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ちび王様と自衛官な私  作者: 吉田
ベアルリンガ
21/28

手の中の確かな絆



 最初に感じたのは、寒さ。

 さっきまでは広場にたき火が焚かれ、お酒も入って熱いくらいだったのに。どうしてだろう、とまだふわふわとする頭でぼんやりと考える。まだ、眠気のほうが強くて目を開けようという気にはならなかった。

 その私の頬に、ぴちゃり、と何かが当たった。何か液体のようなもの。液体は横になっている私の頬から、口元へと流れ落ちる。なんだろう。

 反射的にそれを舐め取った私は、味を感じる前にこみ上がってきた吐き気に目を見開いた。思わず起きあがり、口を押さえる。なに、これ。

 どろり、とした感触。鼻や喉の奥にまで広がる鉄さび臭さ。引きずられる嘔吐感。薄暗い中でその正体を探ろうと頬にやった手に、体温で少し乾いたそれがにちゃりとついた。


 赤い。赤い……血。

 血!?


 液体の正体に気がついた瞬間、今度は大量にそれが私に降り注いだ。

 頭から、何もかもが真っ赤に染まって。むっとした特徴的な生臭さに、私はなかばパニックになる。なんで、どうして!?

 小さく悲鳴を上げながら、私は辺りを見回した。誰か!

 そこは薄い闇に包まれた室内だった。高い位置にある窓から、青い月の光がうっすらとあたりを照らしている。座り込んだ下には、毛足の長い絨毯。それは今、私の身体を染め上げている色よりも暗い赤。私はここを、知っている。

 恐怖と寒さに震えながらも目を凝らした先に、固く閉ざされた装飾的な扉が見えた。それこそが、私がインゼリアに来た時に通った扉だった。

 ここは、インゼリアの王宮……!?


(……あなたがいけない)


 不意に、呟くような、不思議な響きが耳に届いて、私は肩を震わせた。誰か、いる。

 けれど、月明かりだけの室内には闇が濃い場所がありすぎて、どこにいるのかわからない。声から場所を探ろうにも、それ自体がどこから聞こえてくるのかわからないような、ぼんやりとした響きだった。

 ぐちゃり、と続いて奇妙な音が聞こえる。


(あなたがいけないんだ、フェリス)


 茫洋とした声は、よく耳を澄ませばそれは私の頭上から降ってくるようだった。

 震える私が見上げると同時に、ふわっと空気が動く。何か大きなものが近くへ迫ってきたことを、皮膚が感覚的に捉えた。そこに窓からの月明かりが差す。

 あげかけた悲鳴は、喉の奥に貼り付いた。


(あなたが私を受け入れないから、私は、父上を――)


 そこにいたのは、常緑の色をした一匹の竜。

 月明かりに光る鱗よりも鮮やかな、緑の瞳が座り込む私を見つめていた。その大きな口は血にまみれ、それが大量に端からこぼれ落ちている。怪我をしているのだろうか。

 衝撃にすっかりおかしくなってしまった思考が、そんなどうでもいいことをぽつんと考えた。釣られるように視線が、竜の口元へと引き寄せられる。

 だけど、そこには。


(私は父上を、食ってしまった!)


 言葉とともに目の前で大きく開かれた口の中に、人の欠片。

 ずたずたに引き裂かれ、もう人の形を保っていない、それ。真っ赤に染まった舌の上に転がる腕、足、黒の髪の毛。

 それを見た私の喉からは、今度こそ空気を切り裂くような悲鳴がほとばしった。

 口を閉じ、中のものをごくりと飲み込んだ竜が、弾かれたように笑い出す。怯える私を嘲笑するように、自らを笑うように、全てを否定するように。

 そうして涙を流しながら、本能的にずり下がっていく私を見て、ねっとりとした笑みを浮かべたのがわかった。


(さあ、フェリス。今度はあなたを喰らってあげるよ……)


 こちらに踏み出される、鋭い爪のついた前足。光を反射する、鱗。血にまみれた口。狂った色を浮かべる緑の瞳。大きく広げられた翼が、私とそれ以外を遮断する。

 いや、いやだ!

