが臨時ニュースに切り替わった。
この時アナウンサーが語ったのは、コークウア交差点にて、軍と赤シャツとの間で事実上の市街戦が勃発。1人死亡した模様というニュース速報だった。
デモ隊側がガスボンベを爆発させた事がきっかけで銃撃戦が始まり、デモ隊側が使用した爆発物によって、軍関係者20人前後が負傷。死亡したのがどちら側かは不明……。
私はそのニュースを見て、『またかよ、いよいよ死人が出たか』と、少々うんざりした気分になった。
それから三十分ほどして、また画面がニュース速報に切り替わった。
今度はアナウンサーが、「銃撃戦で、日本人カメラマンが死亡。詳細は現在確認中!」と語った。
マッサージ嬢が、思わず叫んだ。
「ありゃー、日本人も撃たれたよー!」
私もびっくりして、顔を上げてつぶやいた。
「え、日本人が死んだの?」
私はこのニュースを見て、初めて日本の報道人もバンコクに取材に来ていたことを知った。今回のタイの混乱は、国際ニュースでは大事件として扱われ、欧米の報道人は大挙してバンコクに押しかけてきていたが、国際情勢に無頓着な日本では、ほとんど報道すらされていないと聞いていたからだ。
いくらタイのことには無関心の日本でも、これは騒ぎになるに違いない。私はそのなじみのマッサージ嬢と、この話題で盛り上がった後、自宅に戻ってテレビをつけた。
ところがこれだけの大事件にもかかわらず、もう臨時ニュースは終わっていて、どのチャンネルものんきに通常放送をしていた。もしかしたら、政府の報道規制が入っているのかもしれない。
そこで私は、インターネットニュースを見た。すると、死亡したのはロイターの記者でヒラモトヒロユキさん。現時点で、負傷者296人、死者5人と出ていた。
それからしばらくして、テレビの通常放送が突然王様の写真に切り替わった。『タレーン・カオ』だ。垂れ幕を背景に、政府の広報官が厳かに語り始めた。
タレーン・カオとは、地上波全チャンネル一斉の緊急放送。ただし、臨時ニュースとは違う。政府声明の発表の場だから、政府の言いたいことだけを一方的に伝える。
この時、政府広報のアナウンサーが語ったのは、赤シャツデモ隊の暴挙によって、コークウア交差点で多数の死者が出たということ。デモ隊側は武装していて、軍はゴム弾やガス弾を使用していたと主張していた。
さらに十一時半頃にはアビシット首相が登場して、政府には他に選択肢がなかったと弁明した。
タレーン・カオではなく、各局製作の臨時ニュースも流れ始めて、刻々と新情報が入ってきた。銃撃された日本人の正しい名前は村本博之さん、四十三才。コークウア交差点付近で、軍と赤シャツの衝突に巻き込まれ、左胸を撃たれたということがわかった。
タイでは日本と違って、テレビやインターネットに政府の規制が入る。しかし中国などとは違い、一応は民主主義の国、反体制の赤シャツ側も、堂々と自分たちの主張を訴えるチャンネルを持っていて、ケーブルテレビやネットで見ることができる。
日本人は、政府がマスコミに干渉するなんて、タイはやっぱり後進国だと蔑むかもしれない。しかし海外から日本を見ると、日本のメディアはあからさまに偏向したニュースを伝えているし、NHKのニュースでさえ、見ていて政府のしがらみや国際情勢の影響を強く感じて我慢がならない。特にアジアの覇権を握ろうと画策し、最近横暴ぶりが目に余る某国に対する気のつかいようは、危機感すら覚える。
これは、私個人の意見というより、タイ在住日本人の多くが抱いている感想だと思う。海外で暮らしていると、日本にいた時には見えなかったことも見えてくるのだ。
翌日になると、テレビで緊急特番やタレーン・カオが放送される時間がどんどん長くなっていった。日本大使館から、注意を喚起する緊急一斉メールも届いた。
確認された死者も、21人に増えた。村本さんのほか、軍兵士が4人、赤シャツ側が16人で、負傷者は858人に達した。
現場の生々しい映像もテレビで流され、事件の概要が徐々に明らかになってきた。ニュース映像を見る限り、現場は戦場だった。
特に衝撃的だったのは、赤シャツの男が頭を撃たれる瞬間を撮影した映像だ。しかもこれは、タレーン・カオで流された。
タイでは、猥褻画像に対する規制は厳しいが、なぜか残酷描写には寛容で、テレビでも雑誌でも、日本では考えられないような血なまぐさい画像が平気で流される。プライバシー保護の観念もないから、遺体の画像だってぼかしなど入らない。
