公爵様が溺愛しているのは私ではなく馬です ~錬金野菜で公爵様の愛馬を回復させるまでの契約婚約です~
「ふざけんなよ」
アレクサンダー様が浮気していると聞きつけ、馬車に駆け込んだ。御者にこのまま馬車を走り付けるように伝え、首から提げたドッグタグを折る。有事の際、すぐに彼の居場所まで転移できるよう、特別に作成した錬金アイテムだ。
魔法が発動する直前、目の前に浮かび上がった転移予定地はニーゼル領の景色だった。
話に聞いていた通りだ。大きな舌打ちをする。同時に遠いかの地に飛び立った。
「なぜ君がここに!?」
私の顔を見るやいなや、アレクサンダー様の顔は真っ青になった。後ろめたいことがある証拠だ。
場所といい、反応といい、浮気は確実。怒りで拳を固める。あまりの力の入りように、自分の手のひらに爪が突き刺さった。けれど今はそれどころではない。浮気者への制裁が先だ。
「歯ぁ、食いしばれや。浮気野郎が!」
綺麗に整った彼の顔めがけて右ストレートを繰り出す。
「いやああああああ」
すぐ隣にいた女性が悲鳴を上げるが、構わず二発三発と繰り出していく。騎士であるアレクサンダー様はこんな時でもしっかりと受け身を取る。
顔面パンチに受け身も何もないかもしれないが、ダメージが少なくなるように微妙に位置を変えている。通常時なら好意的に映る行動も、今は怒りのボルテージを高めるばかりである。
お茶会から直行したため、愛用の武器がなかったのが幸いした。あったら淡い恋心なんて捨てて、切りつけている。むしろ今まで抱いた好意がパワーへと変換される。
「エルマ、落ち着いてくれ」
「これが落ち着いていられますか!」
「本当に何もないんだ!」
「何もないわけないでしょう!」
「お嬢様! ご無事ですか」
令嬢の悲鳴を聞いて何人もの使用人達が駆けつける。されるがままのアレクサンダー様にギョッとしている。彼らの顔を見て、私も少しだけ冷静になった。こほんと軽く咳払いをする。
「……分かりました。一応、言い訳があるなら聞きます」
「伯爵はちょうど客人の対応で席を外しているだけだ。少し前まで同席していたし、今までだって彼女と二人きりで会ったことなどない。信じてくれ」
「あなたが女性と二人きりで会おうがどうでもいいです」
「え……」
私の言葉に令嬢と使用人達が固まった。ダンジョン内で氷漬けになった時のようだ。
残念ながら氷溶かし剤は持ち合わせていないのだが……。まぁ実際に魔法を打たれたわけではないのだし、そのうち治るだろう。
問題はアレクサンダー様だ。何かブツブツと呟いている。
「どうでもいい……どうでもいいか……」
「で、なぜ他の馬に浮気しようなんて思ったんですか。ジェイスは今もあなたの期待に応えようと必死で戦っているというのに」
ジェイスはアレクサンダー様の愛馬だ。
アレクサンダー様は特殊な怪我を負ったジェイスを助けるため、貧乏子爵令嬢の私と婚約を結んだ。
初めて会った日、彼はジェイスへの深い愛情を語ってくれた。
その姿に心打たれ、雇用契約と一時的な婚約を結んだ。貧乏貴族とはいえ結婚適齢期の令嬢が住み込みで働くには体裁が悪いと、アレクサンダー様から契約婚約を申し出てくれた。
それが一年前のこと。
それから私は公爵屋敷に住み込み、毎日錬金野菜で作った料理をジェイスに振る舞った。日に日に大きくなっていく恋心がアレクサンダー様に伝わることはなくとも、ジェイスが元気に走る姿を見たい気持ちだけは一緒だと思っていた。
なのに、なぜ……。
彼の裏切りを口にして、ますます苛立ってきた。ニーゼル家の使用人がいる手前、殴りこそしないが、拳はボディにも数発決めたいと叫んでいる。
「誤解だ。私の愛馬はジェイスだけだ」
「誤解? ここがニーゼル領であることが何よりの証拠ではありませんか」
ニーゼル家は代々多くの名馬を輩出してきた家系である。
毛並みの良さ、頭の良さ、脚力、どれをとっても最高ランクだと言われており、王宮騎士団の馬のほとんどがニーゼル領出身である。
