092 大森林の鬼毒蜘蛛と逃亡奴隷 前編 sideナターシャ1
視界を遮る雑草の隙間から、巨大な獲物を見上げる。
体高2mほどの魔猪だ。わずか1mの距離まで近づいても、隠密用の魔法《気配遮断》によってこちらの姿を見咎められることはない。
準備は完了し、一息に飛び掛った。
「ブモォッ!?」
「…………っ」
猪の側面へ張り付くことに成功し、首元へ牙を突き立てる。
《猛毒付与》によって毒属性を帯びた牙は突き立てた相手へと瞬時に魔力を流し込み、実際の毒とは比べられないほどの速度でその身を犯す。この毒のいい所は自らの魔力で構成されているため、使用者には無害な点だ。高位の治癒魔法で癒されてしまうという弱点はあるものの、狩りの獲物が使えることなどそうそうない。
とはいえ魔猪もさるもの。なんらかの魔法で強化された肉体は魔力の流れを狂わせ、通常の獣よりも毒の掛かりが鈍い。
他の鬼毒蜘蛛であればこの間に獲物を糸でぐるぐる巻きにして、再び牙を突き立てるけど、わたしはそんな器用な真似はできない。糸が、出せない。
だからしぶとく身体に張り付いて、もう一度牙を突きたてようとするも、魔猪は激しく抵抗し、身体を横へと倒した。もちろんわたしが張り付いている方向へ。
「……!?」
魔猪の体重が、勢いが、そのまま力となってわたしの全身へと叩きつけられる。
痛みというのはあまり感じないものの、凄まじい衝撃と、ひっくり返ってしまったことに驚いて8本の足をわしゃわしゃと動かす。
「ブモオオォォオオォッ!!」
「!?」
無様なわたしへ魔猪は突撃を敢行。大きく吹き飛ばされるわたし。
だめだ、このままではわたしの方が狩られてしまう。獲物の立場逆転だ。
吹き飛ばされたまま草むらに飛び込んだのをいいことに、再び《気配遮断》を使用。その場から離脱した。
結局、今日もごはんなし。これがわたし、”鬼毒蜘蛛の落ちこぼれ”の日常だった。
わたしは糸が出せない。生まれつきそうだったし、これからもそうだろう。
蜘蛛の糸は網を張るために使われるが、網を張らない蜘蛛も多くいる。それが分かっているなら、糸がなくてもなんとかなると思うだろうか? そうはいかない。
何故なら糸の使い道はいっぱいあって、そのいっぱいをわたしはできないということだから。
さっきだって糸が使えればあの魔猪を狩れた。
糸が使えないわたしは同族に求愛することすらままならない。一生ぼっち確定だ。
寂しいとは思わないが、なんで生きてるんだろうと思わなくもない。だが死にたくもないのだから生きるしかない。
他の鬼毒蜘蛛はもっと優秀だけど、わたしよりお馬鹿な子が多い。というか、わたしは頭を使わないと生き延びられなかったから、仕方なく頭がよくなっただけというか。そして頭のいいわたしは簡単に狩れそうでも狩ってはいけない獲物を知っている。
人間だ。
人間は怖い。弱いけど、頭がいい。鬼毒蜘蛛の中では頭がいいわたしなんかより、遥かに頭がいい。特にこの森にやってくる冒険者というのは特別頭がいいみたいで、わたしの同族もいっぱい狩られている。
毒を誇る鬼毒蜘蛛がいた。たしかに強力だったけど、人間の治癒魔法であっさり解毒されて殺された。鬼毒蜘蛛よりも強いワイヴァ-ンの死体を見つけ、食べることに成功し、変身できるようになった鬼毒蜘蛛がいた。その姿でも群れた冒険者には敵わなかった。普段から群れを作る奇妙な鬼毒蜘蛛たちもいた。まとめて焼き尽くされた。
だからわたしは人間を狙わない。いくら弱そうでも、殺せそうでも。仮にその一匹を食べられても、あっというまにもっと強い人間がやってきて、わたしたちを殺すから。
そんな決意も虚しく、あれから一週間が経過した。最後に獲物を仕留めてからは二ヶ月ほどだ。鬼毒蜘蛛はとても効率のいい生き物で、他の生き物のように毎日食べなくても大丈夫。とはいえ二ヶ月となるとそろそろ苦しい。ぶっちゃけ死にそうだ。
この森の生き物はみんな強い。しかし森から出ると人間が増える。弱い人間も増えるが、強い人間も増えるので殺される確立は高くなる。
そして何故か、目の前に弱い人間が居た。おかしい、ここはまだ森の奥、入り口からは遠いはずだ。しかし目の前の人間は明らかに小さい、子供だ。身なりもたぶん悪い。冒険者っぽくないから、多分弱い個体だ。たまに小さくても身なりがいいと魔法の上手いやばいのが居るけど、これはたぶん違う。
そしてその弱い人間は死に掛けていた。恐らくはわたしと同じ、空腹で。
