新たなる出会い、新たなる旅路
どのくらいの時間が経ったんだろうか。眠っていた私が目を覚ますと、すでにちび様は部屋に戻っていた。
妙に何かを悟ったような顔をして私が起きたことを確認すると、黙って木を彫って作った器に入った水を差し出す。まだちょっとぼんやりするけれど、身体のどこにも痛みがないことがわかった私はゆっくりと起きあがってそれを受け取った。
また咽せないように少しずつ飲み込んでいくと、乾いた身体に水が染みこんでいくのがわかる。か、甘露!
身体が熱を持っているせいか、思っていたよりも水分が不足してたみたい。何の邪魔もされず苦しくもなく水が入っていくことがわかると、私は一気にそれを飲み干した。
「焦るな、水ならたっぷりある」
呆れたように、でもどこか嬉しそうにそう言うと、ちび様は器にまた水を注いでくれる。私はそれも飲み干して、ようやく深い深い息を吐いた。
「なんか、生き返った気分、です」
「大袈裟な奴だな。落ち着いたら後ろを向け」
「あ、はい」
差し出された手に器を返し、私は深く考えずに言われた通りにする。だるいけど、ちゃんと自分の意志通りに動く。それがこんなに嬉しいなんて、一日前にはわからなかったな。
怪我をしていない右手を前に出してにぎにぎしていると、そこにふっと影が差した。
ん?と思う間もなく、ひゅっと風を切る音とともに背中がすうっと冷たい空気にされられたのを感じた。……え?
視線を落とせば、はらりとはだける上着。ぽとり、と落ちる下着。え、ええ!?
混乱したところに追い打ちをかけるように、馴染んだ硬い指先の感触。それがつ、と私の背を撫でた。
「ひゃああっ」
「変な声を出すな!」
「ちっ、ちび様っ、何やって……!」
この期に及んで男は狼なのよ的な何か!? 嘘だよね!? ちび様は王様で、王様は47歳で、男の人で、おっさんで……!
いきなり素肌に触れられた衝撃であわあわする私をよそに、ちび様の指は何度か背や肩の辺りを這うと、それからひやりとした何かをそこに擦りつけ始めた。うわっ。
「冷たいっ」
「動くな! 今薬を塗ってる。しばらくしたら腕が動かなくなるからな、気をつけろよ」
「は、はい!」
な、何だ、そっか。そうだよねえ。うん。
この真面目そのもののちび様が私相手に変な気分になるとか……ないない!
「何笑ってんだよ!」
「く、くすぐったいんですっ」
「そ、そうか……」
私の言葉にびくっと一度手を震わせ、それからまたゆっくりと薬を塗り込む。心なしか、優しく。
そうして全てを塗りおえると、ちび様は私の頭に何かを放り投げた。
「わっ」
「新しい服だ。早く着ろ」
早くも痺れ始めた左手を庇いつつ渡された服を引き寄せれば、それは少し厚手のシャツだった。胸のところが紐で結べるようになってる。
……どっかから盗んできた、とかなんだろうか。考えないようにしよう。
王様の割にサバイバルに長けていることに目を瞑りつつ、私はそれを頭から被る。その時初めて自分の左腕がすごいことになっているのに気が付いた。
なんていうか、ぐろい。
手首から肩にかけて、黒い焼けこげのような痕が巻き付くようにして残されている。まるであの黒い闇がそのままここに凝っているかのように。
「この腕の……」
「治る」
言い切らないうちに私の背中へ強い言葉が放たれる。確定した未来を告げるように、私の不安な心を包み込むような声で。
「絶対に治してやる。どんなことをしても、必ず」
聞きようによっては傲慢とも思えるその言い方は、だけど私の心を柔らかに慰めた。
あんなことが、目の前で簡単に無惨に命が奪われていくこととか、人の命を奪わなければ生きられないこと。そんな厳しい世界を目の当たりにして、どこか凍り付いていた部分が解されていくのがわかる。
元いた世界でだって存在していたはずの、けれど私が直面したことのなかった厳しさ。
「……絶対?」
わかってるくせに、知ってるくせに、問い返す。
自分じゃ何一つ出来ない、ちび様を助けたくて……その結果現実にはこうして彼の足手まといになり果ててる。そんな私の、それは甘えだった。
見捨てないと言って。そういう情けない私の言葉に、ちび様はふと微かに笑ったようだった。
再び背に触れてきた小さな手の温もり。
それからうなじの辺りに何か温かくて柔らかいものが押し当てられた。なんだろう、と思う間もなくその温度が離れ、それからぐしゃりと頭を撫でられる。小さい子供を慰めるような、そんな乱暴さに私も笑う。
私、笑える。
たったそれだけで、救われた気分に慣れた。
「絶対、治してやる」
さっきよりも近くでそう告げられ、私は黙って頷いた。
ちび様の「~してやる」って、偉そうに響くけど本当はすごく優しい。それはこちらに押しつけない優しさだ。
少しだけ込み上げる涙を堪えながら、私が「ありがとう」と言おうとして――息を詰める。
突然、部屋の扉が大きな音を立てて開かれ、それと同時に私はちび様に寝台の上へと背後から押し倒された。く、苦しいっ。
「やー、さっき聞いた場所に行ってみたらこんなん拾ったんだけど、これって君たちのものじゃ……」
ひどく明るい女性の声が聞こえたと思うと、それがぴたりと止まる。
ちび様の身体によって寝台にねじ伏せられているような状態の私からはその姿は見えないけれど、多分私と同じくらいか上のような声。誰なんだろう?
