【貴之の不安】
シャワーを浴びて、湯船につかる。そうすると思い浮かべるのは春里の姿だった。一緒に暮らしていくうちに分かった事がある。春里は何かあるたびに隠してはいるが不安な表情を時折するのだ。『何か』とは貴之に関することだ。
今回は田路のことが大きいだろう。春里は疲れ切った表情をしていたが、その下には多分色々な不安な感情が埋もれているのだろう。
貴之は先程見た春里の表情を思い出した。一緒に暮らしてからと言うもの色々な事が分かり、自分がするべきことも分かってきた。真面目に女性とお付き合いをする――恋人同士になる――のは春里が初めてで、手探り状態だ。だが、貴之が愛情を注げば春里は安心してくれると言う事をこの短い間に学んだ。だから、先程も少しコミュニケーションをとってきたが、今回は田路の事がショックだったようだった。
「いっぱい触れると俺の理性がな……」
貴之は母親である貴美の言葉を思い出した。
『一緒に暮らすんだから一線を越えても仕方ないとは思っているのよ。だけど、勢いでそれはしないでね』
勢いでなければいつするんだ、と言いたいところだったが、言葉のニュアンス的にも言いたいことは大体分かった。貴美の要求は経験のない貴之にはハードルが高すぎるのだ。大切に大事に愛しく肌を合わせるなんて最初のうちにできるはずがない。ずっとお預けをされてきたのだから特に、だ。
「でも、理性を持たせないとな」
春里が不安になり、落ち込んだ表情のまま明日を迎えるのは楽しいことではない。貴之の力で春里の感情を浮上させることは貴之としても嬉しいことなのだ。それが貴之の役目であることが特権だと思えるから。だから、それに時間も手間も惜しみはしない。ありったけの理性でそれに挑むだけなのだ。
大切にしたい。大切にしなければならない。どうすれば大切にできるのか分からない。どうすることが大切にすることなのかも分からない。だけれど、分からないなりに分かっていることもある。泣かせたくない。困らせたくない。笑っていて欲しい。それが大切にする事かどうかは別にして、貴之が望んでいることだ。だからこそ惜しまない。
風呂に向かった春里の後姿を見送った後、貴之は大きな溜め息をついた。
「俺の理性万歳」
貴之は立ち上がり、先程買ってきた炭酸飲料を冷蔵庫から取り出す。
「あんなのが続いたらいつかは理性なんて吹き飛ぶ」
今は貴美と俊介の顔がちらつくからどうにかなるのだ。もうどうでもいい、そう思った瞬間が危ない。春里はその時どうするのかが怖い。受け入れてくれるのか、拒否をするのか。拒否でも、初めてで怖くて、と言うのであれば問題ないが、恐怖を感じて逃げたと言うのであれば大問題だ。この部屋から逃げられたら大ごとだ。
「逃げられたら俺どうすればいいのかな」
キッチンで何口か炭酸飲料を飲んだ後、リビングに向かった。
春里と暮らし始めて幸せだと感じることは多い。まだ喧嘩はした事がない。お互い遠慮していると言うよりも、喧嘩をする種がまだないと言った感じだ。お互い、大雑把でおおらかなのか、小さなことでは喧嘩はしない。喧嘩になりそうになっても知らないうちに笑い話になっていることが多い。お互いにそれを避けていると言うよりも、それを楽しんでいる、に近いかもしれない。常に近くにいれば、嫌な部分も見えてくるかもしれないと不安に思ったこともあったけれど、いらぬ心配だった。考えてみれば、恋人と言う関係になる前から距離は近かったのだ。一緒に暮らしていて、二人で料理をして、食事をして。その時に春里に惹かれたのだから、一緒に暮らすだけで嫌になるはずはなかった。それよりも、日々、惹かれるばかりだ。
「ああ、俺の理性はいつまで持つのかね」
今すぐにでも総てを投げ捨てて春里に襲いかかりたい。春里が受け入れてくれるのであればもう何度でも――。すでに何度も経験済みだとしても本気で好きになった女性とは経験をした事がない貴之だ。箍が外れたら危険すぎる想像しかできない。
「お預けが長引けば余計に危ない気がするんだけどな」
一人暮らしの癖は未だ抜けずに声に出して言う。ふと気になってドアの方を見たがまだ春里は風呂から上がってこないらしい。こんな独り言聞かれたら恥ずかしくて仕方ない。それよりもどうフォローしていいか分からない。
「そんな事よりこれからの対策だよな。春里は田路の事別に気にしていないようだけど……」
貴之も甘く見ていたのだ。高校時代のようにならないだろうと思っていた。だが、蓋を開けたらそれ以上の仕打ちが待っていた。貴之が辛い思いをするだけならば別に構わないが、直接被害を受けるのは恋人である春里だ。
貴之は高校時代、モデルのアルバイトをしたことをきっかけに高校内でファンクラブができるほどの人気ができた。その人気はエスカレートして、貴之に少しでも近づいた女の子たちをファンクラブの人間は精神的にも肉体的にも痛めつけてきた。その結果、貴之は高校の女子内で共有されてきた。遠巻きに、だが。
春里を大切に想い、春里が高校を卒業するまでは妹としてみんなに紹介してきた。大学生活が始まっても『妹』を訂正することはあえてしなかったが、大学時代に知り合ったケイチョウこと家泉が口を滑らせたことにより、春里が貴之の恋人であることが知れた。それは別に構わないことだった。触れまわる必要もないと思って妹のままにしていただけで、恋人だと訂正されたのであれば恋人と認識された方が貴之も嬉しかった。だが、甘かったのだ。大学生の陰湿さに辟易する。
高校時代の取り巻きたちは、結構楽しんでいたのだ。その状況を。いわゆるノリだったところがある。それがなんとなく今なら分かる。ただ、仲間内でキャッキャと騒ぎたかっただけなのだと。
「田路さえ抑えこめれば」
春里はまだ何もしなくていいと言ったが、そう楽観視できるものでもないような気がしていた。だからと言って春里の言葉を無視して貴之が余計なことはできない。何かがあってからでは遅いのだと言う事をどう言ったら分かってくれるのだろうか。貴之の口から自然に溜め息が漏れた。




