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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
260/288

054 日露秘密交渉⑨

たくさんのご感想ありがとうございます。

励みになります。






宇宙の始まりは『揺らぎ』であったという。

何もなかったはずのその空間に、大きな『揺らぎ』が起こった結果、無から有が……我々の世界を内包する宇宙がいきなり誕生したのだという。

素人にはよく分からない理屈だ。


(…全員の……目が変わった)


…でもそれによく似た現象を、颯太は知っている。

人間の経済活動ではわりと頻繁に起こるものであり……例えばどう見てもただの石ころでしかない物を並べている商人がいて、なにを馬鹿な商いをしているのだと周りの商人たちから嘲られていたところに、ふいに珍しい石を蒐集している好事家の金持ちが現れたようなものであった。

それまで価値がなかった石ころに、とつぜん1億円の値が付けられる……物品の価値などというのは人が勝手に決めているもので、その客が値を口にした瞬間に突如として無から有が……《価値》が生み出されたりすることなどはよくあることだった。

ただでさえ珍重される東洋磁器(オリジナル)であり、ロシア皇帝が気に入っているという『逸話(ストーリー)』がたったいま付加価値として付け加えられた。


「…このティーセットは、数を用意できるものなのですか?」


熱のこもるストロガノフ氏の問いに対して、颯太は体裁をどうにか取り繕いつつ答えを返す。


「この『根本新製』は幕府の御留焼となっております。窯元でも特に限定した窯と職人が製造に当たっており、出荷される数量に関しては非常に少量であるといわねばなりません」

「この『ネモトシンセイ』を当家、ストロガノフ家にて取り扱わせていただくことは可能でありましょうか」

「…それはどういった主旨の御申し出なのか、確認させていただいてもよろしいでしょうか?」

「当家にはロシア本国のほか、西方諸国などへの販路もあります。東洋磁器に対しての王侯の需要はつねに旺盛でありますので、その口利きをわがストロガノフ家に任せていただければ…」


いきなり大きな商談が発生したようである。

むろんこれは天領窯の代表である颯太であっても、即断していい事案ではない。颯太は事の成り行きをやや呆然と眺めている幕府使節団の中に小栗様の姿を探した。

彼の目配せを捉えて、使節のリーダーが再起動する。

ソファの一番端で目を爛々と輝かせている松陰先生のほうは見なかったことにする。


「その『根本新製』に関しましては、まず幕府を通していただかねばなりませぬ。露西亜国とは一度引き渡し交渉を行ったこともあるので、ご承知のこととは思いますが……わが国は外国との交易に関して厳しい制約を設けております。ご入用とあらばこちらといたしましても善処していきたいところではあるのですが、国禁にも触れよう大事でありますので、この場でそれがしの一存で決められる程度の事柄ではないことをご了承いただきたい」


石井の通訳をじりじりと待ちつつ、国同士の難しい問題が横たわっているのだという理解が浸透していくさまを観察する。

むろん、鎖国体制という孤立主義については理解を示しつつも、ならばなぜあなた方はここにいるのかというごく自然な疑問は思い浮かんだようで、そのあとの説明は颯太のほうで引き取った。


「今回、われわれが求めているのはあくまで物と物との交換……物々交換(バーター)というやつであります。先回、そこにおられるボリフ・イワノフ氏との間で行われた『根本新製』の受け渡しもまた、金銭の授受ではなく物と物との交換という形で行われました。相手に物を贈り、その返礼として別の物をいただくことは我が国の禁には触れませんので」


その場にいた全員の視線が、ドアのそばに立っていたニコラエフスク哨所長ボリス・イワノフ氏へと向けられる。そこで当人から恨みがましい視線を返されて颯太は少しきょとんとしてしまったのだけれども、カザケウィッチ氏の苦虫を2、3匹噛み潰したような様子もあいまって、ああその動きはシベリア総督の派閥の話であって、本国組のトルストイ氏らには秘密のことであったのかと得心する。

シベリアのような僻地の管理を任された総督と、その土地の防備を担う現地組のふたりは同様なラインに属する人々であったのだろう。その彼らが秘密裏に皇帝の好みそうな東洋の磁器を購って、それをどのように使うつもりであったのかは自明である。

なんとなく幕府施設をこの船に行かせたくなかったカザケウィッチ氏らの態度の理由がなんとなく想像できてしまった。

微妙にもの問うような眼差しを本国組から向けられて、現地組ふたりは『なんの話かとんと心当たりがありませんな』と顔を引き攣らせながらうそぶいている。まああちらの事情など知ったことではないので、颯太はそのまま話を押し進める。