タレーン・カオで見た映像は、だいたいこんな感じだった……。
道路で警官隊、軍隊と、赤シャツデモ隊が、すさまじい勢いでぶつかり合っている。前方には民主記念塔が見えているから、場所はディンソー通りだと推測できる。
兵士たちが道路を前進している中で、いきなりパン、パーンと激しい破裂音がして、花火のように明るく閃光がはじけた。
これはM79、グレネードランチャーが撃ち込まれたようだと、広報官が語っていた。それで兵士たちは、蜂の巣つついたような騒ぎになり、退却を始める。道路に横たわる兵士の死体、仲間に引きずられる血まみれの負傷兵、苦痛にうめき声をあげている。目を背けたくなるような惨状が映し出されていた。
画面は、今度は赤シャツ側が集まっている通りの場面に切り替わる。赤旗の旗竿を持った赤シャツの男が、群集の中に立っている。銃声がパンパンパンと聞こえるが、その場所は戦闘地域ではなく、人々は普通に往来している。
何かを胸の前で抱えた黒い服の男が、カメラの前を横切った。その男が画面右に見切れる直前、赤旗を持っていた男が、画面左、ややカメラ寄りに向かってバタッと倒れる。すると黒い服の男が再び画面に現れ、頭を下げた姿勢でカメラ方向に向かって走りながら、画面右に消える。
倒れた男にカメラが寄っていくと、男の頭はまるでスイカのように割れていて、どろどろになった脳や髄液が流れ出し、周りにいた人たちはパニック状態になる。
この映像を見せながら、広報官が解説した。
「赤シャツの人が撃たれたから、軍隊がやったんじゃないかという噂が流れていますが、この映像を見て、はっきり軍人がやったんじゃないことがわかりますね……ここ、黒い服の男が、画面左から入ってきましたね……」
広報官はところどころで映像を止めて、レーザーポインタで画像を指し示しながら語った。
「はい、ここで撃ちました……ごらんの通り、この男は軍服を着てないですよね」
撃たれて倒れた男の額から上は、完全になくなっていた。普通の弾丸ではこうはならない。恐らく、炸裂弾を使用したのだろうと解説していた。
しかし客観的に見ると、この映像には、黒い服の男が発砲した瞬間は映っていない。赤旗の男が撃たれた時、黒服の男はカメラに背中を向けている。この男が撃って逃げたと言われれば、そう見えなくもないが、むしろ赤旗の男が撃たれたことに驚いて逃げたという説明の方がしっくりくる。なぜなら男は逃げる時に、自分も撃たれないように身を屈めて走っているからだ。
しかも映像をよく確かめると、男が抱えているのは銃ではなくて、バイクのヘルメットにしか見えない。
このように偏向しているが、タレーン・カオでは現場検証的なこともやった。
日本人記者が撃たれた時の映像も振り返って、広報官が、「軍人はM16を連射していません。このように、軍隊の発砲した音は、パン、パン、パンと一発ずつ離れた音です。連射じゃないし、人民に向けていません。威嚇して、けん制するだけのものです。本当に撃つ場合は、連射してブルルルル、ブルルルルという音になります」と主張していた。
それから、現場にいた軍の将校が、赤シャツは非道なやつらだ、政府は正しいなどと主張した。もちろんタレーン・カオは、政府の正当性をアピールする場でもあるので、そういったインタビューの放送には、けっこう時間を割いていた。
アビシット首相も、冷静になるようにと、何度もテレビで市民に訴えかけた。
日本人記者は、軍隊からの発砲に当たったと一般的には言われている。デモ隊と軍隊が衝突した最前線の、赤シャツ側にいて撃たれたからだ。しかし、そうは断言できない部分もある。
そんな危険なところにいたのに、彼はヘルメットも防弾チョッキもつけていなかった。他の外国メディアの記者の多くはつけていたから、日本人の危機意識のなさや、安全管理のずさんさを指摘する声もあった。
旗を持った男に関しては、軍隊にやられたんだとか、いや赤シャツの自作自演だとか、色々噂が流れたが、結局犯人は謎のまま。村本さんの件と同様に、政府とUDDは、お互いに相手が犯人だと主張し合っている。
またこの頃から、夜になると武装した謎の黒服集団がどこからともなく現れ、赤シャツに加担して軍隊を攻撃するという情報が流れ始めた。実際この晩も、複数の武装した黒服男の映像がマスコミによって撮られている。
