001 陶林資金
百万字超えてましたね。
継続は力なりとはまさにこのことですね(笑)
颯太たちの乗る幕府船は、イギリス船の追跡をかわすためにやむなく日本海縦断の試みに運命を賭した。
いきなりぶっつけ本番に既知の航路を外れ、未知なる領域へと船を進めたわけであるのだけれども……不安に押し包まれる船内において、後世の知識を当たり前のように所持している7歳児だけは……おそらく遠洋航海に対する危機感の不足と鉄火場馴れした神経の太さが要因の大きなものであったのだろうけれども……どこ吹く風とばかりにのほほんと船旅を楽しんでいた。
「まあまあ心配せんでも。…この内海はどんなふうに渡ったところでいずれ御国にたどり着くようになっとるから」
日本海を弧状に包んでいる列島こそが日本であり、正確に南を目指しさえすればどうしたっていずれ故国のどこかにはたどり着く。
たどり着けぬ者がいたとするならそれこそ奇跡である……自信たっぷりにそうのたまわる7歳児に感化されたものかどうか、小栗様をはじめとする使節団員たちも不必要に騒ぎ出すこともなく、むしろ範を示すことに意義を感じているかのように楽観的態度を崩すことはなかった。
後世で言うところのゴールデンウィーク的な好天が続いて、航行に支障をきたす恐れがまったく見受けられなかったのも、彼らを落ち着かせた要因であったろう。実際に突然の嵐に見舞われるとか、予想外の難所に座礁するとか危険なイベントに遭遇することもなく、船は順調かつ快速に距離を稼いだ。
そうして最後に陸を見たときから都合7日目にして、彼らはついに懐かしい故国の陸影をその目に捉えたのだった。
船頭の見立てでは、船の行き着く先はおそらく蝦夷(北海道)の西岸辺りな感じであったのだけれども、実際にたどり着いたところはもっと南のほうで、陸奥(青森)か羽後(秋田)かというあたりであったようだ。
船頭は場所の特定後、酒田港に寄りましょうと強く勧めてきたのだけれども、口外できぬ積荷のこともありそのまま江戸へ向うこととなった。むろん食料や飲み水などは最寄の漁村にて補給調達している。
水夫たちの多くは安全な西回り海路を推奨したが、江戸までの所要時間が半分ほどになる東回りを小栗様が決定した。日本海縦断は危ないと渋った小栗様であったけれども、結局そのリスクを成り行きで無理強いされたあとだけに、日本近海での小さなリスクなど考慮するにも当たらないと、妙に肝が据わってしまっているようすなのが少しおかしかった。
犬吠崎の沖あたりがけっこうな難所らしいのだけれども、まあこの季節なら、気の早い台風でも来ない限りどうということもないだろう。
かくして東回りに津軽海峡を渡り、東北太平洋側から江戸へと向った幕府船は、さらに10日ほどを要してようやくゴールである江戸大湊へとたどり着いたのであった。
***
安政3年5月21日(西暦1856年6月23日)、露西亜国に派されていた幕府使節が江戸への帰還を果たした。
帰国時に予想されていた西国をめぐる西回りでなく、津軽海峡を渡っての東回りの航路にて帰還した彼らに関係者は驚くものの、一時寄港した羽後の漁村から送られた書状は継飛脚にて先行して届けられていたために、『戦利品』の受け入れ準備だけはしっかりと行われていた。
以前かっぱいだ大砲のときもそうであったのだが、幕府の宣伝工作の一環として衆目の前で荷揚げされた恐るべき大きさの重カノン砲は、狙い過たず見物人たちの度肝を抜いた。
小口径のものさえそれなりに大振りなものとなる大砲のなかでも、それの威容はまさに群を抜いていた。犬の群れに熊が紛れ込んだようだとどこの誰とも知れぬ見物人が評したが、その形容がこの騒動のもととなった鉄塊の威風をもっとも的確に表現していたであろう。見物人の半数以上を占めていた武士たちも、啞然としたあとに男心スイッチが入ったらしく、子供のようにその威容に感心しつつ、その移送のあとをわいわいと群れるようについて歩いた。