千載一遇の好機! と思ったけど、相手は人間。しかし食べたい。しかし食べたらつよいのがやってくる。
わたしは悩んだ結果見なかったことに……はせず、その人間を草むらに隠して《気配遮断》をかけてやった。
助けた? 違う。獲物が狩れなかった時のための保険。備蓄だ。
そう思っていたけど、次の日あっさりと獲物が狩れてしまった。
以前見つけた魔猪だ。あれからしぶとく生き続けていたようだけど、わたしの毒は勝手に消えない。解毒するには治癒魔法が必要だ。だから治癒魔法の使えない魔猪は息も絶え絶えになっていて、簡単に狩れた。
魔法の毒は治癒魔法で簡単に消されるけど、魔法が使えなければどうあがいても消せないのだ。すごい。これまで他のやつに狩られずにいて、わたしの前に来てくれたことも運が良かった。すごい。
この量となるとさすがに1日では食べきれない。備蓄しようと思って、昨日隠した人間を思い出す。あれ、どうしよう? とりあえずこの魔猪も同じところへ持っていこう。
糸が使えれば木の上に置いたり、葉っぱをつなげて巧妙に隠せるのだけど、使えないので穴を掘るしかない。人間も埋めておこう。
そうして人間をくわえたところで気がついた。この人間、まだ生きてる。
さてどうしよう。魔獣もお腹がいっぱいだと寛容になるもので、魔猪をこの人間に分けてあげようかと悩み始める。幸いお肉はいっぱいあるし、たぶんわたしが食べきる前に腐り始める。多少腐っていてもわたしは毒が利かないので平気だけど、腐らせるくらいならこの人間にあげてやっても構わない。
「…………」
「うぇ……」
「!?」
この人間、お肉を吐き出した! せっかく貴重な食料をわけてあげたのに、失礼!
と、同族なら怒り狂ってこの人間を食べてしまうところだけど、わたしはかしこい。冒険者たちがとったお肉を焼いて食べているのを何度も見たことがある。しかし困った、わたしは火の魔法は使えない。別にこの人間が死んでも困らないのだけど、生かしてあげようと思った相手が死ぬのはなんというかこう、悔しいので意地でも食事をさせる事に決めた。
30分後、わたしは焼きたてほやほやのお肉を用意することに成功した。
森に生息する火吹き蜥蜴を見つけ、盛大に煽って火を噴かせた。それで焼けたのがこちらのお肉だ。ちょっと中心まで焼けなかったけど、まぁ大丈夫だろう。人間が食べやすいように小さく切り分けて、口に詰め込む。嫌がっても詰め込む。食え。
食べた! 食べた! 人間が食べた!
ついにわたしはやった。なんだか良く分からないけど達成感に包まれた。
そういえば人間も水を飲むんだった。わたしは草木に溜まった水を集めて飲ませた。
しばらくして、人間の意識がはっきりしてきた。
「……くも、さん? 蜘蛛さん!?」
「……?」
そう、わたしは蜘蛛。正確には鬼毒蜘蛛。今更何をと思うも、そういえば人間は他の種族に怯えるものだった。これはいけない。このまま助けを呼びに行かれたら、強い冒険者に殺されてしまう。
かといって助けたものを自分で殺すのもなんか嫌だ。
ここでわたしが人間に変身できたらよかったんだけど、生憎わたしは人間を食べたことがない。ゴブリンなら殺したことがあるが、あれは殺すと消えてしまうので食べられない。魔石は食べたけど。
そこでわたしは小さなリスに変身した。リスはリスだ。魔獣ですらない、ただのリス。
この森では弱すぎて逆に珍しいけど、わたしは食べたことがある。簡単に狩れたけど、食べるところは少なかった。
「リスさんになった」
そう、わたしはリスさん。よくわからないけど、人間は小さな獣相手には警戒を解きやすいらしい。小さい獣にも魔獣はいるから、危険度は大差ないと思うんだけど、不思議。
それから数日、その人間と一緒に居た。
魔猪の肉を削いで、焼いてきて、切り分けて食わせてやる。その過程で人間はわたしが本来の姿になっても怯えなくなった。これが慣れという現象らしい。人間はこうして色々な状況で生き抜いているのか、すごい。
ある日人間が草を食べていた。興味を持ってわたしも食べてみたけど、まずかった、というか軽い毒だった。
まさかわたしを殺すために仕込んだのかと思ったが、人間は不思議そうな顔でもしゃもしゃと草を食べていた。人間には平気らしい。後で知ったことだが、人間は意外と毒に強い。人間がさわやかに感じる臭いの元は大体虫には猛毒だったりした。ラベンダーとか。
