042 異文化交流? イギリスとの接触⑥
「NO」
そう、口にしてから颯太はにっこりと笑んだ。
そして固まってしまっている相手側の艦長と通詞。ぽかんとしているのはふたりだけでなく、聞き耳を立てていた同乗のイギリス人たちも同じである。
「『NO』ですが、なにか?」
しれっと小首を傾げてみせる7歳児に瞬きした艦長は、束の間こちらを覗き込むように凝視したあと、ゆっくりと試すように再び問いを発した。
『…ソブリンと言うのは、我が国の金貨のことです。それが50枚ともなると、かなりの大金とみなすことができます。もう一度聞きますが、50ソブリンで人質を解放していただけませんか』
「NO」
まったく迷うそぶりもなく、颯太は言い切った。
イギリス人たちの反応があまり芳しくないのをややして認めて、そこに身振り手振りを付け加える。子供たちに理解させようとする幼児番組のお姉さんのように、簡明かつシンプルに……50ソブリン? ダメダメそれ少ない、もっとたくさん! と要求する。
イギリス人たちの間で、疑問が戸惑いに変わった。隣に座っていた通詞が何事か耳打ちして、それに応える形で艦長が新たな問いを口にした。
『ソブリン金貨のことは知っていますか?』
「YES」
『どの程度の価値があるのかは?』
「one、pond」
ここは少しだけ知識を小出しする。
この時代の国際決済通貨の『ポンド』ぐらいならば、きっと知識として日本国内にも何らかの形で入ってきているだろう。数字ならばなおさらである。
ならば「本で見ました」で何とかなる。これは出していいチートだと、颯太の中の線審を務めるおっさんが「イン!」と判定している。
そのときのイギリス人たちの驚愕の様子は、まさに見えない『雷に打たれた』ようであった。
颯太は気づいてはいないが、その後ろで適当な振りをしていた松陰先生までもが言葉を途切らせて目を丸くしていたりする。
『英語が聞き取れているのですね』
「…YES」
そこで艦長が大きくため息をついて、こめかみを揉み解す仕草をした。同様に通詞のほうも……小さく肩をすくめて『やられたぜ』みたいなポーズを見せた。
そうしてそれらの視線がもの言いたげにこっちの通詞……松陰先生に向けられ、今度はそちらの言語能力を試すようにいくつかの問いが発された。慌てた松陰先生がいまさらながらのエア通詞演技を再開するものの、そのいい加減ぶりはイギリス人たちに見抜かれることとなってしまった。
おのれの三文芝居がばれたことをむろん本人も気付いたようで、さすがのナチュラルハイも一気にトーンダウンしてしまう。その様子を後藤さんらや水夫たちも見ている。このままでは少々まずいと颯太は松陰先生の肩を掴んで引き寄せると、耳元で「ええから、通詞のふりはやめんといて」と囁いた。
固まったままのその背中を叩いて再起動させる。
「…適当言って通詞の振りしたのはバラしたりはせんから」
「………」
「南蛮人と直接話してあわよくばあちらにツテでも作ろうとか企んでたんやろうけど、密航した上に幕府のお偉方をたばかったとか、さすがにばれたら庇いきれんけど?」
目と目の語り合いののち、松陰先生は最前までの面白半分な感じが失せて、浮かせ気味であった腰がゆっくりと落ちた。どうやらおのれの安請け合いが颯太に見抜かれているということを理解したのだろう。
想像するに、松陰先生はともかく外国に渡りたい、それもできうるならばもっとも文明の栄えた国に行きたいと……その進んだ文物を見聞きし、南蛮人と言うものがどれほどの脅威を持つ存在なのか、おのが目で調べてみたいと渇望しているのだろうと思う。
松陰先生はとにもかくにも『情報』を欲しているのだ。物を知らない自分を強烈に意識しているがために、その欠落したピースを埋めるためにどんな苦労もいとわないふうがあった。諸国を遊学し、有識の人物にはしつこいぐらいに会いに行く。できるだけ多くのものを見聞きし、それをおのれの行動指針を定める一助としようとした……そんな人物像が颯太の中にはあった。