「こいつぁすげえな!」
「弾の大きさだけでもとんでもなかろう。千石船くらいなら真っ二つになりそうだ」
「68ぽんど砲というのか!」
「ほかの大筒と比べてもまるで大人と子供よ!」
黒船の脅威に腰砕けな印象を持たれてしまっている幕府にとって、それを打ち払うことが可能な決戦兵器を入手したのだということを内外にアピールすることは重要なことである。この巨砲が黒船の大砲よりもさらに長射程、高威力であることを役人が声高に言い立てつつの長い行列は作られたばかりの台場まで続いた。むろんのこと、半ばプロパガンダの象徴でもある巨砲は、台場のもっとも目立つ場所に据え置かれたようである。後日その試射実見には将軍家定公が自ら立ち会われるとか、無視し得ぬ風聞まですでに広がっている。
同じ日に荷揚げされたほかの大砲類も、20ポンドクラスのものは引く手あまたで海防方の要請に応える形であっという間に各所に運ばれ、12ポンドの小口径のものも、既存の軍船に積み込もうと即座に奪われていった。
そして変わり種として持ち帰られた旧式砲、カロネード砲は大口径のくせに軽量であったため、こちらも試験的に幕府の所有する軍船に搭載される運びとなるようである。
もしかして長州征伐で試し撃ちされるのか? などと7歳児は内心危惧したものの、歴史がおのれのために大きく捻じ曲げられつつあることも自覚していたため、ドナドナされていくおのれたちの『土産物』をただ黙って見送ったのだった。
結果から言うと、今回の秘密交渉はまさ大成功と言ってよかったであろう。
「…まあ失敗はせぬとは思っていたがな」
福山藩藩邸にて。
病臥から起き上った阿部伊勢守はそう言い置いてから、がははと背中をゆすって大笑いした。
まだ病状は快癒には程遠いらしく、顔色もけっしてよろしくはなかったのだけれども、かっかと笑うその様はいまだに為政者としてのオーラを保っていた。
「…あのすくうなあ一隻で、これだけのものを分捕ってまいったか……以前手に入れたやつと同じ大きさの大砲を20ぽんどというのだな。…それが1門2000るーぶる、250両で贖えるというわけか」
「…あくまでも此度の交渉での値付けに過ぎぬものですが。ただこの値が『前例』となりましょうゆえ、いずれ彼の国との通商の道が開かれれば、千両箱ひとつでこれが4門手に入るという、ある程度の基準ができたものと思って間違いはございませぬ」
「…千両箱ひとつでこれが4門贖えるのならば、案外に安いものだな」
「そしてあのすくうなあは、18750るーぶるの価値が付きました」
対話はむろん使節のリーダーである小栗様が中心になっているのだけれども、ときおり目配せで颯太も意見を求められる。
この秘密交渉で颯太が非常に大きな役割を果たしたことは既に報告済であり、この物品、金銭の授受の流れも、もっともつまびらかにできるのはこの7歳児を置いて他にはなかった。
「…この取引で最も重要な点は、彼の国のルーブル貨幣、1ルーブル銀貨が我が国での1分銀に相当するという、交換レート……基準がはっきりとしたことです。公平な交換が可能となれば、我が国としても足元を見られることがなくなり、取引相手として非常にやりやすい相手となるだろうことが推測されます」
「…まだ通商を開くには時期尚早だぞ」
「…まことにじれったいことですけど、そこはもちろんわきまえてはおります。…そしてもう一点、例の『手土産』、持ち込んだ根本新製にも、まずまずの値が付きました。こちらの対価は現金として持ち帰るわけにもいかず、あちらにて預け置きとなりましたが、その『資金』は英吉利国銀行に『口座』なるものを作り、正式な通商が開かれるまでの間、そこに収められることになりました。…これは今回におきまして特に望外の『戦果』であったといえましょう」