わたしの魔力の色がラベンダー色と呼ばれていることを知ったときの複雑な胸中は、きっと他の鬼毒蜘蛛では理解できないに違いない。
それからさらに数日して、近くを人間の群れが通った。
冒険者かとも思ったが、身なりが小汚いというか、弱々しいというか、拾った人間と似ていた。と思ったらその人間が飛び出していき、その中のひとりに張り付いた。狩りか、人間は同族を食べるのか、と思ったら親愛の表現だったらしい。
蜘蛛だと交尾した後に相手を食べるとかよくあるので、それからしばらくいつ食べるんだろうと勘違いしたままだった。
リスの姿のまま人間についていったが、人間は他の人間にわたしのことを説明していた。
その人間の群れについていって、分かったことをまとめてみる。
この群れは他の人間の土地でドレイショウニンという種類の人間に飼われていたこと。
住処がなくなったのでこの森まで逃げてきたこと。
全部で15人ほどいること。
わたしが拾った人間の名前がナターシャということ。
抱きついていた人間が父親で、母親は死んだこと。
よく見ればみんな同じ首輪をつけていた。これが奴隷の証らしい。
わたしのことを説明したからか、他の人間達が慌てて距離をとったり、わたしへ粗末な武器を向けてきたが、ナターシャがわたしをかばったので様子見となった。
その後魔猪がやってきたので人間達に気をとられている隙にリスの姿で接近。頭頂部で元の姿に戻るとその両眼へと牙を突きたててやった。毒は脳へと直接届き、魔猪は即死した。
前回の反省を生かした見事な狩りだと自画自賛し、せっかくなので足を一本もいで人間達へくれてやった。
それで警戒を和らげたのか、人間達はわたしへ武器を向けなくなった。
人間は贈り物に弱い。わたしは学んだ。
この森で一週間以上生きているだけあって、この人間達は見かけよりも強かった。
なにより魔法を使える個体がいる。
魔獣の使える魔法は生まれつきのものだが、人間達はなんと新しく学んで使うらしい。だから使えない個体が多いのだとか。わたしはびっくりした。使える魔法が増えるだなんて、手足を増やすようなものだ。
それからのわたしは必死に人間の言葉を真似ようとした。言っている意味はなんとなくわかるけど、話そうとすると難しい。けれど人間の魔法を使うには人間の言葉が必要だ。生まれつきの魔法なら必要ないし、鍛えた人間も必要ないそうだけど、いまのわたしには重要だ。
わたしは愕然とした。蜘蛛の口もリスの口も人間の言葉を発するのには向いていないのだ。わたしはしばらく転げ周り、8本足をわしゃわしゃとさせていた。
それをみた人間達、とくにナターシャは楽しそうに笑っていた。
ある日、人間がひとり死んだ。
ナターシャではない。体の大きな、オスの人間だった。よく他の人間を守るために前へ出て、粗末な武器、槍を振るっていた。だから火吹き蜥蜴に殺されてしまった。その蜥蜴はわたしが殺した。強かったけど、がんばった。
人間達が死体の前に集まっているから食べるのかと思ったら、穴を掘って埋めるらしい。もったいない。そう思ったけど、わたしも穴を掘るのを手伝ってやった。糸がないから網は張れないけど、その代わり穴掘りは得意。
死体の傍に寄ったので死体を食べるつもりかと警戒されたが、人間が同族を食べないのを学んだわたしはそんなことしない。人間がしないことをすると人間は警戒するという事も学んだ。
一瞬、この死体を食べて人間に変身すれば、言葉も話せるし魔法も使えるのではと思ったけど、この人間が生前わたしの足わしゃわしゃを見て笑っていたことを思い出して、やめた。
「ありがとう、リス蜘蛛さん」
「……」
無言で、というか話せないので前足を一本あげて答えておいた。
だがわたしは鬼毒蜘蛛であってリス蜘蛛なんて種族ではない。
この群れの目的は森を抜けて他の国へ行くことらしい。
国というのはよく分からなかったけど、わたしはこの群れが好きになっていた。
なによりナターシャがわたしに優しくしてくれる。
同族からは欠陥個体として見下されていたわたしにとって、そして生き残るために頭を鍛えたせいで疎外感とか、くだらない感情を理解してしまったわたしにとって、はじめての心安らげる居場所だった。
そう──だったんだ。
過去編はいつものようにシリアスパートです、ご注意ください(遅
何故ってそりゃあコメディ製造機たる主人公が出てこないので。
シリアスさん「出番!」