今はジェイスの世話に忙しくてそれどころではないが、いつか自分の相棒を迎え入れる日が来たら、ニーゼル領に足を運ぼうと思っていた。
私よりも先にアレクサンダー様が次なる馬を選びに来るだなんて思わずに。
苛立ちで拳が震える。
「ジェイスの嫁探しに来たんだ」
「白々しい。生物が隠し事をするのは後ろめたいことがあるからです」
「まだ全快したわけでもないのに嫁の話などすれば君は怒るだろう。……だがしっかりと君とジェイスに話すべきだったと反省している。悪かった。不誠実な行為だったと反省している」
「本当に?」
「ああ、馬神様に誓って本当だ」
まだ納得することはできないが、馬神様まで出されてはこれ以上言及することはできない。深いため息を吐き、怒りを静める。
「……いきなり殴ってしまい、申し訳ありませんでした」
ひとまず和解の姿勢を取れば、側で見守っていた令嬢がおずおずと切り出した。
「あのアレクサンダー様。頬の怪我は……」
その手には氷嚢がある。いつの間に用意したのだろうか。だがアレクサンダー様は彼女の好意を片手で制した。
「この程度、問題ない。それより巻き込んでしまって悪かった」
「い、いえ。それよりそちらの女性は」
「私の未来の妻、エルマだ。この通り、私の愛馬・ジェイスを深く愛してくれる素晴らしい女性だ。今日も心配して来てくれたようで」
私が彼の妻になることはないのだが、この場を納めるためだろう。よくスラスラと適当な嘘が出るものだ。へらりと緩んだような笑みには卒倒する女性も出てくることだろう。これが近衛騎士の処世術なのかと感心する。
私も遅れて自己紹介をする。もちろん謝罪も忘れずに。
「エルマ=ガラクシアです。この度は大変失礼をいたしました」
「あ、えっと。はい、こちらも配慮に欠ける対応? であったと、反省? しております」
彼女は未だ混乱しているようだ。ところどころ疑問形になっている。それでもしっかりと対応してくれるのは、名家の令嬢だからだろう。
普通の婚約者が「浮気しているらしい」と聞けば、疑う対象は当然人間である。
実際「アレクサンダー様が浮気しているらしい」と私に教えてくれた親切な令嬢達は、目の前の女性とアレクサンダー様が恋仲にあると話していた。貧乏子爵令嬢を婚約者にしたのは一時の気の迷いだったのだと、捨てられる未来にある私をクスクスと笑いながら。
女性からの人気が高い近衛騎士の中でも、アレクサンダー様の人気は高い。常に三本の指に入るほどの人気だと聞く。
そんな相手が婚約を結んだ相手が貧乏子爵令嬢だったのだから、多少の嫌味を言いたくなる気持ちも分かる。ごくごく一部ではあるものの、彼が私を溺愛しているという噂が流れていることも彼女達の気に障ったのかもしれない。
私の顔色が変わった途端、会場内にいるほとんどの女性から喜びと嘲りが伝わってきた。
「後日、改めて謝罪に来る。伯爵にもそう伝えておいて欲しい」
ぺこりと頭を下げ、アレクサンダー様が乗ってきた馬車で帰宅する。
彼は魔獣と遭遇した時のために常備している回復ポーションを飲む。
「すみません。痛みますよね。屋敷に戻ったら打撲用の傷薬を調合しますので」
「いや、いい。これは私の身勝手な行動が生んだものだ。今後の戒めとして残しておきたい」
「その傷を理由に婚約解消するという手もありますね」
婚約時から解消まで折り込み済みだったとはいえ、体外的には理由が必要だ。噂を聞いた後に乗り込んだという筋書きは婚約解消に相応しい。
私の過失で婚約解消に至ったという点は痛いが、勘違いで殴ってしまったのは私だ。これくらいのペナルティは負ってしかるべきだろう。
公爵家の支援もあって、当家の借金はほぼない。だが借金を作る要因となったダンジョンはガラクシア領に残り続ける。今後も何かしら起きる度に借金をすることになるのだろう。
兄は奇跡的に貴族と婚約を結んだが、私は無理だ。貴族との婚姻はすでに諦めている。
