8
作業に没頭してどれくらい経っただろうか。
あれから翻訳を進めて、二枚目の終盤にさしかかったところ、突然、ドンッとテーブルが揺れた。
「あ!」
修太はがくぜんとした。
インク壺が倒れ、真っ黒なインクがこぼれた。完成した一枚目の紙はまだいいとして、借りている本の開いたページに、インクがベチャリとついてしまった。
「ああーっ! 本が! やばい!」
急いで本をつかみ、ハンカチを取り出してインクをぬぐう。白い羊皮紙に書かれた文字はなんとか読みとれるものの、汚いしみができた。
本の所有者は貴族だ。
これはかなりまずい事態ではないだろうか。修太の頭からつま先まで、サーッと血の気が引く。
「あら、ごめんなさいねえ。つまずいてころんじゃってぇ」
女が間延びした声で謝った。それに意地悪な響きを感じとり、修太は眉をひそめる。
「はあ?」
つまずいてころぶなんてありえない。
そうならないように、テーブルの前にはパーテーションを置いて仕切っているし、隣のテーブルとの間は広くとられている。あきらかに作業中と分かるのだから、わざとでなければ、インク壺が倒れるほど強くぶつかったりしないだろう。
(なんなんだ、この女……)
静かに気が動転しているせいで、誰なのか思い出すのに時間がかかった。見覚えがあるのも当然で、この数日、修太がさけまくっていたハトラ・キーツの家族だ。
正体が知れたものの、なぜ彼女にこんな真似をされるのか、修太にはよく分からない。
とりあえず、こちらがこうむった被害について文句を言ったって構わないはずだ。
「作業中って書いてあるのに、どうして近づくんです?」
「あら、そうだったの?」
修太ははっとした。つい、うっかり忘れてしまうが、ここは日本ではない。そういえば、識字率が低いのだった。
「あ、文字が読めない方でしたか。すみません」
「馬鹿にしないでよ! 読めるわ!」
「えーと」
話が噛み合わないので、修太は本気で困惑する。
「読めるのに近づいてきて、ころんだんですか?」
実はドジっ子キャラなのだろうか……?
「ルビーさん、カウンターから見ていましたよ! わざとテーブルにぶつかったでしょう! って、きゃああっ、依頼主からの借りものの本が汚れてるじゃないですかー!」
修太を守るためだろうか、カウンターから憤然と出てきた受付の女性職員――さっき、リックがレーラと呼んでいた人だ――が、事態に気づいて悲鳴を上げる。
「なぜ、こんなことに?」
「さあ。俺は翻訳をしてただけで、特にうるさくはしてませんが……」
レーラの問いに、修太は首を横に振って答える。すると、ルビーはあからさまにムッとした。
「覚えていないの? あんた、この間、私に無礼を働いたでしょう!」
「無礼ですって? 冒険者ギルドで、彼ほど礼儀正しい少年はいませんよ!」
修太ではなく、レーラが言い返す。
「うんうん」
「レーラさんの言う通り」
待合室にいる冒険者が、横から口を挟んだ。ルビーがそちらをにらむと、我関せずの顔でそっぽを向く。冷やかしかたが上手い。
「私があのリックとかいう受付の男と話している時に、会話に割りこんできたじゃない!」
「あれは緊急で呼ばれたからですわ。あの時、対応できるのはリックだけでしたから、そちらに向かうに決まっています。ここは冒険者ギルドですよ? 生死にかかわることはしょっちゅうです。あなたも冒険者の家族なんですから、ご理解いただけるはずです」
レーラは冷静な態度で、ルビーのほうが間違っているのだと指摘する。
しかし、正論が通じる相手なら、こんなことにはなっていない。
顔を赤くして、ルビーは怒鳴った。
「私は紫ランク冒険者、ハトラ・キーツの妻よ! 下っ端のくせして、えらそうに説教のつもり?」
ルビーが右手を振り上げるのを見て、女性達の舌戦に怖気づいていた修太は、慌てて割って入る。
「落ち着いてくださいよ! なんで手を上げようとするんですか!」
カッとなると暴力にうったえるのは、粗暴さのある冒険者ギルドらしさはあるが、これでは単なる子どもじみた癇癪だ。
レーラを後ろにかばって、修太はルビーと間合いをとる。
正直なところ、こういう短気で面倒くさいタイプとは関わりたくない。だが、この手のタイプが権力に弱いことも知っている。
(あんまりこういう手は使いたくないけど……)
場をおさめるためにはしかたがない。
「そっちがそう言うなら、俺は、紫ランク冒険者のグレイの家族ですよ! 対等に話しましょう」
「……紫ランクの冒険者、グレイ?」
ルビーはぴくりと反応した。
「賊狩りとか呼ばれてる黒狼族だっけ? ふうん」
こちらをじろじろと見ていたかと思えば、ルビーは意地悪い笑みを浮かべる。修太は身構えた。
「賊狩りの家族っていえば、養子よね。かわいそう。ろくでもない奴が養父になったから、そんなに礼儀知らずになったのね」
あわれんでいるふりをして、見下した発言に、修太はあぜんとした。
なぜか知らないが、こういう面倒くさいタイプは、グレイが父親でかわいそうと言い出すことが多い。修太には理解できない感覚だ。
「あんたのほうが、よっぽど無礼じゃないか?」
怒りよりも、呆れが強い。
「グレイをろくでもない奴呼ばわりって、どういうことだよ。あんな立派な人はそうそういないだろ」
「そ、そうですよ!」
――おい、レーラさん。なぜ、言いよどむ?
