第三十六章 勝負の朝
(ハイステップ!)
今の俺に出来る最速の移動手段でもって、背を向けたヒサメに迫る。
彼女は『勝負開始前に俺の半径3メートル以内に近付けば敗北』という条件を飲んだ。
つまりそれは言い換えれば、俺が今彼女の半径3メートル以内に近付けば、明日の9時を待たずに俺の勝利が決まるということだ。
ほとんどペテンだが、俺はもう手段は選ばないと決めたのだ。
ヒサメが完全に俺から興味を失って、俺に背を向けた瞬間を狙った。
後ろに目でもついていなければ、俺の接近に気付けるはずがない。
が、瞬間的に、ヒサメの姿が霞んだと思ったら、
「成程。鬼ごっことは言い得て妙ですね」
なぜかヒサメの声は、俺の後ろから聞こえた。
いや、ちょ、ええっ!?
速すぎるってレベルじゃなくない?!
「あの奇妙な条件は、そのような意味でしたか。
勝負開始の午前9時までは、貴方が鬼になって私を追いかけるという事ですね」
しかもほとんど読み切られている。
「へ、へぇ。騙された、って怒ったりしないんだな?」
俺は精一杯の虚勢を張って、そう返すが、
「真剣勝負とは、互いに全力で戦う事です。
詐術に近い手段でも、ルールに則っている以上、それは戦術の内でしょう」
ヒサメは余裕の対応だ。
もっと怒るかと思ったが、これは嬉しい誤算。
「……もっとも。
こんな子供騙しで、私が捕らえられると思っていたなら、それは確かに侮辱ですが」
「あ、ははは……」
猫耳を見なくても、語調から隠し切れない怒気を感じた。
ここはもう笑うしかない。
「それに私も、貴方に話していない事があります。
自身が選んだ選択肢が、如何に絶望的な物なのか。
貴方はいずれ、その事実を知るでしょう」
そう言って立ち去る彼女の指には、鈍い輝きを放つ指輪がはまっていた。
「ソーマさん!」
ヒサメが立ち去った後、そんな声と共にトレインちゃんことイーナが駆け寄ってきた。
「イーナ、無事だったんだな」
「はい。ご、ごめんなさい、わたしのせいで……」
イーナはうなだれるが、まあ半分くらいは俺の自業自得だ。
彼女に全く過失がなかったとは言わないが、こんな事態になるなんて、誰にも想像出来なかっただろう。
「いや、それは、いいんだ。
だけど、君に言わなきゃいけないことがある」
「なん、ですか?」
まだ意気消沈している彼女にこれを口にするのは酷だと思ったが、俺ははっきりと言った。
「俺は君を一人でやっていけるようになるまで鍛えてやるって約束した。
けど、それは今この時でもって終わりにしよう」
「……え?」
俺の言葉を聞いて、彼女は呆然と俺を見上げた。
俺はイーナにヒサメとの顛末をまず話し、それからイーナが充分に強くなったこと、今の俺にイーナの手助けをする時間的な余裕がないことなどを伝えると、やはりヒサメを呼び込んでしまったという罪悪感も手伝ったのか、彼女は泣く泣く俺の言葉を飲んだ。
というか、必死で泣くのを堪えているのが分かって胸が痛んだが、彼女はそれでも健気にこう言ってくれた。
「で、でも、わたしがソーマさんの手助けをするのは構いませんよね?
わたし、あの人の居場所をなんとしても突き止めます!