黒服の正体については、実はセー・デーンの手下じゃないかという噂が流れた。セー・デーンこと、カッティヤ・サワディポン陸軍少将は、現役軍人でありながら堂々と赤シャツ支持を表明し、部下を大勢引き連れてUDDに合流した鷹派で知られた人物だ。
アビシット首相も、赤シャツの中にテロ集団が紛れ込んでいる、今後は一般市民のデモ隊とテロ集団を分けて対処する方針だと、テレビで明言した。これは暗に、セー・デーンを牽制した発言だ。
ただし、私がこれらのニュース映像を見たのは、事件後二日目の晩までだ。四月十三日に、いったんバンコクを離れてしまったからである。
ソンクラーン
ソンクラーンはタイ歴の正月で、この年は四月十三日から十五日までが連休になった。日本では、水掛け祭りとして知られている。
タイが一番暑いこの時期に、人々が無礼講で断りなしに水を掛け合う。水鉄砲から、果ては消防ホースの放水まで使用される。
バンコクの街角で、楽しげに水を掛け合う人々の姿が、タイの風物詩として、毎年日本のニュースでも紹介されるから、ご覧になった方も多いだろう。
タイに来た当初こそ、私もこのバカ騒ぎを楽しんだが、十三年もここで暮らしていれば、逆にうっとうしく感じるようになる。
出かける度にずぶ濡れになって、着替えるのが面倒くさいし、外国人は特に標的にされやすいから、むしろ外出を控えるようになってしまう。
なにしろ無礼講というよりは、普段虐げられている人たちが、リッチそうな人に一矢報いるチャンスだと捉えている節があるのだ。
だから私は、例年この時期にバンコクを脱出する。もっともタイの人たちにとっても、ソンクラーンは正月休みだから、故郷のある人はみんな帰省してしまうので、正月の東京と同様に、バンコクは閑散としてしまう。まぁ、気候を考えると、正月よりお盆に例えた方がしっくりくるけれど。
政府とUDDの衝突も事実上一時休戦となり、この時ばかりはぽっかりと穴の空いたような平和な時が、バンコクを包み込んだ。
私は日本人の友人二人と、四月十三日から二泊三日で、カンボジアのカジノへ遊びに行った。
実は私は博打が大好きで、カンボジアのカジノへしょっちゅう行っているのだが、この時は気分を変えて、いつもの行きつけのカジノではなくて、初めての場所に行ってみた。
タイタンキングスカジノは、カンボジアとベトナム国境の、秘境と言っても差し支えのない場所にあった。ともかく遠かった。
私たちはまず、飛行機でプノンペンに行った。するとカジノから空港まで、でかい乗用車で迎えに来ていた。車は私たち三人だけを乗せると、カジノに向かった。
目的地まで、三時間半もかかった。でも送迎は無料。着いた場所はど田舎だったから、そうでもしないと客を呼べないのだろう。
後になってから私は、その場所はプノンペンから車で行くよりも、ベトナムまで飛行機で行って国境を越えた方が断然早いということに気づいた。
国境の何もないところを車で突っ走って行くと、ジャングルが開けて、忽然と何軒かのカジノが現れる。見た人が圧倒されるような、巨大でど派手な建物だ。けれど、やっぱりラスベガスと比べると垢抜けていない。しかしそれなりに清潔で、サービスは行き届いていた。
従業員もホステスも、美人が多かった。場所柄、ベトナム人とのハーフの子がいっぱいいた。ただし、私たちの目的はあくまでもカジノで、色気はなしだ。
特に、ホテルは素晴らしかった。一泊八十ドル、日本の感覚だと安いが、このへんぴな場所を考えると有り得ない値段! 超高級ホテルなのだ。それだけに清潔だし、豪華で素晴らしい部屋だった。
従業員一同、日本人がここに来たのは初めてだと大喜びで、大歓迎してくれた。帰り際には、サプライズも用意されていた。突然、ホテル代をタダにしてくれると言い出したのだ。その代わりまた来てねと、笑顔で送り出してくれた。
カジノで少し儲けさせてもらった上に、ホテル代までタダになり、私は極楽気分で帰ってきた。バンコクの事態の深刻さも知らずに……。
ディンソー通りの惨劇
ここで、日本人記者が射殺された四月十日土曜日に、バンコクで何が起こったのか、事件の全体像を日本の読者にもわかりやすいように書いてみようと思う。
ただし、ここで書くことは、新聞やテレビなどあらゆるソースから得た情報をまとめたものであり、私自身が直接目撃したことではないということを、了承した上で読んでいただきたい。
