051 日露秘密交渉⑥
「That ship can't do!(その船はダメだ!)」
客として扱われていたがために容認されていた颯太の無理押しであったが、彼が当たり前のように軍港最大の船に取り付こうとしたところ、カザケウィッチ氏がこらえきれぬように吠えた。
司令官のただならぬ様子に周囲にいた水夫たちが肉のバリケードを形成する。
「Big ship」
「no!!」
こどもとっけんを発動して無邪気に指差してみたのだけれども、さすがにいまさららしくまったく通用しなかった。幕府使節とロシア人たちとの間で発生した騒ぎは、人数の関係であっという間に幕府側が押し包まれるような格好になってしまった。
うむ。まずい展開になった。
護衛の大人たちに守られる颯太の身体が、すし詰めの満員電車のように埋もれそうになる。足が地面から離れたあたりでどうしようもなく息苦しくなって、圧迫のない空を見上げた。
そこには戦列艦の舷側がそそり立ち、その遥か上の甲板からも人がこちらを見下ろしているのに気付いた。そのなかには明らかにかなり地位の高そうな、立派な服を着た人間の姿もあった。
「…Mr!!(ミスター!)」
とっさに颯太は叫んでいた。
こちらにその目が向くまで、執拗に連呼した。
立派なひげを蓄えたその紳士は、こちらのただならぬ様子に気付くと、何事か叫びつつ両手を振った。おそらくロシア語の命令であったのだろう。荒くれの水夫たちが小艦隊司令のカザケウィッチ氏のそれを無視してまでおとなしくなったのは、その人物の地位が同等以上か……おそらくはより高位であることの証左であった。
その人物の眼差しを受けて、カザケウィッチ氏が苦々しそうに視線をそらした。舷側からこちらを見下ろすようにしているその人物の顔が逆光でシルエットにしか見えない。
「…Welcome, to my ship.(わが船へようこそ)」
ミスター、という言葉に合わせたものなのか。
届いた声は、流暢な英語だった。
乗船を許可されて、甲板へと上がった幕府使節の面々は、その巨大な甲板と雨除けを掛けられて並んでいるいくつかの明らかに巨大な大砲にすぐさま目を奪われる。
先ほどこちらを招いてくれた紳士との握手に続いて、この艦の勅任艦長だというコンドラト・グリゴリエヴィチ・ストロガノフという40がらみの軍人とも握手した。
たれ目で肉付きの良いストロガノフ艦長は、『我が家』に来訪した異国人たちをニコニコと迎えながら、一方で兵士らに『早急な片付け』を命じた。彼の威徳が利いているのか、甲板にいた兵士らが恐るべき統率のもとに散らばったものを手早く一掃していった。
颯太らの後から船に上がってきたカザケウィッチ氏らが、先ほどの紳士を捕まえていろいろと話し合いをしている。艦長を差し置いてであるので、その紳士がこの船内での最上位者であることは間違いなさそうであった。
「Your country would like to buy a cannon.(貴国は大砲を買いたいのですね)」
ややして話しかけられて、颯太は振り返った。
英語で話しかけてきたのはカザケウィッチ氏らから解放された例の紳士だった。名乗った名前は、聞き取りが正確であるならばドミトリー・トルストイ……どこかで聞いたことがあるような名前なのだが、心の隅でまさかとは思う。
こちらの(設定上の)英語力のつたなさで単語のみの応酬となってしまったのだけれども、彼は海軍省に勤務する官吏……いわゆるキャリアというやつであるらしかった。詳しい職位などは分からないのだけれども、現場の上級軍人である艦隊司令が顔色を窺わねばならないというあたり、後世日本の官僚機構でいえば課長級ぐらいではありそうだ。
答えてもらえるなどとは期待もせずに気になる『トルストイ』について尋ねると、あっさりと解答が返ってきた。『トルストイ』という名の伯爵家があり、彼はその傍流の出なのだという。
