敬礼の角度は10度、そして陰謀
顔を赤くしたまま黙り込んでしまったちび様を見つめ、どうしたものかと考える。
いや、ないよ、ないない。待て待て、でももしかしたら『ヨメ』っていうのは、この国ではそういう意味じゃないかもしれないし!
「えっと、そのう……、それってちび様の奥さんになれってこと?」
「それ以外の意味があんのか!?」
「ていうか、年が離れすぎてると思うんですけど!」
怒ったように返された言葉に、私も負けじと大声で返す。なんなんだ、この森の中の大声大会は。
するとちび様は、私のその言葉に訝しげに眉をひそめた。
「おまえ、もしかして見た目よりも若いのか?」
「うわ、なんかむかつきますけど、そうじゃないです。私じゃなくてちび様の歳ですよ」
「俺はとっくに成人してる!」
微妙に論点がずれた気もするちび様の主張に、私はいったん口をつぐむ。
もしかして、こっちだと『成人』の年齢が低いとか。そういえば昔は日本でだって、15歳で元服とかだったしなあ。ちび様の見た目から言ったら、15歳よりも下に見えるけれど、こっちだと成人年齢っていくつになるんだろうか。
ここはダイレクトに年齢を聞いてしまったほうが早いか、と口を開きかけた。その時。
今まで不満げにこちらを睨んでいたちび様の顔が、一瞬にして緊張の色に染まる。そして、俊敏に立ち上がるとその鋭い瞳を周囲に走らせ、まるで私を背に庇うかのように両腕を広げた。
彼の小さな身体がひどく張り詰めているのがわかる。
その緊張に呼応するかのように、今まで鳥や葉ずれの音で賑わっていた森の中が静寂に包まれた。しばらくの沈黙。
「――気のせい、か?」
油断なく周りを見回しながら、少しだけ緊張をやわらげたちび様が口を開くと、無意識に強張らせていた私の身体からも力が抜けた。
「ど、どうしたんですか?」
「いや……。誰かが俺の防壁に触ったような気がしたんだが――」
口元に手を当て、少しの間考え込んだちび様は、すぐにふと息を吐いて頭を振った。
そして自分に言い聞かせるように呟く。
「ちょっと神経過敏になってるかもしれねえ。この国の、俺の防壁を抵抗なく越えられる奴なんか、もうこの世にはいねえしな」
目を伏せて、どこか空虚な口調で告げられたその言葉に私が何か言う前に、ちび様はふと瞳をやわらげてそれを制す。
さっきまでの気取りのない態度とはまた違う、達観したような、諦観のような。こんな笑顔にさせるような、何か大きな悲しみがこの人にはあったのだろうか。
何も言うことができずに黙ってしまった私の頭を、ちび様の小さな手が撫でた。
「驚かせて悪ぃな。大丈夫だ。ウラバ、もし時間があるならジュンレンを呼んでくれ。俺がここにいるって伝えるだけでいい」
「あ、はい、わかりました!」
慌てて立ち上がり、いつもの癖で10度の敬礼をする。ちまたでは何でもかんでも、額の所に手をあてる『挙手の敬礼』が敬礼であると思われがちだが、帽子を被ってない今、おじぎのようなこれが正しい敬礼である。自衛官として、ここは譲れない!