四月十日の騒動では、バンコクの重要な場所が三つ登場する。一つ目が、ラーチャダムヌーン通りのパーンファー橋。
ラーチャダムヌーン通りは、王宮に続くどでかい通りで、並木道を挟んで片側六車線もの広さがある。実用のためというより、タイの威信と王威を誇示する狙いで作られた路だ。
王宮からパーンファー橋まで続く、特に太い部分がラーチャダムヌーン・ノーク通りで、赤シャツデモ隊は、パーンファー橋を拠点にして、この大通りを占拠していた。
ラーチャダムヌーン・ノーク通りは、パーンファー橋を渡ったところで左に折れてやや細り、ラーチャダムヌーン・クラン通りと名を変えて、民主記念塔を周回して貫く。
二つ目の重要ポイントが、この民主記念塔だ。1932年に起こった立憲民主革命を記念して建てられた、タイの民主主義のシンボルとも言える巨大なモニュメントである。そのため、政府に対しての抗議運動が行われる際には、毎回ここが舞台となる。今回も、赤シャツの大集団が占拠を続けていた。
(民主記念塔)
そしてこの夜、最も激しい戦闘現場となったのが、この民主記念塔でラーチャダムヌーン・クラン通りと交差する、ディンソー通りだった。
ラーチャダムヌーン・クラン通りは、民主記念塔を過ぎると、すぐ先でタナーオ通りと交差する。ここがコークウア交差点。右折してタナーオ通りに入ると、目の前にカオサン通り入り口の丁字路がある。
三つ目の重要ポイントが、このカオサン通り。ゲストハウスが集中していることから、バックパッカーの聖地としても有名で、カオサン・ロードとして世界的に知られた場所であり、外国人にとってはタイで最も有名な通りと言える。
もしカオサン・ロードで大事があれば、タイの観光業が被る打撃は計り知れないものがある。背後に王宮を控えていることもあって、このカオサン・ロードは、政府にとって最終防衛ラインと位置づけられていた節がある。
この夜は、タナーオ通りのカオサン・ロード入り口を塞ぐように、兵士が隊列を組んで守っていた姿が目撃されている。
四月十日は、市内数個所で軍とデモ隊の衝突が起こったが、ここでは村本さん銃撃事件のあった現場に絞って話を進めることにする。
十八時五十分頃、軍隊は、コークウア交差点を拠点にして民主記念塔を占拠していたデモ隊の、強制排除に乗り出した。すると知らせを聞いたパーンファー橋などの赤シャツたちが、続々と民主記念塔に集結を始めた。こうして、ラーチャダムヌーン・クラン通りの、民主記念塔とコークウア交差点の間が、デモ隊の大集団で埋め尽くされた。
この夜撮られたニュース映像を見ると、両者は最初穏やかに対峙していた。お祭り気分の赤シャツたちが、通りに流される音楽に合わせて踊る姿や、軍人と握手する姿まで撮影されている。ところが二十時頃、突然起こった銃の乱射音によって、事態は激変する。
あまりにも唐突に鳴り出したため、最初は誰もが祭りのクラッカー音ではないかと思ったようだ。しかし、みるみる緊張感があたりを包み込んでいく。ニュースでは、デモ隊がガスボンベを爆発させたことがきっかけで、銃撃戦が始まったと報道した。実際デモ隊は、以前からガスボンベを武器として使っていた。
映像を見た限りでは、ディンソー通りから近づいてきた兵士の一団と、民主記念塔に集結したデモ隊との間で、戦闘が始まったように見える。
政府は排除にあたって、催涙ガスやゴム弾を使用したと主張している。確かにそれらを使用しているが、実弾を使用したのも明らかだ。デモ隊は軍に、投石や火炎瓶で応戦した。しかしデモ隊の中にも、明らかに武装勢力がまじっていた。武装した黒服と呼ばれる男たちの姿や、彼らが銃撃する姿も、マスコミによって数多く撮られている。
(民主記念塔に、今も残る弾痕)
この激しい衝突の後、ディンソー通りの兵士たちは銃を空に向けて威嚇射撃をしながら、民主記念塔からゆっくりと後退を始める。その直後、ディンソー通り入り口付近の路上で、激しい爆発が起こった。M79、グレネードランチャーが使用されたのではないかと推測されている。
この爆発は、銃撃された村本さんのすぐそばで起こったので、村本さんが撮影した映像にもはっきりと映っていた。