 止まらない震えに、私はついに絨毯の上に転がる。それでも、這って逃げようとする私の上に、生暖かい吐息がかかった。

 もう、恐怖で閉じることも叶わない私の目に、迫り来る竜の顔。それが大きく口を開き、私へと牙が迫った、そして――。


 ――助けて、ちび様!!


「ウラバ!」


 伸ばした手が温もりに触れて、私ははっと目を開いた。

 暗い室内に慣れない目に、たったひとつ、綺麗な青色が飛び込んでくる。心配そうに、少し驚いたようにこちらを見つめるちび様の。


「どうしたんだ、ウラ……」

「ちび様っ」


 ほっとしたように微かに笑う彼に、どっと安堵感が押し寄せて、私は身を起こすと衝動的にその身体へとしがみついた。

 突然の行動にもかかわらず、小さなちび様の身体は私を受け止めてくれる。そうしてわけもわからないだろうに、優しく私の背を撫でた。確かな温もりと感触に、私は涙混じりの息を吐く。


「怖い夢でも見たのか?」


 耳元で、ささやくようなちび様の言葉に、私は何度も頷く。仕方ないな、とでも言うように彼が小さく笑ったのがわかった。

 それでも、私は身体を離すことができない。あまりにも、残酷な夢だったから……。


「おまえ、飲み過ぎなんだよ。あんな強い酒、何杯も飲んだら倒れるに決まってんだろ、馬鹿」

「飲み過ぎ……?」

「覚えてないのか?」


 ぽんぽん、と宥めるように背を叩かれ、私はようやくしがみついていたちび様の身体から自分を引き離した。まだ震える手を、握りしめるようにして抑える。


「ここは……」

「俺の部屋だ。お前が眠っちまったから、広場から近いここに運んだんだ。もう少ししたら叩き起こすとこだったから、起きてくれて助かったけどな」


 見れば、私がいるのは確かにミーメの里、ちび様が滞在している部屋の中だった。

 まだぼんやりしている私を寝台に残し、ちび様は部屋の隅に置かれていた荷袋のほうへと歩いて行く。むけられた背に、なんとなく寂しさを感じて、私は首を振った。

 昼間、ちび様の過去を聞いたせいなんだろうか。あんな、夢を見るのは。

 まるで本当に目の前で起きたことのような、現実感。けれど、それは絶対に私が知っているはずがない、過去の光景。ただの夢の、はず……。


「まだ目が覚めないなら、水飲むか?」

「いえ、大丈夫、です」

「そうか。なら、支度しろ」


 荷物を持ってこちらに戻ってきたちび様が、私に何かを差し出してそう言った。受け取って見ると、それは着替えの一式だった。次いで自分の部屋に置いていたはずの小銃と銃剣も手渡される。無意識にそれを受け取って、寝台へと置く。

 支度するって、なに?


「できるだけ早くそれに着替えて、必要なものを身につけろ。今夜中に、里を出る」

「里を出るって、なんで……」


 不穏な言葉に、私は手にしていた着替えをぎゅっと握りしめる。ちび様は、自らも手早く身支度をしながら私をちらりと見た。

 少しだけ逡巡して、それからため息とともに口を開く。


「ガナドールの追っ手がかかった。今夜にでも仕掛けてくるかもしれねえ」

「追っ手!?」

「ああ。よく隠せたほうだと思うけどな。さすがにふた月近くもいりゃあ、ばれる。背後から突かれることはないが、逆に里まで攻め込まれたら逃げ場がなくなる。その前に、里を出るんだ」


 腰にベルトを巻き、そこにインゼリアで見たのと似た細長い剣――というよりは刀のようなものを差しながら、ちび様は淡々と厳しい内容を私に説明する。

 まだ悪夢の余韻を拭い切れていない頭で、私は必死にそれを飲み下そうと思考をフル回転させた。ガナドールの追っ手がそこまで、来ている!?