結婚するなら平民。それも元貴族やお金持ちではなく、冒険者。アレクサンダー様と婚約してからも度々ダンジョンに潜っているため、冒険者の知り合いは多い。
錬金術でどんな武器でも作れると口説けば、一人くらいは貧乏貴族の婿に入ってもいいという男性もいる……と思いたい。未来の夫に提供できるメリットを考えていると、なぜか正面に座るアレクサンダー様の顔色が悪くなっていく。
「なぜそんな話になる!? 彼女とは何もなかったと信じてくれたのではなかったのか」
「? ですからそれはどうでもいいと」
アレクサンダー様もいつかは身分相応の妻を娶る。
出会うよりも前から決まっていたことだ。他の女性を選ばれたところで今さら傷つくことでもない。その資格もない。
「私にとってはどうでもよくないが!? やはり隠し事をしたのがいけなかったのか? 今後はしないと誓う。信じられないというのなら監視用の魔法道具を装着しても……いや、だがそれだと勤務中は外す必要が出てきて、信頼に欠けることに……どうすれば君からの信頼を回復できる?」
「ジェイスのことをこれからも変わらず愛してくだされば」
「だからあれは浮気ではないと。私だけが結婚するのは申し訳ない気持ちもあり、気が先走ったというか……」
「ご結婚なさるんですね。おめでとうございます。では屋敷に到着次第、庭師と馬丁と相談を」
ジェイスの嫁取りといい、アレクサンダー様の結婚といい、なぜ大事なことを隠すのか。
ジェイスが完治するまでの婚約関係とはいえ、一日二日で屋敷を出られるわけではない。
錬金釜を撤去するにも釜を洗うところから始まり、今後の錬金ニンジンの生産について話し合う必要がある。
完治が近いとはいえ、ジェイスはまだ万全ではない。
すでに錬金ニンジンに頼らなくても問題ないラインまで来ているとは思うが、いきなり与えなくなれば彼もびっくりしてしまう。徐々に減らしていき、完治後も贅沢品としてシフトしていくのが一番だ。そのつもりで半月ほど前から庭師と馬丁と話を進めていた。
予定が狂ってしまったが、庭師になら錬金ニンジンの生産を託せる。彼は私が公爵屋敷に来た頃からずっと手伝ってくれていた。生産に必要な魔じょうろと魔素ビニールハウスも使いこなせるはず。
唯一の問題点は、どちらも私が錬金野菜を生産するために開発したアイテムだということ。レシピは出回っておらず、作れるのは私しかいない。
だがどちらかが欠ければ錬金ニンジンは枯れてしまう。早々壊れるものでもないが、予備も作っておいた方がいいか。買い取ってもらう形になるため、帰ったら執事長とも相談しなければ。
どちらにせよ、専用の土と錬金ニンジンの種は継続的に購入してもらう必要がある。
といってもどれも急ぐようなことではなく、実家に帰ってから生産を開始すればいいから……うん、五日もあればなんとかなりそうだ。
まず錬金釜を洗うところから始めて~、と頭の中でやることリストを組み立てていく。
「なぜここで庭師と馬丁が出てくるんだ」
「私が屋敷を去るなら彼らとの相談は必要ですので」
「なぜ去ること前提なんだ」
公爵令息ともなれば、相手の女性の家格も相応に高いはず。どんなに心が広い令嬢だとしても、元婚約者が住み込みで働いていると知れば怒るだろう。
事情を話したとしても婚約理由を公にできない以上、相手のプライドが傷つく。右頬に殴りかかるどころでは済まない。変な噂だって流れるかもしれない。アレクサンダー様からしても失うものが大きすぎる。
「それ、本気で言ってます?」
否定してほしくて、そう告げる。けれど彼の表情が変わることはなかった。
「本気だが」
真顔でそう言い切った。正直、ドン引きである。これでもかとばかりに表情が歪んでしまう。今の私はとても異性に、それも好きな男性に見せられない顔をしていることだろう。
だが私がアレクサンダー様と結婚することは断じてない。
恋心が叶わないと理解しているからこそできる顔だ。
「そんなに私との結婚は嫌なのか……」
「あり得ません。もっと慎重に考えてください」
万が一にでも相手の女性がこの話を受け入れてくれたとしよう。