颯太は浮かびそうになる笑いを打ち消しかねて、口元をひくひくとさせた。
銀行口座……それがどういうものであるのか、この時代の日本で、現時点で理解しているものはどう控えめに見てもこの7歳児以外にはありえなかった。ジョン万次郎がもしかしたらアメリカで銀行口座を持っていた可能性もわずかながらにはあるのだけれども、それだってあると仮定しても民間銀行のそれでしかない。
今回ロシアの有力貴族、ストロガノフ家がイングランド銀行に口座を開く労を厭わなかったのは、取引が国対国であったからに他ならない。名義は『TOBAYASHI TRADE COMPANY』であったとしても、それは紛れもなく日本の国家主権を担っていると解されている武家政権、徳川幕府の公的口座となると認識されていたからこそ、格別の便宜を図られたのだ。
世界最初の中央銀行、『ザ・バンク』とまで呼ばれたイングランド銀行は、むろんこの時代世界最大の金融機関である。各国の王侯貴族が資金管理の一環として活用しており、ロシアのロマノフ家もこの銀行に莫大な金を預け入れていた。ロシア最大の富裕一族であるストロガノフ家でもまた然りなのだろう。
イングランド銀行に金を預けることで、いつでもイギリスポンドを引き出すことができる……この時代最強の国際決済通貨であるイギリスポンドを確保しているというのは、国際市場において非常に重要な『信用』を積み増してくれる効果を期待できる。
「…ぎんこうとは?」
「列国で言うところの両替商のようなものです。…ただし扱う金銭の規模は桁が違いますが。不特定多数の出資者が金を預託することで巨額の資金を作り、これを他人に貸し付けて利息商売をする構造は『頼母子講』のほうが似ているかもしれません。そこで得た利息収入は、決まった率で出資者に還元されます。…口座とは、そうした『出資』を預け入れるために開かれるもので、形はありませんが商人が金を貯め込む『銭箱』みたいなものだとご理解ください。銀行はその口座の入出金を、帳簿で管理してくれます」
「………よくは分からぬが、幕府はおまえの売り込んだ『根本新製』の代金を、その英吉利国が胴元の『講』のようなものに預け入れたわけだな」
「さすがに理解が早いです。助かります」
「その『講』に金を預け入れたことで、我々はいつでも英吉利国の金を引き出すことができるのだな?」
「…当初は手続きが煩雑になりそうですが、おおむねその通りです」
颯太は一呼吸言葉を置いてから、
「…われわれが小判で買い付けようとすればぼったくられる大砲や銃も、英吉利国の金でそしらぬ顔をして購入すれば、おそらく費用はさらに半値以下になるものと思われます」
「………」
「…名義人とした『TOBAYASHI TRADE COMPANY』とは、こちらの言葉で『陶林貿易会社』という意味になります。会社という体制をわが天領窯でもとっていますが、海外貿易を営む株仲間というような意味合いです。現地で支店なりを開設し、英吉利人の代理人をでっち上げれば、あちらの公正な市場で先進武器も買い叩けることでしょう」
おそらくは幕府の命運さえも左右してしまいそうな、秘密資金の隠し口座に、おのれの名が使われてしまっている事実には正直戦慄するものがある。
だが颯太は、おのれが海外に雄飛する際にその口座が格好の足掛かりになるものと踏んで敢えておのれの名刻んだ。小栗様のさぐるような視線を甘受しつつも、暗に「その海外取引の管理はそれがしが適任である」と主張するように、まっすぐに阿部様を見つめる颯太。
「…よかろう、その買い付け等も含めて思うがままにやってみるがいい。わたしがケツを持ってやる」
理解ある派閥領袖は、そう言ってにやりと歯を見せて笑ったのだった。