すると私に覆い被さっているちび様が、「お前……」と低く呻いた。
「扉を開ける時には合図をしろと言ってあっただろう!」
「ごっめん! そうだよねっ、竜王と乙女だもんね! まだお小さいからあれだと思ったんだけど、竜族だもんね! 雰囲気大切っ。次のちゃんすはいつになるかわからないし、竜王ふぁいとっ。じゃ、お邪魔しました!」
「おい、ちょっと待て、フェーレス! お前激しく何かを勘違いしてるぞ! おいっ」
「他の奴らにも近づくなって言っておくから! これはここに置いておくね!」
ごとり、と何か固く重いものを床に置くと、そのフェーレスと呼ばれた女性は「めくるめく愛! 愛だね!」と不思議なことを叫びながら走り去ってしまった。遅れてぱたん、と扉が閉まる音。
そこでようやくちび様が私から身体を離した。案外、筋肉質ですな、王様。
「あいつ今頃ぜってぇ今のことを吹聴してる。絶対だ」
「あの、ちび様?」
「おっ、俺は別にお前をどうこうしようってわけじゃなくてなあっ! き、急にあいつが、フェーレスが来たもんだから敵かと思って!」
「ちび様」
「だからって、お前が嫌ってんじゃねえからな! 今はあれだが、俺だってそれなりにだな、こんな身体だからまったくできねえってことはなくてだ――」
「ちび様! こっちを向いてくださいっ」
どこかに向けて大暴走し始めているちび様に、私は大きな声を上げた。なんか一所懸命なのはよくわかったんだけどね、その、困ってるんですよ。
私の声にぴたりと口をつぐみ、横を向いていた顔をようやく私の方へと向けてくれる。
ああ、これでやっとお願い事を聞いてもらえる……と安堵したのもつかの間、ちび様の顔は見る見るうちに真っ赤になってしまった。いや、その前からほのかに赤くはあったけども。
その視線が私の胸の辺りで縫い止められ、細く縦長の瞳孔がぶわりと膨らむ。瞳孔が開く時って、どういう時だっけ。
「おまっ、お、ま、え……!」
「落ち着いて。落ち着いてください、ちび様」
「ち、乳が見えてるだろうがっ、馬鹿ぁああああああああああああ!」
***
「あー、それであれからずぅうううっと、しつこく竜王が拗ねてるってことなのにゃあ」
「しっ、レスさん、静かにっ。ちび様って案外繊細なんです、そっとしておいてあげましょうよ」
「うんうん。微妙なお年頃だもんねえ」
「聞こえてんだよっ、お前ら!」
わざとらしい私たちの内緒話に、堪えきれなくなったちび様が怒鳴り声を上げた。それに肩をすくめつつも、私とフェーレスさんは顔を見合わせてにやにやと笑う。あんな顔を赤くして怒られても、全然怖くないもんね。
私たちの態度に、ちび様は余計にいらいらしながら手元の小枝を火の中に投げ込んだ。ぱちっと軽い破裂音をたてて小枝が爆ぜる。
その音を聞きながら、私は手にしていた器からはちみつを溶かしたように甘いお湯を喉に通した。
これは少し喉をやられていた私にフェーレスさんが渡してくれた物。痛めた喉にはこのとろりとした甘さがありがたい。
「にしても、しょうがないじゃんねえ。乙女ちゃんは片手が使えないんだから、服の合わせなんてひとりで結べないの当然だしぃ。『乳が見えてる!』なんてそこら中に聞こえるほど大きな声出すからなんだと思ったら、ちょっと谷間が覗いてるだけだもんにゃあ」
「そうそう、大したことじゃないですよね」
「だってそんなんで騒がれてちゃ、あたしの格好なんて丸裸と同じことになっちゃうじゃんかあ!」