そしたらソーマさんにそれを報せて……」
「いや、それはたぶん、無駄だ」
俺がさっき彼女に突っ込んでいったのは、成功すればもうけものという認識はあったが、主に牽制のためだ。
あまり本気になって成功を期待していた訳じゃない。
彼女が鬼ごっこという俺の提案をあっさり受け入れたのは、理由がある。
というより、それを分かっていたから俺が鬼ごっこを提案したのだ。
「彼女がしている指輪。あれを使えばたぶん、彼女に俺の動きは筒抜けになる」
「指輪、ですか?」
「ああ。彼女のユニーク装備の一つ、『探索者の指輪』だ」
――探索者の指輪。
それはプレイヤーの現在位置を知る指輪だ。
これはだいぶ後になって判明した事実だが、お助けチーターであるヒサメの出現はランダムではあるものの、実は友好度が高い方が遭遇率が高い。
設定上、親しい人には尽くすタイプだし、システム的にそういう物か、と適当に納得していたのが、そこにはきちんとした理由というか、設定があった。
考えてみれば、ヒサメとはダンジョンの奥深くを探索している時にすら遭遇することがある。
これはどういう仕掛けがあるのかずっと不思議に思っていたのだが、仲間になった後の彼女から、その指輪の存在を聞かされた。
ヒサメは常に出会った人間に気まぐれに手助けをしていると見せかけて、探索者の指輪で気に入った人物の現在地を確かめて、彼らの所に押し掛けることもあるらしいのだ。
その時には思わず、『チーターからは、逃げられない!!』とかいう文言が頭に浮かんだものだった。
このゲームの世界ではどういう風に働くかは知らないが、少なくともさっきの口ぶりでは俺の現在地を知る効果はあるのだろう。
それに、俺から逃げるだけなら実際にはもっと単純な方法がある。
それは町から町に一瞬で移動する手段。
転移石だ。
戦士系の彼女はポータルの魔法までは使えないだろうが、上級と言える冒険者の彼女なら当然転移石の一つや二つ持っているだろうし、買うことだって出来るだろう。
勝負の時まで他の町に転移して、直前に戻って来られたりしたら、やはり厄介だ。
出待ちをするという手もあるが、面倒なことに町に複数のモノリスがある時はその転移先を選べたはずだ。
ラムリックには南北二つのモノリスがあるので、相手が探索者の指輪を使用していたら、どちらかに張っていても恐らく確実に裏をかかれる。
それを説明すると、イーナは自分のことなど忘れた様子で、真っ青になって取り乱した。
「じゃ、じゃあ、どうするんですか?
まさか、おとなしく殺されるなんてこと……」
「まさか。素直に逃げ切るんだよ」
やることは山積みだ。
それに、明日の朝までに全てを済ませないとならないとなると尚更である。
イーナにはとにかく大丈夫だからと言って何とかなだめすかし、一緒に最初の目的地に向かう。
やることはいつもと同じ、『試練の洞窟』のトレイン稼ぎだ。
俺がついていないと、彼女が以後、これでお金を稼ぐことは出来ない。
最後の餞別にとドロップ品は全部譲ると言ったのだが、彼女は頑として受け入れようとはしなかった。
ここでイーナとは別行動を取る。
ここからは一人で動きたいから、勝負の一時間前、明日の午前8時ちょうどにドロップアイテムを売ったお金を持って宿屋に来てくれと頼んで、イーナとは別れた。
「悪いな、イーナ」
その背中に向かって、俺はつぶやいた。
本当に俺は、身勝手な奴だと思う。
勝負の結果がどうなるかは、分からない。
もしかすると、俺は本当に殺されてしまうかもしれないし、これが今生の別れになるかもしれない。
本当はそれを伝えるべきだったのだが、面と向かっては言えなかった。
だから代わりに、手紙として残すことに決めた。
宿屋に戻って筆記用具と紙をもらって、イーナへの手紙を書き始めた。
まず、明日の正午までに俺から何の指示もなかった場合に読むようにと但し書きをつけ、中身を書き始める。
ええと……。
『イーナへ
これを読んでいるということは、俺はもう、君の前にはいないのだと思う。
でも、悲しまないで欲しい。
君はもう、一人で生きていけるだけの実力を手に入れているはずだし、これから勇気を出していけば、仲間は難しくても、友達なら作れるはずだから。
身勝手な俺を、いくらでも恨んでくれていい。
でも、二つだけ約束して欲しい。
一つはヒサメを恨まないで欲しいということ。
そしてもう一つは、俺の後を追おうなんて、決して考えないで欲しいということだ。
俺が君を鍛えたのは、そんなことのためでは絶対にない。
君は素晴らしい女の子だし、君の』
「いやいやいや!」
俺は書きかけていた手紙を握りつぶした。
手紙を書くとなると、なぜかテンションがおかしくなって、普段言わないような言い回しをしてしまうのはなぜなのだろうか。
手紙マジックだ。
俺は四苦八苦しながら無難な手紙を完成させ、鞄から出したもう一つの物と一緒に宿屋の主人に預ける。
どちらも明日の8時にイーナが来たら渡してくれるように頼んだ。
「何だ? この木の棒?」
オヤジさんは怪訝そうな顔をしたが、きちんと受け取ってくれた。
これでとりあえず、イーナについては問題ないだろう。
「それじゃ、お世話になりました。
