【春里の中で目覚めた感情】
季節が流れるのは早い。貴之の大学合格通知が二月末に届いた。薬の研究職を目指すべく、いくつかの私立大学を受験し、第一希望の大学に見事合格した。この時初めて、春里は貴之が希望している大学がここから通うには少し遠い事を知った。通うことが難しいわけではない。だが、貴之自身、この家を出て、一人暮らしをする計画を立てていたようだ。それを聞いた春里に淋しさが襲いかかった。その淋しさが、貴之が全くその事を教えてくれなかった事に対するものなのか、もう少しで貴之が近くにいなくなることなのか分からなかった。ただただ、何とも言えない淋しさが春里の心を支配する。
「後は卒業を待つのみだ」
呑気に言う貴之におめでとうさえ言えずに、春里はキッチンに立っていた。
合格が分かったこの日、当然のようにお祝いをする。今はまだ俊介も春香も仕事だが、夕飯までには帰って来るのだ。
「春里、機嫌悪い?」
貴之が春里の顔を覗きこむ。見慣れた顔がそこにはあるが、もう少しで毎日見られないと思うとその顔を見入ってしまう。
貴之はいつもと違う反応に首を傾げた。
「どうした?」
「貴之さん、この家出て行くんですね。もしかしてわたしのせいですか?」
最近は敬語で話す事もなくなったのに、どうしても意地になって敬語で話してしまう。近づいた途端離れていくのは貴之の方だ。それが切なくてたまらない。
「春里のせいと言えばせいかな。まあ、俺のせいの方が強い」
訳の分からない事を言われ、春里は何て言っていいのか分からないでいた。
「だけどさ、笑っていて欲しいんだけれど。今生の別れというわけじゃない。休日には戻って来るつもりだし」
貴之は呑気にレタスを洗う。
「わたし階段から落ちて生傷が絶えなくなりますよ」
春里の言葉に盛大に笑った貴之は、濡れた手をタオルで拭き、そっと春里の頬を撫でた。
「それは、心配。かわいい顔が台無しになる」
春香が危篤になったあの時から、貴之のスキンシップは今までよりも多くなった。春里はそれが嬉しく、近づけたような気がしていた。この手の感触さえ感じられなくなる。慣れてしまったこの距離。離れてしまって耐えられるのだろうか?
「一階の和室で寝たら?そうしたら心配しなくて済むよ」
「もういいですよ。貴之さんがいなくたってきちんと起きますから」
ただの我が儘だと分かっていても止まらない。貴之は少し困ったような顔をしてじっと春里を見つめていた。
「不貞腐れた顔もかわいいんだけどね。会いたくなったら会いに来てよ。会えない距離じゃない」
「貴之さんは会いに来てくれないんですか?」
「もちろん来る。傷ができていないか確認しにさ」
貴之の言葉は甘いのか意地悪なのか分からない。ただ、これでは恋人同士の会話だと思いながら、少し恥ずかしくなり、春里は俯いた。
「とりあえずは合格を祝ってよ。俺さ、頑張ったんだ」
「それは認めますよ。いつ勉強していたのか不明だけれど」
「春里の知らないところで猛勉強」
受験生の割には余裕があった事を知っている。息抜きと言いながら、夕飯の支度を春里と一緒にしたり、春香の御見舞いに行ってくれたり。時間が惜しいその時に二人は結構長く一緒に過ごしていた。距離も縮まった。それなのに、貴之は話してくれなかった。卒業後どうしたいのか、どうするのか。春里も聞かなかったが、それは大学生になってもこの家にいてくれると思い込んでいたからだ。春里の思考はいつもこの地点に辿り着く。今はそんな話しをしているわけではないのに。
「さすがですね」
「まあね」
意地の悪い笑みをわざと浮かべている貴之が憎らしくなって、春里は貴之の足を軽く蹴った。
あけましたね。おめでとうございます。
数多くあるお話の中からこのお話を見つけて読んでくださっているみなさん、感謝です。今年もよろしくお願いします。
あともう一話。次は貴之。お付き合いください。