ジェイスへの溺愛を理解しているか、よほどアレクサンダー様を愛しているか。どちらかがあれば突破できなくはない。
だがそこに私を巻き込むのは止めてほしい。恋心はあるが、叶わぬ想いを抱き続けて独り身の老後に突入したくない。
私だって結婚したい。一人で老後を過ごしたくない。家族が欲しい。
「熟考した結果なのだが」
「最悪じゃないですか」
「うっ」
私の未来のためにも容赦なく言葉のナイフを突き刺す。うめき声を最後に、彼は頭を抱えたまま動かなくなった。
ひとまず思いとどまってくれたようで何よりだが、結婚自体がなくなるわけではない。退去に備え、執事・庭師・馬丁の三人とは話し合っておくことにしよう。
翌朝。錬金ニンジンを収穫し、ジェイスの朝ご飯を作る。
ご飯といっても錬金ニンジンをスライスして、飼い葉と混ぜるだけなのだが。
来たばかりの頃は錬金ニンジンのペーストを少しずつ食べさせていたものだが、今では飼い葉の割合の方が多い。ご飯入りのバケツを抱えて厩舎に向かう。
「おはようございます。ジェイス、馬丁さん。朝ご飯持ってきました~」
「おはようございます。エルマ様」
ジェイスは挨拶代わりにヒヒンと鳴く。すでに馬丁さんにブラッシングしてもらったジェイスの毛艶はピッカピカ。彼はご飯よりもブラッシングを優先させるオシャレさんなのだ。
餌箱にご飯を入れるとすぐに食べ始めた。
いつも通り、錬金ニンジンだけ綺麗に選びながら。
「飼い葉の方もちゃんと食べて」
「ジェイスは本当に錬金ニンジンが好きだな~」
馬丁さんはほんわかと笑う。最終的には飼い葉もしっかり食べてくれるので順番くらいは……とは思うのだが、私がいなくなれば錬金ニンジンの生産量はグッと落ちる。
庭師は優秀だが、彼の専門は一般的な植物である。
ダンジョン産植物の育成はもちろん、錬金野菜の生産は専門外。私がどんなに細かくメモや口頭で伝えたところで、専用の土に含まれている魔素含有量の細かい調整など、感覚に頼らざるを得ない部分は自分の目で見て慣れていくしかない。
魔素ビニールハウスは内部の魔素が抜け出さないような構造にはなっているものの、内部の野菜が吸い上げた分の魔素は魔じょうろだけでは補充しきれない。
そのために定期的な土の入れ替えがあるのだが、その土に含まれる魔素も次第に少なくなっていく。定期的に砕いた魔石や、ダンジョンの土とダンジョン野菜で作った肥料を加える必要が出てくる。
今まで以上のペースで土を変えてもらうのが一番確実ではあるが、その分コストがかかる。
また土の入れ替え時は長時間魔素ビニールハウスを開くことになる。魔素ビニールハウスの内部は魔素を封じ込めることに特化した作りになっているため、外気に触れると劣化していく。
専用のケースにしまうことで劣化ペースを遅らせられるが、土を取り替える度に劣化することは避けられない。
生産量を取るか、金銭面を取るか。
最終的に決めるのはアレクサンダー様なのだが、錬金ニンジンの摂取量が減らすのが一番。そのためにはジェイスの傷を完全に治して、飼い葉を避ける癖をなくす必要がある。
「飼い葉もいっぱい食べて、早く元気になってね」
優しく撫でると、ジェイスがヒヒンと応えてくれる。いつもながら返事はいい。
「じゃああとはよろしくお願いします」
馬丁さんに挨拶をし、ビニールハウスに戻る。錬金ニンジンの世話をして、着替えてからダイニングルームに向かう。
普段なら、ドアを開けてすぐにアレクサンダー様と目が合う。だが今日は暗い表情を浮かべている。
昨日、私が全力で振りかぶったせいで頬がすっかり腫れてしまっている。やはり回復ポーションだけでは無理があったか。
「すみません。アレクサンダー様。今から打撲用のお薬を調合いたしますので、お食事後に塗っていただければ」
彼に断り、踵を返す。
だが飛んできたのは許しではなく、鋭い言葉だった。
「これでいい」
「ですがそのお顔では……」
「私のことより、エルマの朝食の方が重要だ」