……なんて言って、すぐまた来るかもしれませんけど」
そうおどけながら外に出ようとすると、後ろから声がかかった。
「なぁ、急に泊まるのは今日まででいいとか、やっぱりおかしいじゃねえか。
というかこの手紙、まさか遺書じゃねえだろうな?」
意外と鋭い。
だが、俺はごまかした。
「そんな訳ないじゃないですか。
それに、今日の夜を過ごす場所はもう決めてるんです」
「……どこだよ?」
不機嫌そうな店主の問い掛けに、俺は端的に答えた。
「教会です」
さて、まだまだやっておかなくてはならないことはたくさんある。
後悔を残さないように、出来るだけのことはしておかないと。
まず俺は、今までずっと先延ばしにしていた、ラインハルトへの訪問を実現させた。
幸いにもラインハルトはまだ町にいて、俺のことを歓迎してくれた。
ちなみにその時分かったのだが、ヒサメはラインハルトにも俺のことを尋ねていたらしい。
俺が面白い技を使う、みたいな情報は、ここからヒサメに伝わったようだ。
「クワシクハ、イワナカッタガ……。
スマンナ、マズカッタカ?」
とリザードマンなりに申し訳なさそうな表情をするラインハルトに、そんなの気にするなと言って、笑った。
これっきり、もう二度と会えない可能性だってあるのだ。
そんなことでお互いに禍根を残したくはなかった。
結局その後は深刻さの欠片もない雑談をして、俺たちは笑って別れた。
時計を見ると、この後の予定までずっと時間があった。
この隙にと『封魔の台地』に向かう。
地下にちょっとした忘れ物を取りに行って、すぐに戻ってくる。
これで地下は真っ暗になってしまったが、まあしょうがないだろう。
それから武器屋で掘り出し物を探して時間を潰したり、また魔法屋に行って前に買えなかった物を買ったり、ちょっとやんちゃをして治療院に駆け込んだりした。
少し涙目になりながら外に出ると、お腹が空いてきたことに気付いた。
ちょくちょく買い食いなんかもしながら町の中を駆け回っていると、そろそろ日も暮れてくる。
いよいよ、今日の最終目的地に行く時がやってきたようだ。
町外れ。
決して豪華ではないが、どこか神聖さと荘厳さを感じさせるその建物に、俺は入って行った。
その奥にいつものように微笑みを絶やさず訪問者の相手をしている彼女の前に、俺は大股で近付いて行き、
「あら、ソーマさんですか。
今日はまだ時間には……」
おもむろに地面に両膝をつくと、
「すみませんマリエールさん!
今から明日の朝まで、懺悔室を俺に貸して下さい!!」
土下座して頼み込んだ。
「やっぱりマリエールさんいい人だなぁ……」
突然の土下座はずいぶんと彼女を困らせてしまったようだが、幸いにも懺悔室を借りることは出来た。
「今回でもう、こんなことを頼むのは最後にしますから!」
と必死で叫んだのが効いたらしい。
「……そう、ですか。
信仰に極みはないと思っていましたが、あなたはきっと、何かをつかみかけているのですね?」
などと言っていたので、彼女は俺が懺悔室で移動系スキルを習得しようとしていることをおぼろげながらつかんでいるのかもしれない。
優しいが、恐ろしい人だ。
「と、そんなことを考えてる時間はないな」
タイムリミットは、明日の8時まで。
ゲーム世界で徹夜というのは未経験だが、まあ不可能ではないだろう。
その時までにステップやハイステップ、ジャンプやハイジャンプなどの移動系スキルの熟練度を上げ、そして出来れば、移動系の上級スキルである『縮地』を覚えたい。
この縮地を使えるかどうかで、この後の展開がずいぶん違ってくる。
なんとしても習得したい所だった。
「よし、やるぞ!」
俺は気合を入れ、まずはテーブルの上に乗る。
天井に頭が届きそうな状態であることを確認して、スキルを発動した。
(ジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプジャンプ……)
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガチャラリラリラ!
なんか途中ぼうっとして、百回くらいやった所で幻聴が聞こえた。
そして、
「ありがとう、ございました……」
俺はフラフラになりながら、教会を出た。
結局徹夜でギリギリまでスキル上げをしていたので、もう日付的には六日目、勝負の日になっている。
しかし、幸いなことに縮地は習得出来た。
これで一安心だ。
現在時刻は7時32分。
時間的にもちょうどよかったと言えるが、
「う、うう。太陽が黄色い」
ダメージのない場所であっても、徹夜の苦しさというのは軽減されないらしい。
あ、でもポーション飲むと治るかもしれない。
そんなことを考えながら、俺がフラフラと歩いていると、
「酷い様子ですね。そんな事で、私に勝てるのですか?」
徹夜明けでも忘れるはずのない声が聞こえ、俺はすぐに臨戦態勢を整えた。
どうしてここが分かったか、なんて馬鹿なことは訊かない。
きっと探索者の指輪を使ったのだろう。
ここで舐められる訳には行かない。
俺から5メートルほどの距離を取ってこちらを見つめるヒサメに、俺は挑発するような言葉を吐いた。
「あんたこそ、いいのか?
