明けの明星
春の街――
その都市は昔は東京都と呼ばれていた。だが、それも約三五〇年ほど前に巨大な壁で囲われた堅牢都市、通称異能の街と呼ばれるようになっている。
出入りの際は厳重な検問によって審査され、その出入りを厳しいものとした。
そこに住む異能者や魔術師が数多くいる都市である。
その都市では――別にその都市だけでなく全世界共通で――こんな昔話がある。
嘗て、この世には人間にして魔王と恐れられる存在がいたという。その者は魔に魅入られ、多くの魔から気に入られていた。
天界はその者を脅威と判断し、地上の生物全ての敵とみなした。その者を討ち滅ぼすために、多くの天使や神を送り込んだ。
だが、魔に魅入られし者は自身に与する悪魔達と異能の力を持つ人間達を率いてそれらを撃退し、追い払った。人間に多大な被害をもたらした戦いだったが、その後、魔に魅入られし者は人間としての生を全うし、誰に看取られることなく逝った。
この昔話は親から子へと語り継がれ、国を問わずに知られた話である。
噂では、魔王と呼ばれた者の子孫が世界のどこかにいるとも言われているが、それが一体どこにいるのかは誰も知らない。
深い闇。その中を一人の女性が音もなく歩く。人の気配もなく、ヒヤリとした冷たい空気が肌を撫でる。
女性は背が高く、胸元と脇、背中の開いた露出度の高い服を着て、裸足。透き通る金髪を長く伸ばし、足のひざ関節まである。艶かしい唇に、綺麗に整えられた柳眉。そして、目の前の闇を見据えるワインレッドの瞳。そして、首筋にある痛々しい傷痕。
開いた胸元から覗く豊満な胸に、キュッと引き締まったくびれというグラマラスな体型をしている。
だが、特徴的なのが彼女の背に生えた三対の黒翼。作り物とは見えない大きく立派なその翼を、時折、バサリと一度動かす。
不意に、暗闇の先に一筋の光が見えた。
女はそれを見ると、艶やかに笑んだ。
「久しく訪れていない地上。昔とどう変わったのか、楽しみでならないわぁ」
美しく透き通った女の声が闇の中で木霊する。
知らずのうちに、胸の内が熱くなる。そこまで自覚はしていなかったが、相当楽しみにしていたらしい。
女性は三対の翼を大きく広げ、バサリと今一度羽ばたく。その瞬間、大きな風圧が闇の中を一掃した。
気づけば、女性の足が地面から離れていた。翼を羽ばたかせて飛ぶその姿は、天使に見えなくない。
だが、彼女は天使ではない。すでに天より堕ちた身だ。俗世では、様々な名前で呼ばれているが、一番よく知られているのは、ラテン語で『明けの明星』だろうか。
いや、それは嘗てのお気に入りが自分のことを呼ぶ時の呼び名ではなかったか。知られている名ではあるが、その者が一番よく呼んでくれた気がする。
――私の名は、堕天使ルシファーだ。
「フッ」
ルシファーは一度小さく笑みをこぼし、そのまま一点の光に向かって猛スピードで飛翔した。
四月中旬――
桜の花が散り始めてきたこの頃、ニュースではいつも通りのアンチ異能派の暴動を、アナウンサーの無機質な声音で告げられている。
特にこれといった面白みのあるわけではない普通のアパート。その中の狭いリビングも、テーブルや棚などの家具を置いているため、更に狭く感じる。
そんなリビングで、少女が椅子に腰掛け、ニュース番組を無関心に眺めていた。
少女の名前は阿久根咲、一六歳。サイドテールの茶と金の織り交ぜになった髪で、瞳も赤いことからよくハーフに間違われるが立派な日本人だ。
学校の制服らしい服装を着ており、その顔立ちも少しだけ幼さが残っている。
スレンダーな体がコンプレックスであり、一見細身で華奢だが、儚げな印象はこれっぽっちもない。むしろ、鍛えられた刃のような印象を与えている。
「いつも同じニュースばっかり」
最近、アンチ異能派の暴動が数多く起きており、彼女の住む街にはいまだ被害のないものの、辺境の地では酷いらしい。
最近授業で習ってわかったことだが、今から三〇〇年ほど前から異能と呼ばれる不思議な力を持った子供が生まれることが多くなったらしい。勿論、咲も異能者だ。
現在の世界総人口のうち、約六割は異能者が占めている。その異能の中には魔法や魔術といった超常的なものも含まれており、そういったものを恐れた人々の集まりがアンチ異能派というわけだ。
不意に家のインターホンが鳴った。
「はーい」
咲は返事をしつつ、玄関に向かった。玄関扉を開け、そこに立っていた人物とハイタッチを交わす。
「おはよ〜」
「絢。ちょっと待ってて、すぐ荷物取ってくるから」
咲は絢をその場に待たせておきつつ、すぐに学校の荷物を取りに戻る。
絢はウェーブがかったロングヘアに、前髪をヘアピンで止めている。顔のパーツがよく、尚且つスレンダーな咲と違って少しボリュームのある胸。
いつも見る度に羨ましく思う。
「お待たせー!」
「おーう。行くぞー!」
咲は家の鍵を閉め、先を歩く絢に追いつくために小走りで追いかけた。
「今日の授業は?」
「異能訓練Bと体術訓練B」
咲達のいる異能の街は人口のおよそ七割が異能者や魔術師で集まっており、それらの者達のための学校もある。
その学校では、異能の力の強化と座学、護身のための簡単な体術などいろいろな科目が設定されている。
それを聞いた咲は「げっ」と声を漏らした。
「チョー疲れるやつじゃーん」
「しゃーないって。私はランクBだからいいけど、咲はまだランクEだからさぁ」