何を言っているのだ。朝食よりも怪我の治療の方が大切だ。すでに一晩放置してしまってはいるが、薬を使うなら早い方がいい。
「朝食なら後でいただけばいいので。それでは」
ペコリと頭を下げ、今度こそ部屋を出る。アレクサンダー様が食べ終わるまでに調合を終えるとなると、かなりスピーディーに終えなければならない。
回復ポーションを使用することで煮込み時間の短縮を図ろう。
煮立たせている間に木の実を割って……いや、殻ごとすり潰して篩にかけた方が早いか。使える分は少なくなるが、朝食後に残った分を掻き出せば……。
考え事をしながら階段を上ろうとする。
けれど一歩踏み出す前に腕を掴まれた。アレクサンダー様である。どうやら追いかけてきたらしい。
「置いてかないでくれ」
捨て犬のような目で見つめられ、思わず固まってしまう。
アレクサンダー様にとって朝食とは深い意味のある行為なのだろうか。グルグルと考え込んでいると、彼が大きな咳払いをする。
「いや、その……朝食は一緒に食べる約束だっただろう? それに打撲用の薬なら薬師から購入したものがある。屋敷を出る前にそれを付けていく」
私も錬金術師の端くれとして薬は作れるが、主に作るのは野菜関係である。薬は簡単なものが作れる程度。一方、薬師は薬を作るのが本職である。彼らが作ったものがあるのならそれを使った方がいい。
「そう、ですか」
コクリと頷くと、アレクサンダー様はホッとしたように笑った。
そのまま私の腕を引き、食堂へ戻っていく。いつも通り、二人で朝食を取る。そして仕事に向かう彼を見送った。
だがやはり様子がおかしい。
食後もなんだか元気がなかった。昨日のことがまだ尾を引いているのだろう。
私も私なりにできることをしなければ。
意志を固くし、私と同じくアレクサンダー様を見送りに来た執事に声をかける。
「執事さん、ご相談があるんですが」
「お茶をご用意いたしますので、ダイニングルームでしばしお待ちください」
お茶を淹れてもらっている間、ポケットに入れておいたメモを確認する。
昨晩、部屋に戻ってから軽く計算しておいたのだ。間違いや抜けている部分はないか見直す。そしてティーセットと共にやってきた執事さんに用件を切り出した。
「アレクサンダー様との婚約解消後の錬金ニンジンについてなのですが」
あまりにも直球すぎたからか、執事さんはピキッと固まってしまった。だが余計な話をしている暇はない。アレクサンダー様のためにも早めの行動が大事なのだ。
「すみません。最近耳が少し遠くなっておりまして……もう一度お聞かせ願えますでしょうか」
「アレクサンダー様との婚約解消後の錬金ニンジンについてお話があります」
「聞き間違いではなかったのですね……。アレクサンダー様は婚約解消について、ひと言もおっしゃってはおりませんでしたが」
「執事さんも聞いてなかったんですね。私も昨日初めて知ったのですが、アレクサンダー様は近々どなたかとご結婚されるつもりらしいです」
執事さんはアレクサンダー様が生まれるよりも前から公爵家に仕えている。そんな彼にも相談一つしていないなんて、よほどの理由があるのだろう。反対されるような相手とか。
だが目の前の彼を含め、この屋敷の使用人はいきなりやってきた私のことを優しく受け入れてくれた。心の広い人達ばかりなのだ。そのことを一番よく理解しているのは他ならぬアレクサンダー様だと思っていたが……。
恋愛のこととなると慎重になるのか。
はたまた私はジェイスのために連れてこられたから、即受け入れてもらえただけなのか。
いくら考えても答えは出ない。比較対象が悪すぎる。
「それはエルマ様とご結婚されるという話ではなく?」
「執事さんもご存知の通り、私とアレクサンダー様との婚約はジェイスの回復までという契約です。ジェイスの回復もそろそろということで、アレクサンダー様も動き出されたのでしょう。そこで今のうちに今後の錬金ニンジンについてと、生産に伴う材料やアイテムなどのコストのお話させていただければと思いまして」