「でもっ、里は……里のみんなは!」


 理解すると同時に、一番最初に浮かんだのはインゼリアの光景。炎と血と、崩れ落ちる建物。そして助けることのできなかった隊長や、見習いの三人や、シムさんの顔。

 治まりかけていた震えが、再び私に戻ってくる。

 すると、支度をしながらこちらを見ていたちび様が、ふっと私の頬に手を伸ばした。インゼリアから逃げ出した時に、パニックに陥った私を落ち着かせてくれたように、近くで目と目を合わせる。


「安心しろ、ちゃんとデンスが仕切ってる。女子供はもう出発した」

「だって、どこに!」

「もともと、この里は秋までの場所だ。ベアルたちは、越冬するための別の里を持ってる。今回は少し時期が早まったが……だから、あいつらは大丈夫」

「私、が……」


 頬をすべる指に、泣きそうになった私は上から自分の手を重ねた。泣いてもなんにもならないから、もう泣かないってあの時決めたはずなのに。弱くて、そんな自分に腹が立つ。

 だけど、ちび様は何も言わないで私の言葉の続きを待った。


「私が、何にも考えないで、頼ったから……っ。本当は、わかってたのに!」


 自分たちが追われる立場なんだって。

 頼ればその人たちにだって、たくさんの迷惑をかけるって、どこかでわかってた。だけど私はちび様が怪我をしてるとか、自分が他に寄る辺のない人間だからって、それに目を瞑って甘えた。

 その結果、里は襲われる。優しく受け入れてくれた人たちは追われる。私たちと、インゼリアと同じように――。

 どうしようもなく込み上げてくる涙を我慢しようと、噛み締めた唇にちび様のもう一方の指が触れた。優しくなぞられ、私は閉じていた目を開ける。そこにあったのは、悔恨と悲しみに満ちた青い瞳だった。


「ウラバ、お前は優しい娘だな」


 ぽつり、と言われた言葉に私は首を振る。違う、そんなんじゃない。

 後悔して、甘えて、懺悔するように見せて。本当は誰かに許してもらいたいだけ。「そんなことない、お前は悪くない」って、言ってもらいたいだけ。ずっとずっと、私は自分勝手だ。ちび様に、そんな風に言ってもらえる資格なんて、ない。


「もっと早く、お前を元の場所へ帰す手だてをとるべきだった。そうすれば、お前をそんな風に傷つけなくてすんだのに」

「ちび様……」

「いいか、ウラバ。言っただろう?」


 唇から手を離し、片方と同じように頬に手をあて、ちび様は言う。屈んで、寝台に腰を下ろす私と額を合わせて、優しく。


「ひとりでため込むな。お前が感じる痛みも、悲しみも、後悔も。それは全部俺も感じるべきことだ。俺の、ものだ」


 言葉としての意味よりも、もっとずっと深くに、それは染みこんでくる。生乾きだった傷口を覆うようにして、暖かな気持ちが広がった。ひとりじゃないんだ、私は。

 身体の強張りが溶け、私はこちらを見つめているちび様に小さく頷いてみせる。ちび様はひとつ頷き返し、私から身を離した。自分のものだけになった体温が、少しだけ寂しい。


「動けるか?」

「はい!」

「よし」


 やっと明るい返事をした私に、ちび様は安心したように笑う。

 「俺は後ろを向いてるから」と言う彼に、私は着替えのことを思い出すと、少し迷ってから身につけているものを脱ぐ。ちょっと、緊張するんだけど……。

 ふたりだけの室内に衣擦れの音だけが響く。それでも、どこか安心しているのは、相手がちび様だからだろうな。これがデンスさんだったら、絶対にお断りなんだけど。

 その信頼感は一緒に危機を乗り越えたからなのか、それとも。

 手早く渡された着替えを身につけていく。それは、インゼリアにいた時に身につけていたものと似たような、どちらかというと男性用の衣服。

 濃い緑のシャツと、落ち着いた茶色のズボン。それと、いつの間にか床に置かれていた靴は、何かの動物の皮でできていてとても丈夫そう。

 最後に小銃をいつものように担ぎ、腰に銃剣を括りつける。なんだか、そのふたつの重みに安堵した。


「ちび様、支度できました!」


 黒い布を羽織ったちび様が、私の言葉に振り向いて頷く。そうして、その手を私へと差し出した。


「行くぞ、ウラバ」


 私も頷いて、その手を取る。

 強く握りしめられたその中に、芽生えた確かな絆を感じ取りながら、私たちは部屋の外へと走り出した。




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