びしりと姿勢を元に戻すと、頭を下げられ慣れているだろうちび様は「頼んだぞ」とだけ言って、森の奥へと歩いていく。
私はその反対方向、王宮へ向かって歩き出しながら、もう一度ちらりと森を振り返った。
さっきまでは気付かなかった茂みの奥、ちび様が歩いていった方向には何かのモニュメント。白い石で作られた、オベリスクのような形。
まさか秘密基地、とかではないだろうな、絶対。
隊長に会ったら訊いてみようかな、なんて考えつつ、私は今度こそ王宮に向かって走り始めた。
***
燭台に灯りという灯りがともされた、広く煌びやかな謁見の間に、どこか重苦しい空気が漂っていた。
王の御座に向かって左右に立ち並ぶ様々な人物が、そこかしこで密やかに言葉を交わし合う。ある者は眉をひそめた文官。ある者は深く頷きため息をつく武官。そしてそれらのざわめきは、王が御座につく合図として鳴らされた音に、潮が引くように静かに消える。
「ガナドール帝国皇帝、フォルミード・ガナドーレ陛下、ご入場!」
下段に直立する近衛が一声告げると、華美なマントを羽織った青年がどこかおどおどとした態度で王座につく。それを合図に立ち並んだ人々は一斉に膝を折った。
それを見届け、皇帝と称された青年はかつりと手にした杖で床を叩く。今度はその音に皆頭を上げ、御座につく皇帝を見た。
先代皇帝と同じくすんだ金の髪は後ろへと撫でつけられ、白皙の面をより神経質そうに飾っている。すっきりと整った眉の下には、周りからの視線を受け止め切れぬひ弱さが覗く、琥珀の瞳。笑みを浮かべようかどうか迷っている口元は、威厳などとは程遠い印象を抱かせる。この青年には、全体的に自信というものが欠如しているようであった。
それでも、と居並ぶ臣下の中、ひとりの武官は思う。
いかに先代より力が劣ろうとも、あの男よりは――と。
「ガナドール帝国軍総司令、テラス・ガナドーレ、入れ!」
再び側仕えの近衛が声を張りその名を謁見の間に響かせると、その場は皇帝入場の時とは全く別の緊張感に包まれた。末席に連なる文官の一人は、額を流れる汗を拭うこともできず、ただ御座より真っ直ぐ続く入り口を見据えた。
ふっとそこに闇が差す。
硬質な音を響かせ、名を呼ばれたその男は戸惑うことも緊張することもなく、ただ当たり前だというように御座への道を歩み始める。
そのほの暗い緑の瞳は真っ直ぐに、正面に座する皇帝へとそそがれた。進むたびに揺れるマントは漆黒。そしてその身に纏う軍服もまた漆黒。闇を連想させるその装いとは反対に、その男自身がまとう色は、光量の足りないこの場にあっても豪奢に光る金だった。
ゆるく首筋で結われた髪は、無造作に、無遠慮に光を弾く。その色は、かすかに震えながら男を見つめる皇帝と、似てはいるようで決定的に違う。
玉座に座る皇帝よりも、今その前に膝をついたこの男のほうがよほど王者にふさわしい色と雰囲気を持っていた。
「皇帝陛下に申し上げます」
力強い、洗練された低音が空気を震わせる。
それは他者を威圧するだけでなく、ずっと耳を傾けていたくなるような引力をも含んでいる声だった。
「ナツメ皇国陥落により、東への道筋は確実となりました。これより我らガナドール帝国軍は街道の要、インゼリアへの侵攻を実行すべく、陛下のご許可を受け取りに参りました」
慇懃なほど丁寧な言葉はしかし、はなから誰の裁可も求めていないように響く。すでにこの男の中では、それが決定された事柄のように。
問われた内容に、皇帝は右に控える宰相や周りへと助言を求めるように視線を走らせるが、すぐにそれに応えられる者はいなかった。
誰もが困惑し、顔を見合わせ、そして黙り込む。位にしてたかだか軍部の総司令にしか過ぎないこの男を、この場に居合わせた高官達は真っ直ぐに見ることすらしない。
それが、皇帝と同じく『ガナドーレ』の名を持ちながら膝を折る、男への評価であった。
「陛下、時間はあまり多くはありません」
反論の声が上がらないことを知っているかのように悠然と、男は皇帝に決断を迫る。その引き締まった口元にほんのりと微笑みを乗せて。
すると、立ち並んだ者の中から声を上げて前に出る者が一人あった。男の隣に膝をつき、口を開く。