「こたびわれわれがこの地にまで伺ったのは、もちろん多少の目論見があることは否定いたしません。…貴国はこの極東において貴重な艦船を補充したい。そしてわが国は頻繁に訪れるようになった列国の……とくにメリケン国……そちらでは亜米利加合衆国と呼ばれているそうですが……そのあからさまな砲艦外交の脅威に対抗するすべを手に入れたい。わが国には木造船の安定した技術があり、貴国には列国と渡り合えるだけの『鉄量』がある。相互に足りないものを補完しうるこの取引は、まことに稀有なことではありますが、金銭を介さずともお互いの欲しているものが手に入れられる状況にあります。ゆえに我が幕府の上層部は多少の目をつむることでこの取引を黙認されています。…この取引が成立し、安定的に相互に必要なものを用意し続けることができたならば、いずれわが国が通商の道を開いた暁には、もっとも確固たる国家間通商のひとつとして大々的にその質と量が拡大されるものとそれがしは予想しております」


カザケウィッチ氏らには悪いのだけれども、このような話は国のトップ、ロシアで言えば皇帝の耳にどのような形で入っていくかによって結果が大きく異なってくる。

この地にトルストイ氏ら本国組が滞在していたのはまさに僥倖であったのだ。シベリア現地派閥の寒い懐事情と政治的意図に結果を歪められることなく、こちらの要求が叶えられる公算が急激に高まったのだ。海軍省という中央組織の官僚であるトルストイ氏ならば軍需物資の融通はもっと利くだろうし、ストロガノフ氏のような帝室ほか列国の首脳にパイプを持っている有力貴族であるなら、皇帝に対しても『意見』が言えたりもしよう。

おそらくこちらが求めている最新式の大砲……とくに重砲などとの交換を拒んでいたのはおそらく茶器ひとつに大砲10門も『ぼったくられた』シベリア総督の苦い経験則による意向が大きく働いていたのは間違いない。そのシベリア総督の手のひらの上から逃れられただけでも実は結果としては上々であったりする。


「いずれ貴国との通商の道が開かれる、と」


トルストイ氏が言葉を選ぶように口を開いた。

それに答えたのは颯太ではなく小栗様であった。


「…いまはまだなんとも申せませぬ。しかし我が幕府にも、海外の優れた物品を入手するためにも通商が必要だと考えられている方が少なからずおられます。…いまそれがしが言えるのはそれだけであります」

「…18750ルーブルで小型船を買い上げたと先ほど聞きましたが、それは『通商』ではないのですか?」

「…わが国との物々交換ではよい大砲を出すことはできないと言われましたので、苦肉の策ではありますが、こちらの船を清国の商人に売買を委託し、そこで発生した金銭をもって清国商人、鄭士成殿が貴国から大砲を買い付けるという形をとっていただいております。むろん現状は書面の上のみでありますので、交換に応じていただけるのでしたらそのようなやり取りは無駄になりますので破棄させていただきますが」


通訳の合間に、トルストイ氏もいくらか思案したようで、


「…いえ、今回はその形で取引をしていただきたい。要望の『重砲』はこの艦に積まれた物を放出する形で応じさせていただきましょう」


おそらくは物々交換よりも金銭での売買のほうが、必要となる書類が簡易に済むと判断したのだろう。

トルストイ氏の薄灰色の眼差しがちらりと机の上に広げられた『根本新製』に向けられた。船と大砲とのトレードの先に、白磁の取引も見越しているのだろうと推察する。


「…それでは」


小栗様たちが喜びに腰を浮かせた。

この中央所属の、巨大な戦列艦に搭載されている重砲である。それがどのぐらい立派なものであるのか想像して、颯太も笑い出しそそうになるのを必死でこらえねばならなかった。


「今後も両国の間に神のご加護があらんことを」


トルストイ氏が差し出した手を、立ち上がった小栗様は迷うことなく取った。

続いて差し出される何人かの手を何度も握りながら、小栗様は南蛮人との付き合い方を急速に身につけていっているようである。

颯太もまた、何人かと握手を交わしたのだけれども、なかでもストロガノフ氏には両手でがっしりと掴まれ、ボリス・イワノフ氏には握りつぶされそうな力を込められた。

痛いっつーの。

そうして和やかになった空気のなかで、ストロガノフ氏の口から『根本新製』の取引方法についての相談が始まった。

その取引がのちに困窮する幕府の貴重な外貨獲得手段となっていくのだが、まだそれは先の話である。


ようやくロシアと交渉は終わりです。

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― 新着の感想 ―
ロシアに渡ってからの話の膨らみ方が凄いです。
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