「充分丸裸だろうが!」
「きゃー、えっちぃ」
「殺す。今すぐ殺す。殺してその毛皮売りさばいてやるからな!」
ついに我慢できなくなったちび様が、今まで手入れをしていた刀を手に立ち上がる。同時に素早く私の傍から離れたフェーレスさんが、ちび様にお尻を向けて尻尾を揺らした。
「へへん! 豹族一の軽業フェーレスを掴まえられるかにゃ?」
「面白いなあ、フェーレス!」
「いやあんっ、竜王、目が本気すぎるぅ!」
「俺はいつでも本気だ!」
「じゃあ、また後でねえ、乙女ちゃんっ」
私に手を振りつつ、迫り来るちび様から優雅に身をかわし、フェーレスさんは少し先にある天幕のほうへと駆け去っていった。彼女を追いかけようとして、寸前で私をひとり残すことに気が付いたのか、ちび様が足を止める。
こちらに背を向けたまましばらく深呼吸を繰り返し、それから何事もなかったかのように再び火の側へと戻ってきた。
あ、眉間の皺が三割り増し。
器に口を付けながらそっと様子を窺えば、ちび様は不機嫌に刀の手入れを再開していた。炎の赤さを移した刀身と、負けないくらいに赤いちび様の顔。純情な少年そのままの姿に笑おうとして、私は息を止めた。
左肩から走った身を焼き尽くすような激痛に、全身が震えて器を落としてしまう。
その音と気配にはっと気が付いたちび様が、素早い動作でこちらに近づき、そして衝撃に倒れそうになる私の身体を支えてくれた。
「ウラバ、発作か」
「……は、い……っ」
「待ってろ」
すぐにちび様が初めてそうしてくれた時のように、黄草の葉を自ら噛み砕き私の口へと含ませてくれる。
全力疾走した後のように一瞬で冷や汗が吹き出て震えが止まらず、息をするにもままならない私はそれをようやく飲み込んだ。そのままのたうち回りそうな身体を、ちび様が強く抱き締めて抑えていてくれる。
数分後、ぐったりとした私の身体をちび様は何も言わずに持ち上げる。行き先は、私たち二人の天幕だ。
厚手の布で出来た扉をくぐり、中に設えられた簡易の寝台――だけどとても柔らかくて温かな優れもの――の上に私をそうっと横たえた。離れていく体温に、少しの寂寥感。思わず伸ばした右手をちび様が握り返してくれた。
そっと私の傍らに跪く。
「ゾーナベルデまではまだ遠い。お前はもう休め」
「だい、じょうぶですよ……。薬が切れた、だけですから」
「そう言って3日前に高熱を出したのはどこのどいつだ? お前の大丈夫は信用ならねえ」
「あれは、その、えっと……」
「眠るまで傍にいてやる。子守歌も必要か?」
「う……出来れば」
「しょうがねえな。お前、王である俺に子守をさせるなんて、とんでもねえ奴だな」
憎まれ口を叩きながら、ひどく優しい目をしたちび様はその場に腰を落ち着けてくれた。
あれから……私が目を覚ましフェーレスさんととんでもない出会いをしてから、今日でもう5日が経っていた。今はフェーレスさんたちの一団と野宿をしながらゾーナベルデへ向かっているところ。
あの時私が目を覚ましたのは、恐ろしいことがあった森から少し離れた小さな山小屋の中。
黒い闇が私を襲い、黒衣の人がそれを退け、デンスさんがそれを追って消えた後。ちび様は私を背負ってその山小屋へ一時的に避難したらしい。「ベアルリンガが緊急用に使ってる小屋だから、すぐには見つからないだろう」っていうのがちび様の談。
一度薬で私が眠っている間に、何の巡り合わせかそこにやって来たのがフェーレスさんだった、らしい。