「坊ちゃまがエルマ様以外の女性を選ぶだなんて……。信じられません」
執事さんはフルフルと首を横に振る。この屋敷のメンバーの一人として受け入れてくれるのは素直に嬉しい。
だが結婚となると話は別なのだ。身分も違えば、女性として見られてもいない。私が結婚相手として選ばれる理由が何一つない。
なにより昨日、全力で彼を殴ってしまっている。話も聞かずに手が出る相手をどう愛せというのか。ほんのわずかに『アリ』だと思ってもらえていたとしても、あの瞬間に綺麗さっぱり砕け散っている。
もしも時間を巻き戻せる錬金道具を作れたとしても、きっと私は再び彼を殴ってしまう。弱っているジェイスが捨てられる可能性が一瞬でも頭によぎった時点で、正気ではいられなくなるのだ。
「私は本来、婚約者にすら相応しくないですから。それでですね、婚約が解消された後ですと諸々の撤去作業を優先しなければならないので、余裕があるうちに今後の話し合いを……」
「それはアレクサンダー様が他の女性とご結婚されるのであれば、の話ですよね? すぐ出て行ったりしませんよね?」
彼は質問をしながら詰め寄ってくる。ジェイスを愛する気持ちは彼も同じ。完治目前で屋敷を出るような話を切り出せば、心配になる気持ちは理解できる。
「まだ時間があると思うので、その間に今後の生産方法を固めていきましょう。それで諸々の錬金道具の費用に関してなのですが……」
昨晩作った簡単な見積もりを元に執事さんに説明する。彼はなんとも言えない表情をしつつも、今後の生産について耳を傾けてくれるのであった。
◇ ◆ ◇
「アレクサンダー、その頬はどうした!?」
アレクサンダーが王子の執務室に入ると、王子がぎょっとした顔で飛んできた。近くに控えている騎士や使用人も驚きの目を向けている。せめてガーゼくらい当ててくればよかったかもしれない。考え事をしていたせいでろくに頭が回らなかった。これでは何かあったと言っているようなものだ。
「申し訳ありません。出直してきます」
アレクサンダーは頬を隠すように押さえ、頭を下げる。
すると王子の視線が鋭くなった。
「待て。私はなぜ頬を腫らしているのかと聞いている。事と事情によっては私自ら対応せねばなるまい」
「これは浮かれた私へ下された罰です。私が他の女性に想いを寄せていたところで、エルマが気にしてくれるはずなんてなかったのに……」
一瞬でも勘違いして浮かれた自分を殴りたい。
アレクサンダーは昨日のことを思い出し、気持ちが沈んでいく。
「アレクサンダーは浮気をしているのか?」
「まさか! 女性はエルマ、馬はジェイス一筋です」
「そこで女性と馬を並列にするのはアレクサンダーくらいだと思うぞ。……馬に浮気をしていると疑うのも無理ない」
王子は深いため息を吐く。
アレクサンダーと王子の付き合いは長く、今までいくつもの婚約話が成立手前で消えていったことも知っている。平気で令嬢よりも馬と仕事を優先する性格であることも。
「いえ、ジェイスを捨てて他の馬を探していると勘違いされました。無論、そのようなことはないのですが」
「……そうか。誤解が解けてよかったではないか」
「誤解が解けた代わりに、結婚なんてあり得ないと思われていたことが発覚しました」
「馬への溺愛がいけないんじゃないか?」
周りの騎士と使用人達は王子に賛同するように深く頷く。
だがエルマは今までの令嬢とは違うのだ。『公爵令息』『近衛騎士』という立場や、顔立ちに一切興味がない。婚約を引き受けてくれたのも、ジェイスへの愛情を理解してくれたからである。彼女の実家である、ガラクシア家の支援も魅力的だったと思う。
アレクサンダー個人にはまるで興味がなく、媚びることもない。
真摯にジェイスと向き合い続け、ジェイスの回復を自分のことのように喜んでくれた。
気付けばそんなエルマに惚れていた。
成人を過ぎて初めて訪れた恋だった。契約で結ばれた婚約ではなく、夫婦として共に歩いて行きたい。いつからか、彼女との未来を強く願うようになっていた。
