【恋人のあいさつは強烈すぎる】
夏休みに入り、早速貴之が帰ってきた。貴之を最初に出迎えたのは当然のごとく春里だ。なぜなら、春里しかいないから。
「おかえりなさい、貴之さん」
会える事が嬉しくて、戻そうと思ってもやはり笑顔になってしまう。
「ただいま、春里。会いたかった」
貴之も負けない笑みを浮かべ、春里に抱きついた。
「ああ、春里だ」
耳元で囁かれ、未だ慣れない春里の身体は固まった。何度も電話で話し、耳元で声を聞くことには慣れてはいるが、電話越しと直接ではやはり違う。それとともに、貴之の温もりと重さと力強さが加わるのだ。微かに耳にかかる熱のある息も春里の全身を熱くさせるのに一役も二役も買っている。
しばらく抱きしめていた貴之はゆっくりと離れ、じっと春里を見つめた。そして、ゆっくりとした仕草で頬を優しく撫でる。それが今までにないくらい甘い。一気に甘い空気が纏われ、春里の息さえ止まりそうだ。
「春里の顔が朱い」
「慣れないんだから仕様がないでしょう」
恥ずかしいくらい泣きそうな声が出て春里は戸惑った。もう逃げだしたいと思うくらいになんとも言えない衝動が襲っていた。
「別に駄目なんて言っていないし、ただ、いいなって思っただけで」
「こういう貴之さんに慣れないの」
「ん」
貴之は春里の顔に顔を近づけ、ゆっくりと唇を唇にあてた。そして、じっくりと感じるように、キスが落ちてくる。春里はされるがままだった。
「今日からずっと一緒だな」
春里は頷いた。夏休みを待っていた。ずっと会いたかった。だけれど、ずっと一緒にいてはたしてこの心臓はもつのだろうか。心臓を抑える必要もないくらいドキドキしている。しかも全身が、だ。こんな状態がずっと続いてしまったら春里の身体はどうなるのだろう。今までそんな風になったことのない春里は不安で仕方なかった。
二人はリビングのソファに並んで座り、貴之が土産に買ってきたチョコレート菓子と春里が淹れたアイスティーを味わっていた。貴之が買ってきた菓子は、住んでいるアパートの最寄り駅近くの洋菓子店で売られているものだ。オレンジピールにチョコレートがコーティングされているもので、貴之が最近凝っているものだ。
春里はそれを中指と親指で摘まみ、口に入れる。
「ん、おいしい」
噛んだ断面を見ると、とてもきれいなオレンジ色が黒の中から覗いていた。甘い空気もあの時のような濃さはなくなり、春里の心臓も落ち着いてくれ、春里は差し出されたそのチョコレートをきちんと味わうことができた。
「最近のマイブーム」
「分かる」
「春里はまだあの和菓子屋の抹茶パフェなわけ?」
「あそこに行ったらあれ。でも、最近は生チョコかな」
「じゃあ、そうすればよかったな。あの店の生チョコもおいしいんだ」
「じゃあ、また今度ということで」
春里は残りのチョコを食べた。いくらでも食べられそうなさっぱり感がある。もちろん甘みも充分あるのだが。
「少しお休みしたら、お買い物に付き合ってくれますか?」
「うん、いいよ。何を買いに?」
「ハンバーグの材料です」
「今日の夕飯はハンバーグなんだね。今日のソースは何にするの?」
貴之はチョコを一口で口に入れた。
「何がいいですか?デミグラスソースでも大根おろしでも、きのこでもなんでもいいですよ」
貴之は春里をじっと見つめた。その視線に春里はたじろいだ。それをおもしろそうに貴之は微笑み、そして、身体をそっと抱き寄せた。
「しょうゆベースの大根おろしソースは食べた事ない」
なんてことないセリフを口にしているのに、耳元で囁かれるだけで春里の身体は硬直する。
「だから、今日はさっぱりと大根おろしでいこうか」
「分かりました。シソも添えてさっぱりいきましょう」
何でこんな会話でこんな展開になっているのか分からないまま、春里の頭は混乱してくる。それを貴之は楽しそうに眺めながら、いたずらを仕掛けてくる。まずは頬にキスをし、次に耳に、次に首に。春里の身体がピクリと反応すると貴之は楽しそうにクツクツと笑った。
「こういう余裕のない春里っていいな」
貴之は再び首にキスを落とす。そして、そこをぺろりと舐めた。
「何?」
突然のことでびっくりした春里はすごく大きな声で言った。
「びっくりした?大丈夫だよ。襲ったりはしない」
「べ、別にそんな事警戒しているわけじゃなくて」
「なくて?」
「えっと」
「ん?」
「あ、えっと。初めてのことで、その」
「感じちゃったり?」
「していません!」
春里が朱い顔をして言った。貴之は抑えきれず噴き出した。
「ごめん。嬉しくて浮かれているんだ。許してくれ」
そんな事を言いながらどさくさに紛れ春里に抱きつき、事もあろうか胸元に顔を埋めた。
「た、貴之さん!」
「ん?柔らかい」
貴之の呟きを聞き、再び春里の思考は停止した。総てが真っ白だ。身体も脳みそも総て硬直し、何もかも放棄した。
今まで見ていた貴之は何だったのだろう?これは本物の貴之なのか?そんな疑問がグルグルと回り始めたのは数分経ってからのことだった。
