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青々と茂る木に、熟れた林檎がなっていた。
まさか、こんな所で好物を見つけるなんて。
久しぶりに林檎の甘い香りを吸い込んで、息を吐く。
「何してるの?」
すぐ後ろから声をかけられて、アランシアは驚いて振り返る。
「あなたこそ、何を?」
「丁度君に会いに向かっていたんだよ」
そう、とそっけなく答えて、視線を林檎へ戻す。
「林檎が好きなの? 食べるなら持ってこさせるけど。今なら甘いと思うよ」
「香りが好きなの」
それに、と続けた言葉を、閉ざす。味覚がない事を、彼に明かしてもいいだろうか。不安になりながらも、アランシアは再度口を開いた。
「それに、私には味がわからないもの」
「え?」
「味がわからないの。甘いのか、なんて食べてもわからないわ」
彼は黙りこんだ。顔を見るのが怖くて、林檎から目をそらせない。
すると、背後で小さく笑った気配がした。
「殿下?」
訝しんで振り返り、満面の笑みを浮かべるゼイヴァルを見て、固まった。
「味がわからなくても香りはわかるんだろう?」
「そうよ」
だから何だ、と不思議に思っていると、ゼイヴァルは木の下へ歩み寄り、手を伸ばして赤く染まった林檎を一つもぎとる。
「はい」
にこやかな笑顔で渡され、アランシアは両手でその林檎を包み込む。彼の笑顔が眩しくて、胸がきゅっとなる。
しかし、それと同時に現実を思い出した。
彼にはたくさんの愛人がいる。寵姫と噂されるラリアはゼイヴァルの兄の元婚約者だが、ゼイヴァルがどう思っているのか不明だ。
「……私、離宮に移るわ」
自分の結論を告げると、ゼイヴァル驚いたように目を見開いて、固まった。
「もう耐えられないの」
愛人も、ゼイヴァルさえもいない離宮へ行きたい。
手に入らないなら──自分だけの物にならないなら、もう目に映す事すら叶わない所へ行きたい。
「ま、待って。耐えられないって、何に? どうして?」
顔色を真っ青にして、ゼイヴァルが狼狽えた様子で問いかけてきた。思わず一歩後退ると、逃がさないと言わんばかりに手首を捕まれた。
「何にって、全部よ。もう辛いの。政略結婚なのはわかってるし、必要なら妻としての義務も果たすわ。だけど……」
感情が高ぶって、涙が零れた。蓋をしていた感情が、一気に溢れてくる。
アランシアは俯いた。
「私だけを見て欲しい。他の女の所にいかないで欲しい。……私、あなたが好きなの」
ゼイヴァルが息を呑んだ気配がした。顔を見るのが怖くて俯いたままでいると、いきなり腕を惹かれて、抱きしめられる。
「アラン──アランシア。全部説明するから。だから、出て行かないでくれ」
そう懇願されて、心が震えた。
駄目だ。落とされる。全てが奪われる。心が、ゼイヴァルの側にいたいと叫んでいる。
「……ひとまず、話を聞くわ」
零れる涙を、彼が指の腹で拭ってくれた。お互いに近距離で視線を交えて、ゼイヴァルが口を開く。
「今日俺が殺したあの女は、この国の元第一王妃だ」
「……王妃様?」
「この国には元々王妃が二人いてね。今の王妃は俺の母親。あと食事の時に会う他の王子達も今の王妃の子供。……兄のリアドゥードと、以前庭で会ったチェティットだけが元第一王妃の子どもなんだ」
その説明で、ゼイヴァルにチェティットの居場所を懸命に聞きだそうとしていた女を思い出す。
「あなたは、なぜあの人を殺したの?」
「兄を殺したからだよ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。彼の言葉が何度も頭の中を駆け巡る。
「第二王妃を王様が迎えてから、おかしくなったんだ。王様の心が手に入らないなら、せめて自分の息子だけでもって考えるようになって……」
ゼイヴァルは一度口を閉じた。唇を噛んで、俯いている。
仲の良い兄弟だったのだろう。
「ある朝、起きたら兄が死んだという知らせを聞いた。その前夜、兄は母親に呼び出されたって言ったきりで……。あの女がやったのは明確で、王様も同じ考えだった」
アランシアの手首を掴む手に力が入るのがわかる。歯を食いしばって、表情は苦悩に満ちていた。
「だけど、証拠がなかった。それらしいのはあったけど、王妃を糾弾するには──臣下や国民が納得できるだけのものがなかった」
だから、と彼は言葉を続ける。
「次はチェティットを狙っていたから“療養”という名目で一部の人間しか知らない牢屋で監禁した」
「じゃあ、あの人があんなにチェティットの居場所を聞いてたのって……」
あの必死さは全て自分の息子を殺すという執念からか。ぞわりと鳥肌が立って、アランシアの顔が青くなる。