俺に近付かれたら負けだってのに、ずいぶんと余裕じゃないか」
「別に。その程度で捕まってしまうなら、私も所詮その程度だったという事です」
あいかわらずの台詞である。
だが、それは俺の予想の範囲内だ。
いや、ここで出て来ることを予想していた訳ではないが、勝負の前にもう一度会うことはあるかもしれないと思っていた。
だから俺は、鞄から白い便箋を取り出すと、彼女に向かって投げつける。
それを、彼女はあっさりと摘み取った。
「何ですか、これは?」
「あんたへの手紙だよ。
勝負が終わったら読んでくれ」
実は、勝負の後の保険として、イーナに手紙を書いた時に一緒に書いておいたのだ。
「遺書、ですか?
まあ、読むくらいは構いませんが」
「そんなものじゃない」
俺は否定したが、彼女は信じていないようだった。
というより、それ以外のことに気を取られている、というべきか。
「それより、本当に大丈夫ですか?
あの時の戦いは、久しぶりにわくわくしました。
今度はあの時以上の奇剣、奇策を見せてくれると、私は期待しているのですが」
本気の声でそんなことまで言ってくる。
猫耳にも動揺がない。
本当にそう考えてるようだ。
「なら、期待には応えられそうにないな。
俺はただ、あんたに当たり前のことを教えるだけだ」
「当たり前の事、ですか?」
そう言って猫耳をわずかに傾ける彼女に、告げる。
「確かにあんたは速い。
だけどそれは、この町では二番目だってことを、教えてやるのさ」
俺がそう宣言すると、ヒサメの口が薄く、本当に薄く、まるで笑みのような形に歪んだ。
「なら、構いません」
短い言葉に万感の想いを込めると、彼女は俺に背を向けて歩き去っていく。
俺はその背に向かって叫んだ。
「ヒサメ! あんたの速さは、他人に誇ってもいい才能だ。
全ての人間の中で一番と言ってもいいかもしれない」
プレイヤーがいかに敏捷をプラスする装備をつけても、通常の移動方法では彼女の域にまでは到達出来ないだろう。
だがそれは、彼女に打ち勝つ手段がないということではない。
「だけど人は、いつだって知恵と技術でその差を埋めてきた。
それを今日、あんたに思い知らせてやる。
今日は俺の全力で、あんたを叩き潰す!」
俺が最後にそう言った途端、ヒサメが一瞬だけ振り向いた。
「奇剣使い、ソーマ。貴方なら、貴方がもし、私に勝てたなら……」
彼女は俺に何かを言い掛けたが、結局は首を振って言葉を切ると、
「いえ、先に宿屋の前まで行っておきます」
そう言葉を締めて、目で追うのも難しいほどの速度で走り去ってしまった。
「……ふぅ」
思わぬ遭遇戦に、緊張していた身体をほぐす。
「そろそろ、行くか」
あまりのんびりして、時間に遅れたりしたらそれこそ取り返しがつかない。
いよいよ正念場だ。
これからの数十分で、俺の生死が決まる。
俺は徹夜明けの妙にハイになった状態のまま、決戦の場所に向かって歩き出した。
目的地が近付くにつれ、人々の喧騒が大きくなっていく。
まあ、それも当然だろう。
これは前から決まっていたことだし、だとしたら見物や見送りの人がいてもおかしくない。
(あ、れ? 足が……)
いざという場面になって、足が竦む。
大丈夫だろうか。
俺はうまくやれるんだろうか。
何か見落としはないだろうか。
そんな不安ばかりが湧きあがって、一歩も進めない。
それに、
(これで、本当によかったんだろうか)
とっくに解決したはずの悩みがふたたび俺を襲う。
だが、
(いや、もう決めたんだ!)
俺は意志の力でそれをねじ伏せた。
ここまでのお膳立てをしたのだ。
もう引き返せない。
それに、ヒサメにだって、最初に宣言してしまった。
全力で逃げる、と。
(――なら、行くしかないよな!!)
俺は覚悟を決め、タラップに一歩を踏み出した。
「お客さーん! リヒテル行き魔封船、もう出発ですよー!」
「あ、はーい! すぐ乗りまーす!」
そして数分後、俺を乗せた魔封船はヒサメに対する唯一の安全地帯、『空』へと昇っていく。
小さくなっていくラムリックの町を見ながら、俺は叫んだ。
「俺は、俺は自由だーーーーーー!!」
――こうして俺は、一切剣を交えることなく最強の女剣士との勝負に勝ち、決して逃げられない相手からまんまと逃げおおせることに成功したのだった。