なんとなくその名を気にしているふうの颯太の様子にピンと来たらしい彼の口から、『本家には先ごろ、本を出版して名を高めたレフ様とおっしゃられる方がおられます』との先回り気味の解説があった。ああ、やっぱり。文豪のほうはレフ・トルストイ。本人じゃなくて、一族の方ということね。納得しました。
(貴族出身の官僚とか……まさに出世のジェットストリームに乗ってる人なんだろうな。そういうことならば、いろいろと巻き込んでいった方が交渉のプラス要因になるかもしれん)
ひとり納得顔で思案し始めている7歳児の横で、後の世のロシアの世界的文豪……この時点ではデビューしたての新人作家に過ぎない人物をなぜか知っていた7歳児に、小栗様もさすがに顔をひきつらせていたりする。
「…陶林殿は、そのような貴重な知識をどこで仕入れられたのですか」
「……あー、えっと、…たまたま乱読した蘭書のどこかでそのような記載があった気がしただけです。なんとなくだったんで、記憶違いでなくてむしろそれがしが驚いたぐらいです」
「………」
しゃあしゃあと答える颯太を、小栗様がじとっと眇めた目で見てくる。
かなり厄介なフラグが立ちつつあるのだけれども、ほかごとに気を取られている颯太は気付かない。
「…あとでいろいろと聞かせていただきたいのですが、よろしいですね」
「…いつどこで読んだとかは……あの、いまはこっちに集中したいんで、その話は終わりでいいですか?」
スルースキルどころか、フラグ自体を無意識にぶった切りに行く颯太。
もうその目は新たな交渉相手に定められて動かない。
「Please come here.(どうぞこちらへ)」
ドミトリー・トルストイ氏に促されるままに、颯太と小栗様は船楼へと招じ入れられたのだった。
そこはドミトリー・トルストイ氏が日頃使用している執務室であるらしかった。
広さは6畳間ほどのものだが、有限な船内空間に執務専用の部屋を持つなど、相当に贅沢なことであろう。むろん氏の寝室はまた別のところにあるらしい。
事務机のほかに壁際にL字に長椅子があり、テーブルを出せば簡単な応接ができる造りとなっていた。造りはそこまで豪華ではないものの、クッションは結構利いているし座り心地もよかった。
事前に指示がされていたのか、颯太と小栗様が着席するなりお茶が運ばれてきた。お盆を捧げ持ってきたのは若い士官候補生だった。
ここはロシア海軍の虎の子である戦列艦の中なのだ。そこの住人の主要な者たちはもれなく貴族であってもおかしくはない。手元に置かれたティーカップは白い煙とともにふくよかな香りを放ち、鼻腔をくすぐってくる。
(…これも帝室窯っぽくないな。プチャーチンが持っていると言っていたハンガリーのヘレンド焼っぽいんだけど)
東洋の意匠を取り込んであちらふうに消化している最中な、アジアとヨーロッパが中途半端に混ざり合ったようなもやっとした花と文様の絵付けである。
金魚(鯉)こそ見えないものの、ヘレンドっぽさが随所に見える。
紅茶に口をつけるも、古いのか香りが抜けかかっている。インドに植民地を持つイギリスならばあり得ないことだろうけれども、ロシアは欧州の東のはずれに位置するため、たぶん本国でもそれほど新しい紅茶を手に入れられないのだろう。
(…まあさっきのやつよりは程度もいいし絵付けも擦り切れとらん。この戦列艦の中のほうが、あの哨所とかいう建物よりもより中央に近い感じだな)
改めて颯太は執務机のほうに座るドミトリー・トルストイ氏の様子を見る。
こちらが徳川幕府の寄越した使節であることは知っているふうであるものの、どこか『当事者ではない』と一歩退いているような感じもする。役人が自分の責任の範疇にないことに関心を払わないのはいまも昔も変わらないということか。
(…とっかかりはその『関係者じゃないし』っていう『緩み』か……さあいっちょやりますか)
颯太は唇をぺろりと舐めた。
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