046 日露秘密交渉①
船団の入港に対してのロシア人たちの反応は激烈だった。
それは日の丸を掲げた幕府船の来訪に胸躍らせて……というような感じではなく、恐るべき辺境の村の子供たちが、年に数回やってくる行商人一行に目を輝かせて群がり寄ってくる、そんな感じの歓迎のされ方だった。
そして主役としてここで扱われたのは、まあご想像通り鄭家のジャンク船のほうだった。
「…なにこの大繁盛っぷりは」
釈然としない『肩透かし感』にその騒ぎを眺めることとなった遣露使節団の面々。当然ながら彼らを迎えに現れたロシア当局者たちもいたのだけれども、現地民たちのフィーバーに当てられて握手も上の空であった。
(…この商売繁盛がシベリア総督閣下の目に止まったんやな)
颯太のなかで謎であった事象がこれで繋がったわけであるのだが、ルーブルを握り締めて殺到しているロシア人たちの必死っぷりにはやはり意外感があった。
浮き桟橋に幕府船とはさみ合う形で並んだ鄭家の船からは、人足たちによって次々に荷が降ろされ、それが波止場に積み上げられ出すと、もうロシア人達からは怒号と呼んで差し支えのない『開店催促』が始まった。
何かきっかけがあれば取り付き騒ぎになりそうな人々を鄭家の護衛たちが壁を作っていなしつつ、その間に急造の露店が手馴れた素早さで姿を現していく。
(…しかしみんなえらい必死やけど、まさか戦中で困窮しとるのか)
颯太の目は群がるロシア人たちの身なりに向けられる。
群がっている者たちはほとんどが男で、着崩してはいるものの大半が軍服姿だった。女子供もわずかにはいるものの、男たちにもみくちゃにされるのを恐れてやや遠巻きにしている。
男たちに軍服が多いのは、むろんほとんどが軍人ということなのだろうけれども……彼らがその服装でいるのは、防寒着として優れているだろうから納得はできた。が、女子供たちの着古した感バリバリの粗末な身なりは、『困窮』という状況をはっきりと示しているように颯太には感じられた。
「…They are embarrassing(恥ずかしい)」
通詞と思しき士官が兵卒らの醜態に渋面を作っている。
日本との交渉は英語なら何とか通じると言われていたのか、英語に堪能な人間が連れてこられているらしい。
迎えに来た当局者の最上位らしい士官は、立派なもみ上げが口ひげと連結している熊のような男だった。士官は揃って肩章付きの制服姿で、その男が一番飾りが多かった。
その男が波止場の騒ぎなど目に入らぬというように、手振りで同行を促した。
「Would you come together?(ご同行願えますか)」
通詞の言葉に颯太は得心して、「行きましょう」と一行に告げたのだった。
(…船渠は建設中らしいけど、稼動中なのは一箇所のみ。改修用の材木はたっぷりと積みあがっとるのに、船大工の数が圧倒的に少ない。あれじゃ、この港にとまっとる船を修理するだけで年が暮れてしまいそうやわ)
移動中も、颯太は観察し続けていた。
すべての住人が鄭家の露店に集まってしまったのではないかと思うほどに、ニコラエフスクの街中は閑散としていた。
町の歴史はまだ浅いのだろう、計画的に建設されたニコラエフスクの街路はそれほど伸びることもなく尽きていて、それらが碁盤状に交差していくつかのブロックを形成している。建物は新しそうなものばかりであったが、大きなものはなく、二階建ての役所みたいな洋館が最大のものだった。道はむろん石畳なんてこともなく、隅にまだ残っている残雪とその解けた水で、どこもかしこもぬかるんでいた。
「これがロシア国か。それほど栄えてもおらぬのですね」
そんな失礼な感想を漏らしたのは、使節の通詞っぽいポストを手に入れた松陰先生である。きょろきょろと落ち着きなく見回しているものの、勝手にどこかに行くなどということはさすがにできず、おとなしく小栗様の後をついていっている。
「おい、気をつけろ……クソが落ちてやがる」
「…っ、本当だ」
文明人を気取っている西欧人の衛生観念のなさに、後藤さんたちも気付きだしたようだ。寒さで臭いがあまり目立たないものの、街路のいたるところに糞尿が捨てられている。
むろん草太などはいち早く気付いていて、汚水に等しい水溜りを極力避けて歩いていた。草履履きの現状、みな水溜りには気を使っているので、無残な被害者はまだ出ていない。
通りすがりのロシア人たちが、遠慮も何もなくちょんまげ姿の異国人を指差して声高に話題にしている。なんだあの髪型はと笑っているの違いないのだけれども、クソまみれの汚物生活を当たり前に思っている野蛮人どもに、衛生観念の大切さを懇々と説諭してやりたい。冷静に比較して見ても、どちらが文化的素養に優れているのかは明白であった。
女性とかはやはりあまりいないようだ。確かこの当時、ロシアはシベリアの過疎っぷりに業を煮やし、とりあえず有無を言わさず動かせる軍人やコサック、その他罪人などを送り込んでいたはずである。ゆえにこの状態は当たり前であるともいえる。ここにいる女性は罪人の夫とともに入植した婦人か、もしくはコサックの東征の結果帰順した現地少数民族の女性なのだろう。商売女もいるのだろうが、時間が昼間なのでそういうのは目に入らない。