異能者達にも一般校の座学での成績があるように、異能での成績がある。その成績は『ランク』と呼ばれるもので分けられ、一番低いのでE、そのままD、Cと上がっていき、最終的にはSになる。
しかし、ランクSを取得している人物は都市の中におよそ一五人だけと少ない。
そして、咲は一番低いランクE。
ランクEは基本、異能を使いこなせていない。もしくは、実用的ではないという分類になる。
咲の能力は『瓦解』。あまり知られてはいないが、異能の構築を無効化させたり、発動された異能に触れると無条件でその異能を霧散させたりしてしまう能力だ。
考えようによっては恐ろしい力なのだが、両手で受けなければならず、腕や手首など手以外の場所では発動しないのだ。
「いいなぁ、ランクB」
「へへーん! もしなんか喧嘩売られたら私を呼びな! すぐに駆けつけて、私の『灼熱』で焼き尽くしてやるから!」
「一応体術あるけどね」
「それもそうだね。あははっ!」
「あはははっ」
絢の異能『灼熱』はその名の通り、炎を操って攻撃するといった芸当の出来る能力だ。環境によっては粉塵爆発を起こして自分も巻き添えになってしまうデメリットがあったりで、実力はAだが、Bに分類されてしまっている。
うまく操れるようになれば、Aにしてもらえるかも、というのが絢との日常的な会話である。
「じゃ、急ご!」
「そだね!」
二人は蒼穹の下を、力一杯駆け抜ける。まばらに桜の花びらが散るのを眺めつつ、賑わいのある商店街に入って行ったのだった。
「へぇ、随分と様変わりしたみたいねぇ」
ルシファーは路地裏に降り立ち、その隙間から覗く街の様子に感嘆の声を上げた。
その背にあったはずの三対の黒翼がなく、声が低くワイルドな声音になっている。
見た目も女から男へ。一八〇近くある身長はそのままに、髪が黒になり先ほどと比べると一気に短くなる。首筋に傷痕を残し、体の肉付きも男のそれへと変化していく。
服もそれに合わせて、カットソーとジーンズ、コンバットブーツへと変化した。
男にしてはまだ髪が長いが、それでも肩甲骨まで伸ばした長さはその見た目に合っている。
容姿は二十歳前後といったところだろうか。切れ長の瞳に少し乱れた前髪でワイルドさが少し引き立てられていた。
「これでいい。さて、まずはどのような変化になったのか見てみようか」
口調も女のものから男のものに変えられ、辺りを見回す仕草から旅行中の青年に見えなくもない。
雲ひとつない青空を見上げ、一匹の鳥が飛んでいくのが目に入る。
昔は、これと似た光景を肉体の内側から見ていた。退屈になれば、肉体の本来の持ち主と会話をしていたのだが、今はもうそんな存在もいない。
ふと、遠くの方に街を囲むようにして立ちはだかる壁が目に入る。
――昔はあんな物はなかったが……。
今はそんなことはどうでもいい。
取り敢えず、喉が渇いた。幸い今いる場所は商店街らしく、いくらか店が立ち並んでいた。
その中のひとつのカフェに目を向けた。
カジュアルな雰囲気の店内に、テラスにも出されたテーブルに椅子。時折風に流されて空を舞う桜の花びらが、やけに愛おしく感じる。
――ここにしよう。
ルシファーは何人かの通行人とすれ違いつつ、店へと入って行った。
店内では愛想良さそうに店員が微笑んで、「ご注文は?」と尋ねてくる。
メニューを受け取り、適当にコーヒーのストレートとサンドイッチを頼み、店外のテラスに持ってくるように頼んだ。
ルシファーはテラスの一番外側。宙を浮いて滑空する車のような物体を尻目に、テーブルに置きっぱなしになっていた新聞紙を手に、腰を下ろした。
新聞の見出しには、アンチ異能派暴動繰り返す、と書かれており、何やら面白そうな内容が書かれていた。
それを読みつつ、ある程度は分かってきた気がする。
どうやら、今の世は昔とは違い、異能を持つ人間が数多く現れているらしい。
昔、ルシファーがこの世にいた時、魔術師、異能者を合わせても世界総人口のおよそ三割にも満たない数だったのだが。
それに対し、アンチ異能派とは異能を持たない一般人たちの武装集団を指すらしい。
――随分と物騒な世の中になったものね。
しかし、人間は自身の持っていない強力な力を恐れる習性がある。それにより、迫害や処刑などといったくだらない出来事が昔から行われている。
昔、魔王と呼ばれていた人間も同じ目に遭い、人類滅亡を企てようとしたほどだ。
「人間は、変わらないな」
ポツリと思ったことを囁くと、丁度頼んだ品が届いた。
テーブルの上にコーヒーと出来たてらしきサンドイッチが乗せられる。
対して空腹ではなかったのだが、折角注文したことだし食べておこう。
新聞のページを捲りながら、サンドイッチを頬張っていく。美味い。想像していたよりも美味だ。
コーヒーをすする。程よい苦味とあっさりとした喉越しで何杯でもいけそうだ。
すぐに頼んだ品が空になり、そろそろ街の物色に戻ろうかという時。
いきなり、車が建物に突撃したかのような轟音が辺りに轟いた。
それも、一度や二度ではない。何度も、断続的に轟き続けている。
「喧嘩だっ! 異能者同士の喧嘩だぞ!」
ルシファーが今いる場所から道路を挟んだ反対側。そこで、荒れ狂う水流が一人の小柄な男を捉えようとうねり、だが俊敏な動作でそれを躱し続けている。
大きな怒号にギャラリーの囃し立てる声が合わさり、そこだけ一気に騒がしくなった。