***
「春里?」
動かない春里を不審に思い、貴之が顔をあげると、そこには瞬きも忘れた春里の姿があった。
「もしかして刺激が強かったとか?」
ゆっくりと春里から離れ、春里の顔の前で手をひらひらと振ってみたが、春里は全く動かなかった。
「こりゃまた」
わざとびっくりさせようと、春里にキスをしてみたが春里は全く動かない。そして、最終手段だと手にしたのは買ってきたチョコレート。甘いものに弱い春里の事だから、反応するだろうと言う安易な考えだったが、見事に功を奏した。パクリと春里の口がそれを咥えたのだ。それに貴之は笑った。
「俺はチョコレートに負けるのか?それとも勝っているのか?」
春里は瞬きをした。そして不思議そうにチョコを食べている。
「忘れたい過去として処理しないでくれよ」
「だ、大丈夫です。きちんと事の成り行きは覚えていますから」
春里の言葉に貴之は盛大に笑った。
「な、なんですか?」
「いや、安心した。急に動かなくなる事はあったけど、瞬きもしないし、息をしているのかさえ不明だったから」
そして、貴之はわざといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「このままじゃマウスツウマウスしないとかと思ったよ」
春里は貴之の想像通り俯いてしまった。
「まあ、キスなんて何度もしているから、似たようなものだし、照れることはないよ」
「照れますよ。本当に緊急時ならまだしも、そうじゃない時に」
春里はそう言ったまま黙ってしまった。貴之はゆっくりと春里の頭を撫でた。本当にかわいい。かわいくてかわいくてどこかに触れたくなるくらいかわいい。貴之の中に生まれた想いはどこまでもそれだった。
「からかいすぎてごめん。手加減をしないとだよな。春里は慣れていないから」
だけど無理、と心の中で呟く。手加減ができるのならとっくにしている。
「貴之さんにされる事に慣れないんです。貴之さんだからですよ。予想外の事をしかけてくるし」
「俺、嫌われているの?」
「何冗談を言っているんですか。嫌っていたらこんなことしていません」
「まあね」
貴之はまた春里にキスをした。スキがあれば何度だってする。ずっと触れていたいくらいの唇だから。ずっと触れることができなかったのに触れることを許されたのだ。触れていたいに決まっている。
「もう、そういうことをするから」
「でも、恋人同士なら当然だろう?」
「そ、それは」
「そうやってどぎまぎしているところを見ているといじめたくなるんだよな」
春里が困った表情をしたり、戸惑った表情をしたりするとなぜだか意地悪をしたくなるのだ。そしてもっと困らせたくなる。その方法がキスや抱きしめると言う方法になるのだが、それは貴之の願望でもあるから、抑えきれなくなる。
「だから、俺のこの行動に慣れることはない。むしろ慣れないでほしい。そのほうが俺が楽しめるから」
春里が朱い顔をしながら力いっぱい腕を叩いた。見事にいい音が響き、貴之は顔を歪めた。
「本気で叩いただろう」
「だって、からかうから」
「当分は我慢してほしいんだけど。どうしてもこの衝動は抑えられない」
落ち着くかは分からないが、きっと一緒にいる時間が増えれば自然に違う願望に変化するだろう。春里もまた、こういった事に慣れて、お互いが触れ合いたいと願うはずだ。
「べ、別に嫌なわけでは――」
最後の方はもごもごしていて貴之には聞き取れなかった。だが、貴之に不利なセリフでは無かった事だけは確かだ。今の貴之でもいいと言ってくれているような気がして、貴之は嬉しくなって春里を抱きしめた。
「嫌じゃなければ抑えこまなくていいよな」
貴之はこれでもかと言う程力を込めた。都合のいい解釈ではないと信じたい。こういうことを望んでくれていると解釈したい。
――春里に密着したい。
その欲望だけが貴之を走らせる。だが、それと同時にあるもの。大切にしたいと言う感情。それがきちんと貴之にストップをかけていた。それが、愛しいと言う感情なのだと貴之は噛みしめていた。
「い、嫌ではないですけど――なんかわたしだけこんなんで悔しいです」
「なら、春里からもキスしてくればいい。俺驚いてぶっ倒れるかもしれないよ」
――願望だよな。
貴之からキスすることは貴之がしたいからするという事。ならば、春里もキスをしたいと思ってくれればキスを自らしてくれるのではないか。と言う事。ならば、今はキスをしたいと思ってくれていないのか?そんなはずはない。だから、貴之の言葉に騙されて、煽られて、春里がキスをしてくれたら嬉しい。
「無理です。そんなの無理」
「思いっきり拒否しなくてもいいじゃん。なんか悲しくなってきたよ。一方通行の恋みたいだ」
貴之がわざとらしく肩を落として見せると、春里の瞳が忙しく動いた。
と言うことで、なんという貴之のバカっぷり。
次回も二人の時間は続きます。4人の時間も。
次回もお付き合いください。