エルマとの関係が、ジェイスありきだということを忘れたつもりはない。
だが、どこかで自分のことも好いてくれているのではないかと期待していた。
「むしろそれを失った時点でゴミを見るような目を向けられます」
「実際に向けられたような言い方だな」
「昨日、向けられましたので」
エルマが強い感情を抱いてくれたことに浮かれ、頬の痛みすらも勲章のように思えた。
けれど実際は淡い期待が見事に打ち砕かれただけ。
彼女の言葉を思い出し、目の前が暗くなる。
「どうすれば結婚相手として見てもらえるんでしょうか」
仕えるべき相手に恋愛相談なんて情けない。それに今は勤務時間中である。本来ならば真面目に王子の警備に当たるべきだというのに……。近衛騎士の仕事すらろくにこなせないような男、嫌われて当然か。
「とりあえず今からでも話し合いをするなり、アプローチしてみたらどうだ?」
「話し合い……。そうですね、とりあえず庭師と馬丁を仲間につけるところから始めようと思います」
「なぜそこで庭師と馬丁が出てくるんだ!?」
「彼女が屋敷から去る前に相談するらしいので」
「アレクサンダー、君は一体何をしたんだ?」
「彼女に黙ってジェイスの嫁探しを」
「それだけじゃないと思うぞ。他に何をしたのか思い出せ」
「他に……」
王子に言われ、アレクサンダーは恋心を自覚してからの行動を振り返る。
まず屋敷内の家具をエルマ好みのものに替えた。華美なものは好まず、人物画よりも動物を描いた絵が好き。ソファやタオルの肌触りも気にする。特に隣国から取り寄せたタオルは気に入ってくれたらしい。浮かれる様子は可愛らしく、印象に残っている。
食べ物は肉より魚。甘味も砂糖がふんだんに使われた物より素材の旨味を重視したものを好む傾向にある。食事も彼女好みに変えてもらった。朝食は定期報告の意味もあり、初日から一緒に取っていたが、夕食も間に合うよう仕事が終わったら真っ直ぐ帰宅するようになった
休みの日には一緒にダンジョンに繰り出す。錬金野菜の材料となるダンジョン野菜を中心に、錬金術の素材を集めるのだ。帰りはダンジョン付近の出店で食べ歩きをする。ドレスもアクセサリーも受け取ってくれない彼女が唯一喜んで受け取ってくれるのが出店の食べ物だったのだ。
貴族同士のデートとしてはかなり変わっているが、エルマと距離を詰められれば周りからの評価なんてどうでもいい。アレクサンダーなりに、エルマとの仲を深めているつもりだった。
だが今になって思うと、結婚を拒まれる兆候はあった。
食べ物なら喜んでもらえるだろうと買ってきた城下町で人気の焼き菓子店のフィナンシェも、王妃様から勧められた紅茶も同じ言葉で断られている。気に入っていたタオルでさえもエルマ専用のものは受け取ってもらえなかった。
返ってくる言葉はいつも同じ。
『そんなに良いもの、受け取れませんよ』
あれはエルマなりの線引きだったのではないか。
そもそも愛馬のために婚約を持ちかけた時点で、異性として見てもらえていないのかもしれない。だがジェイスへの愛がなければエルマと出会うことも、彼女の魅力を知ることもなかった。
「今すぐ婚約を結ぶところからやり直したい……」
嘆いたところで時を戻すことはできない。だが共に生きたいと思える女性はエルマしかいないのだ。彼女が実家に帰った後、一人で朝食を取らなければならないのかと考えると背筋がゾッとする。
今朝、部屋から出ていく彼女の背中を見ただけでも限界だったのだ。つい捨てないでくれと叫んでしまったが、あの顔は完全に引いていた。情けない男と軽蔑したことだろう。
今までも気づいていないだけで、似たような失敗を積み重ねていたのかもしれない。
アレクサンダーの顔は青ざめていく。
「重症だな……。アレクサンダー、もう今日は帰れ。帰って話し合うのだ。無論、初めに話し合うのは婚約者だ。間違っても先に馬丁と庭師に話しかけるでないぞ」
「出勤直後に帰されるような男と知れば、彼女は今すぐにでも実家に帰ってしまうかもしれません」