この爆発によるものか、この後さらに数回起こったという爆発が原因かはわからないが、ともかく軍の指揮官が集まっていた中で爆発があり、現場を指揮していた陸軍少将ともう一人の指揮官が重傷を負った。同時に、ロムグラオ・トゥワタム大佐が、武装した黒服の集団から銃撃されて死亡! 大佐が受けた銃弾は、一発や二発ではなかったらしい。
報道では、大佐はコークウア交差点で銃撃されたとされている。報道が正確ならば、ディンソー通りとは違う場所で殺されたことになる。最もタイでは、銃撃戦もコークウア交差点で起こったと報道しているから、民主記念塔付近の事件現場は、すべてコークウア交差点でひとくくりされてしまっているのかもしれない。
(ディンソー通り。奥に見えるのが民主記念塔)
ともかく、この爆発をきっかけに、軍は大混乱の内に退却を始める。もちろん、指揮官は狙い撃ちされたと考えるのが妥当だ。指揮官へのピンポイント攻撃によって、軍の指揮系統はズタズタにされたに違いない。
村本さんの映像にも映っていたが、この戦闘によるディンソー通りの惨状は、複数のニュース映像に生々しく記録されている。タレーン・カオの件でも記述したが、道路に横たわる血まみれの兵士……ピクリとも動かない。大怪我を負って苦痛にうめく兵士。仲間に引きずられる負傷兵……。
この事件最大の謎は、何といっても村本さんを撃った犯人が誰かという点に集約される。その謎を解く鍵は、村本さんが殺された場所にあると私は考えている。
村本さんは、この夜最も戦闘の激しかったディンソー通りで撮影していた。村本さんのカメラは、目の前で爆弾が炸裂し、銃撃された兵士が運ばれる様子を生々しく捉えていた。ここで撃たれたのなら、兵士と赤シャツの銃撃戦の真っ只中にいて、流れ弾に当たったと説明がつく。しかし、村本さんが撃たれた現場はここではなかった。ワンブロック先にある、タナーオ通りだったのである。
村本さんは、ディンソー通りの撮影後、タナーオ通りに移動した。カオサン・ロード近辺には外人の野次馬などもいて、ディンソー通りほど激しい戦闘は行われていなかった。おそらく村本さんは、激戦のディンソー通りからタナーオ通りに移動して、ほっとしていたのではないか? そして、タナーオ通りにたむろしていた赤シャツの中に紛れていて撃たれた。現場は、タナーオ通りのカオサン・ロード入り口付近。
(タナーオ通りの、カオサン入口丁字路)
村本さんは、銃撃戦の渦中にいて流れ弾が当たったのではなくて、狙撃された可能性が高い。赤シャツを狙った弾丸が、運悪く村本さんに当たってしまったのか、あるいは意図的に狙い撃ちされたのか、どちらかであろう。
もし意図的に村本さんが狙われたのであれば、犯人は赤シャツ側の人間だと考えられる。なぜなら村本さんが撃たれても、政府側に何一つメリットはない。逆に赤シャツの立場から考えると、混乱を招いた政府が批判され、国際社会の耳目を集めるというメリットがあるからだ。
気になるのは、旗を持った赤シャツが頭を撃たれたのもタナーオ通りで、この現場の目と鼻の先だった。村本さんを撃った犯人と、関係があるのだろうか?
この夜の死者は二十一人と発表されたが、八百人以上の負傷者数と比べても、少なすぎるのではないかとささやかれている。戦闘は、カオサン・ロードの一部にまで及び、結局軍は撤退をよぎなくされた。
強制排除に出たはずの軍は最初から弱腰で、現場では何台もの装甲車があっさりデモ隊の手に落ちている。軍人も人の子、同国の、しかも民間人に銃口を向けるのは抵抗があっただろうし、そもそもこの日まで、軍は赤シャツ側が重火器で応戦してくるとは予想していなかったのであろう。この夜の目的はあくまでもデモ隊の排除であって、銃撃戦は全く想定外の展開であったようだ。
事実上、政府側の敗北で終わったわけだが、この夜の銃撃戦によって、両者の間に埋めようのない溝ができてしまったことは否めない。赤シャツは勝利したが、平和的解決の道を自ら閉ざしてしまったのである。
赤シャツ側が、なぜこのような強硬手段に出たのか?
村本さんを撃ったのは誰か?
旗を持った赤シャツの男は、撮影中のテレビカメラの前で、戦闘中ではない場所で殺された。いったい誰が、何のために?
正体不明の黒服やスナイパーの目撃情報など、今回の赤シャツ騒動には謎があまりにも多すぎる。底知れぬ事件の深淵を象徴する出来事だが、これらは複雑怪奇な謎の幕開けに過ぎなかったのである。