少し頼りない援護射撃だ。
「何度か見かけたけど、あの柄の悪さ、チンピラじゃないの。うちのハトラとは大違いね!」
「うーん、父さんはチンピラみたいというより、殺し屋っぽいからそこは否定できないな……。でも、あんたみたいに、変な言いがかりをつけて、他人を馬鹿にしたりはしないぞ」
修太は首を傾げる。
「ということは、あんたが馬鹿にしているグレイより、あんたのほうがやばいんじゃないか?」
「な、なんですって、このクソガキ!」
「あ、すみません。本当のことを言っちゃって」
「馬鹿にしないでよ!」
ルビーが叩こうとしたので、修太はさっとよけた。
「きゃーっ、どうしてツカーラさんまで喧嘩腰なんですか?」
レーラは慌てているが、待合室にいる冒険者達は拍手をして口笛まで吹いて大笑いをする。
「言うじゃないか、ツカーラ!」
「いい調子だ」
ルビーは彼らをにらむ。
「うるさいわよ!」
しかし、彼らもふてぶてしいので、くすくす笑いをしてルビーをからかっている。
ルビーは少し黙りこんで、話題を変える。
「養父が問題ないなら、実の親のしつけが悪かったのね」
「はあ?」
ああ言えばこう言うという見本市みたいな人だ。しかし、実の親のことを話題にされると、修太にはカチンとくる。
「なんなんだ? 俺が悪いことをしたなら、俺の責任だろう。親は関係ない。それから、俺は悪いことはしてない」
「そんなふうにかばうなんて、どれだけご立派な親御さんなのかしら。でもあんな人に拾われるんだもの。もしかしてあなたって親に捨てられでもしたの?」
努力してたもっていた修太の理性の糸が、ぶちっと切れた。
「捨てられてないし、その言いぐさはどっちにも失礼だろ! なんで他人のあんたにそんなことを口出しされなきゃいけないんだ?」
修太が怒ると、ルビーはわざとらしくおびえてみせる。
「やだぁ、怖い。私はただ、礼儀がなってないから親が悪いせいねって言っただけじゃない。どうして怒るのかしら。愛情不足?」
「俺の両親は事故で死んだんであって、何も不足なんかしてないよ!」
ルビーがくすりと笑った。
(なんだ?)
修太は嫌な予感がして、眉をひそめる。
「親御さんは悪くないのに、養父のほうをかばうなんて、そちらのほうがひどいんじゃない? 血縁のある先祖のほうが大事に決まっているでしょうに」
のらりくらりと言っていたのは、そこに帰着させるためだったらしい。
修太は周囲の空気が微妙なことになっていることに気づいて、ぎくりとした。レーラでさえ、それはそうだろうなという顔をしている。
(そうか、セーセレティーじゃ、先祖を大事にするから、この考えが一般的なのか)
しかし、修太にとってはどちらも大事で、選べなんて言われても困るのだ。
「そ、それは……」
口ごもって、修太はたじろぐ。
これを否定したらセーセレティーの風土を否定するようなものだし、肯定すればグレイを否定するわけで……。
勢いをなくした修太を、ルビーは楽しそうに眺めている。
(だからこういうタイプには関わりたくないんだよ……。面倒くせえから)
最初は普通に会話をしていたのに、気づいたら自分が悪者になっていて、相手が善人におさまっているという厄介な状況になっていることがある。まさに今がそうだ。
(つい、頭に血が昇って、口論に乗っちまったから)
どちらも否定したくなかったら、自分が悪いと認めて謝るしかないわけだ。ルビーの策略にまんまとはまってしまった。
「分かったよ。俺が……」
結局、ことなかれ主義としては自分が悪いほうを選ぶわけで、修太が嫌々ながら切り出そうとした時、ベディカがダンッとテーブルの天板に手を叩きつけた。
「――なんなの、このクソ女」
なぜか自分が書きたい会話の流れにどうしてもならないから、あきらめてこちらで進めます……。二人とも好き勝手しゃべりだすんだもの…。