「長期休暇をもらっていたのを忘れていたとでも言っておけ。ついでに十日ほど休みをくれてやる」
「で、ですが王子」
「十日後までに婚約者との関係に白黒つけるように。これは命令だ」
「かしこまり、ました……」
命令とまで言われては逆らうことはできない。
アレクサンダーはしょんぼりと肩を落とし、屋敷に戻るのだった。
◇ ◆ ◇
執事さんとの話し合いが終わり、部屋に戻る途中。
窓から馬車が見えた。今朝、アレクサンダー様が乗っていった馬車だ。行き先を玄関に変更する。そこには花束を抱えた彼が立っていた。
「今日はお早いお帰りですね」
「今日から十日ほど休暇をもらっていたのをすっかり忘れていてな」
「もしかして私が昨日強く殴りすぎたせいで……。本当に申し訳ありませんでした」
アレクサンダー様がスケジュールを間違えるなんて只事ではない。視線も泳いでいる。
やはり今すぐにでも荷物をまとめて屋敷を去るべきか。いや、先に慰謝料の話をしなければ……。相場はいくらなのだろうか。深々と頭を下げながら、脳内でそろばんを弾く。
「それだけエルマがジェイスを愛してくれているからだろう」
「ジェイスのことは大切に思っていますが……。あの、慰謝料はできれば分割か現物払いにしていただけると大変嬉しく」
「そのことはもういいんだ。それより、その……君さえよければ、ジェイスが元気になった後もうちにいてくれないだろうか」
思っていたのとは少し違う言葉と共に、赤いポピーの花束を差し出される。
ジェイスが元気だった頃はよくポピーの花畑に遊びに行っていたと聞いたことがある。そして赤いポピーの花束は感謝を表すものとしてもよく知られている。昨日の失態はあれど、今までの活躍は評価してくれたと受け取っていいのだろうか。
「アレクサンダー様のお気持ちは嬉しいです。けれど元婚約者である私が屋敷に残っては、未来の奥方様はあまり良い気はしないかと……。愛人と疑われかねません」
「私は君を愛人なんかにするつもりはないが!?」
「分かっておりますとも。この家の方々も理解を示してくれるはずです。ですが周りもそうとは限りません。やはり慰謝料は労働力より、金銭での分割支払いか現物支払いが一番かなと。ガラクシア家には大したお金もありませんが、さきほど執事さんと今後の錬金ニンジン生産について軽く話し合いまして。継続的に購入していただく必要があるアイテムが複数あるので、そちらの支払いについて確認していただいた上で、慰謝料の話を詰めていければと」
「慰謝料は必要ない。昨日のエルマの行動は私も納得している。それより、私と結婚するのはそんなに嫌か?」
「結婚?」
「ああ。君と生涯を共にしたいと考えている」
なぜいきなりそんな話になるのだろうか。
彼には結婚を考えている相手がいるのではなかったのか。だからジェイスのお嫁さんを探しているのだと……。そこまで考えてハッとした。
「相手の女性と何かあったのですね」
「え」
「ニーゼル伯爵家の令嬢との関係を勘違いなさったのかもしれません。今すぐ相手の方の元に行ってください。時間をかければきっと分かってくれるはずで」
「ちょっと待ってくれ。私は今、君に告白を」
「関係が上手くいかず、焦っていらっしゃるのでしょう? 私なんかで手を打たず、今は関係修復を目指すべきです」
一時の気の迷い。
そうでなければ私に結婚を持ちかけるはずがない。
アレクサンダー様と釣りあっているのは、馬への愛情くらい。
得意な錬金術だって少しでも家計の足しになればと始めたものだ。貴族社会では何の自慢にもなりはしない。
「さぁ早く行ってください。この花は厩舎に活けておきますから」
「え、あ、いや。私が愛しているのはエルマで」
戸惑うアレクサンダー様の背中を押す。
彼が愛する女性と幸せになれますように。
本気でそう願う私は、その日から毎日求婚されるようになることも、十日後には頷いてしまうことも予想していなかったのである。