店もほとんどなく、カウンターの奥の棚にいくらかの商品を並べた薄暗い雑貨商店と、飲み屋なのか食い物やなのか分からない、道端にまでテーブルを並べている『飲食店』らしきものが1軒あったぐらいである。その雑なオープン席にも軍人たちがウォッカのビンを手に大勢くだを巻いていた。めちゃめちゃ寒いのに、ロシア人たちにとってこの陽気は小春日和ぐらいに暖かいのかもしれない。
(…さっきの騒ぎといい、やっぱりこの土地は物がかなり不足してるらしい。…これは交渉のカードになるかな)
颯太が見取った通り、この当時のニコラエフスクはまだ作られてまだ5年ばかり(町として承認されたのも1856年)の町で、帝都サンクトペテルブルクから地球の裏側かというぐらい離れている上に物流手段は橇のみという体たらくであったので、慢性的に物資不足に苦しめられていたりする。一方で軍需物資など国防に直結する必需品などは船で運ばれていたようではあるので、王政国家にとって領民など本当に価値がないものだったに違いない。
まあともかく、そんな町を少し歩いた先にあった、二階建ての洋館に使節は招じ入れられた。周辺からたっぷりと調達できる木で高い壁をめぐらしたその建物こそが、この町の始まりとなるニコラエフスク哨所……軍本部兼役所のような、町の中心となる場所だった。
銃を構えた歩哨たちの敬礼に迎えられて、颯太たちは建物の中に入った。
とたんに北国特有の過剰なまでの暖気に身が包まれたのだった。
暖炉には薪が贅沢にくべいれられ、部屋は窓が結露で何も見えなくなるぐらいに暖かかった。
長テーブルの一方に最上位の目付格小栗様以下、颯太、永持、石井、中島、松陰先生が席に着き、出された紅茶に戸惑いつつも交渉の始まりを待ち構えていた。目の前に出された湯気を立てるティーカップに最初に手を伸ばしたのはむろん颯太で、彼が平然とそれを口にするのを見た後でみながそれに習った。
ティーカップの取っ手が指を引っ掛けるものなのだと、物珍しげにその形状などをしげしげと眺めているみなとは違い、颯太はカップそのものの鑑定をシビアに行っていた。
(…いちおう国賓とは言わないまでも、重要な客がやってきて、そこに供された食器なんやから、たぶんこれがこの建物の……品不足が深刻そうなのを考えればたぶんこの町でも最上のティーカップがこれ、っていうことになるけど…)
ティーカップはむろん磁器製。
絵付けは外側に王冠を意匠化したような赤絵具の線画が施され、カップの縁と取っ手には金彩がなされている。
ロシアならば帝室窯のロモノーソフ? とか思いはしつつも、帝室のための産品がこんな僻地の基地に存在しているはずはないなと否定する。ロシアかもしくは東欧の、マイナーな窯元の品なのだろうと推察する。
良い品ではあるのだけれども、長年使い込まれた年代物なのか、縁の金彩が禿げてしまって、ちょっと残念な感じではあったりする。その程度のティーセットが、ここでは最高級品なのである。颯太のなかでどこか据わりの悪かった何かが、そのときすとんとあるべきところに収まったような感じがした。
ロシアのれっきとした貴族であるプチャーチンが目の色を変えた理由が、颯太の中で脈絡となって繋がった。
(よーし、よしよし!)
いけるぞ、これはいける。
ここまで携えてきた根本新製のワンセットが、部屋の隅にほかの荷物と一緒に置かれている。脳内で目の前のティーカップと引き比べて、颯太の中の全おっさんが勝利の喝采を上げている。この時代の海外の『現実』をようやくこの目で確認したのだ、沸きあがってくる興奮のためにこの場で飛び跳ねたくなる。むろん自制はしたのだけれども、受け皿にカップを置くときに必要以上に大きな音を立ててしまった。
「…陶林殿?」
小栗様に気遣われて、颯太は「何でもありません」と背筋を伸ばした。
そうして待つこと四半刻(30分)ほど。
ノックとともに数人のロシア人たちが部屋へと入ってきた。
安政3年4月27日(1856年5月30日)、日露は秘密交渉の席にて対面した。
日本側代表、目付格・小栗又一(忠順)。
副代表、支配勘定並・陶林颯太
露西亜側代表、シベリア小艦隊司令・ピョートル・ヴァシリエフ・カザケヴィッチ。
副代表、ニコラエフスク哨所長・ボリス・イワノフ。
カイゼル髭の謹厳そうな軍人が、このニコラエフスクにおいて現状最上位にあるらしい。シベリア小艦隊というのが、この極東でのロシア海軍主力なのだろう。
そして副代表として出てきた男には見覚えがあった。
そのとき目線が合って、なぜか底冷えのするような笑みを向けられたのだけれど。気のせい?
かくして、交渉の幕は上がったのだった。
当時のロシア情勢に対する理解が足りず、うだうだと迷っていましたが、眠れずに惰性で書き続けているうちに主人公が勝手に扉を開けて交渉の席についてしまいました(笑)
こういうときはおとなしく従うのが吉ですので、とりあえず更新いたしました。
リアルが忙しいのは変わらないので、更新はゆっくり目となりますがご容赦くださいませ。
英文の不自然な部分をご指摘いただき、修正いたしました。11/13