「恐れながら申し上げます。東のインゼリアは小国ではありますが、古き歴史を持つ竜の国。明確な理由もなく火を移すは、諸外国の不信をも招きます。どうか、慎重なご判断を」
それは先ほど末席にて冷や汗を流していた、ひとりの文官だった。
生真面目そうな細く黒い瞳が、懇願するようにひたすら皇帝へと向かう。だがしかし、皇帝はその視線を受け止め損ね、困ったようにうろうろと瞳を彷徨わせるばかり。文官は視線を藍色の絨毯へと落とし、薄い唇を噛んだ。
ふっと空気が動き、はじけるような高笑が謁見室に響き渡った。
「そのインゼリアから仕掛けられたのです。これをご覧なさい、文官殿」
男はまだしつこく笑いながら、マントに隠れた左側の腕を差し出した。だが、そこにあるはずの左腕はなく、ただ中身のない袖がゆらゆらと揺らめいてあるばかりだった。
思わず息を飲んだ文官に、男はこの上なく優しい笑みを浮かべる。
「お聞き及びではありませんか? ナツメ皇国が竜に滅ぼされたという話を」
「竜、ですと?」
紙のように白く血の気を失った顔を上げ、文官は告げられた言葉を繰り返す。あまりにも非現実的なその内容に、誰もが困惑したように男を見つめた。
幾多の視線を受け、男は再び皇帝へと向き直る。
「先ほどは言葉が足りず、申し訳ございません、陛下。私も、とても動揺しているのです。確かに我が軍はナツメと切っ先を交えんと出立致しましたが、いざ着いた時にはもう竜が彼の国を襲った後でした。それどころか、このように私たちまで襲われる始末。左腕を食いちぎられた私がはっきりと見たのです。おぞましき竜の姿を――」
「そんなっ、馬鹿な! インゼリアの古竜がそのような振る舞いをするはずなど――」
「では、失くしたこの左腕はどうだと言うのです!」
押し殺したような声で細く反論を繰り返した文官に、男は途端に鳴り響くような大声を浴びせかけた。
対する文官だけでなく、御座に座る皇帝までもがびくりと体を震わせるほどの迫力に、場は息をする音も聞こえぬほどに静まりかえる。
その中でただひとり何の恐れも感じぬ男は、深く、深く息を吐いた。
「陛下の御前で取り乱すとは。申し訳ありません、私もこのような体になり、少しばかり気落ちしているのです。どうかご容赦を」
「よ、よい。許す。……しかしして、その話は真か?」
「お疑いならば、ナツメ攻略隊の中の誰に問うても構いません。私は嘘を申してはおりませんから。ただ、真剣にお考え頂きたいのです。このままインゼリアの暴挙を許せば、その牙は我が帝国にまで及びましょう。私はそれを防ぎたいのです」
一転して静かに、そして悲しみに満ちあふれたその言葉は、男を猜疑の目で見つめていた者達の心にも真摯に届けられる。ただひとり、その暗く歪む緑の瞳をすぐ側で見ていた文官を除いては。
「わかった。その詮議は宰相に任せる。しかし、すぐに全軍を差し向けるには確かな証が必要でもあるのだ……」
不運に見舞われた者に同情を寄せるように、皇帝は伺いをたてるように男に言葉をかけた。その時点で、決断をまるきり任せてしまったことに気付きもしない。すべては男の思い通りだった。
「ならば、私を含め少数で偵察隊を組みましょう。あの国の防壁は確かに堅固ですが、ナツメより逃れてきたと言えば、なんらかの反応が見られるかもしれません」
最初の言葉よりかなり柔らかになったその提案に、飲まれているとも知らず、皇帝はあからさまにほっとして頷いた。
「それならば許可しよう」
「ありがとうございます、陛下」
進み出た時と同じように美しい所作で皇帝の足下にぬかずき、男はちらりと隣で沈黙する文官へと視線を移す。
そして俯いたままでは誰にも見られぬその口元を、獰猛に歪ませる。
背筋を走る恐れに、その細い瞳を限界まで見開いた文官は、男の次の言葉にさらにおののいた。
「加えて少しばかりの我が儘をお許し頂けますか、陛下」
「な、なんだ?」
「私にこの者を預けて頂きたいのです」
それが末席の文官、ノウェム・セプテンベルとテラス・ガナドーレとの出会いとなった。
幸か不幸か、まだ誰一人としてわからぬ混沌の中に――。