先だって江戸湾に現れて、たった数隻で強大な幕府を震撼せしめた『黒船』という恐るべき存在が、先生の海外熱の直接的原因であったことは間違いないのだけれども。
そんな松陰先生が……黒船に密航しようとしたときもまともに交渉さえできなかった御仁が、なにを思って英吉利語通詞などに手を上げたのかは、たぶん行き先さえ定かでない幕府の密使船よりも、イギリス海軍の軍艦に乗り込むほうがより先生の目的と合致していたのだろうとしか思えない。
たぶん先生は、この交渉の成否などあまり気にしてもいなかったのだろう。ともかくイギリス人というのがどのような人間なのかを観察し、あわよくばイギリス本国まで連れてってもらえるよう根回ししたい……狙いはそんなところだろうと颯太はにらんでいる。
密航に密航を重ねるとか、その神経の太さには呆れるしかないのだけれども、目的のためにすでに命を張ってしまっている人間の『強さ』は颯太も知るところである。
「…いずれそれがしは亜米利加に渡るつもりやし、先生……ここでそれがしに協力してくれると言うのであれば、上への『口利き』したってもええよ」
その先生の耳元に、毒混じりの言葉の蜜を垂らす颯太。
密使船の乗員に選ばれるほど幕府内で『そちら向き』の人間と目されているこの奇妙な子供役人がほのめかす渡航話である。それを即座に戯言と排除しなかった松蔭先生は、見開いた眼でまじまじと颯太の視線を受け止めて、そして後ろにいる人間には分からない無言の笑みを口元に浮かべた。
「…英吉利語に堪能であることは『秘密』ということなのですね。…よいでしょう、わたしはいままでと同じように通詞の振りを続けていればよいのですな」
「…物分りがよくて助かります。先生はそれがしとあちらとのやり取りをよく観察して、それにあわせた『演技』をしといてください」
「…承った」
ここまでの会話は小声過ぎてほかにはほとんど届かなかっただろう。
ふたりはこそっと浮かべた笑みで約定の成立を確認すると、すっと本来の交渉相手であるイギリス人たちに向き合い、揃ってにかっと歯を見せて笑ったのだった。
「ソーリーソーリー」
軽く謝罪してから、颯太は居住まいを正した。
松陰先生との共闘体制が整った上は、ここからが交渉の本番となるだろう。
『…それでは、どれだけの身代金を要求するとおっしゃるのですか?』
艦長が発した言葉に対して、颯太はいったん「言葉が分からないてい」で松陰先生の方を見、こしょこしょと話し合った後に、
「われわれが要求するのは、こたびの任務が滞りなく終るまでの間の、身の安全です……欲しいのは金ではありません。…えっ、what I want is our safety.ですか」
わざとらしく通詞から『回答をもらった』小芝居で、颯太がいけしゃあしゃあと英語を発する。
その颯太の発音する英語がイギリス人たちにダイレクトな反応を及ぼしたことにも驚きであったのだが、その回答を松陰先生が『伝授』したと見えたことにもおおいに驚いたのだろう。護衛の後藤さんらは「さすが先生」と、日本を代表する有識人の示した高い知性に、おのれのことのように喜びをみなぎらせた。
同行の彼らもイギリス人たちとまともに話せていないことに鬱屈を覚えていたのだろう。
『…安全、ですか。…ならばご安心ください、この海域を担当するのは当艦のほかに2隻のみ、その僚艦もいまは南のほうに展開しておりますので、わがサプライズ号が見てみぬふりをすればまったく問題とはなりません』
「見逃していただけるのですか……Can you overlook?」
『もちろん、我が父祖の名に掛けて、お約束いたしましょう』
「ならばその方向でよろしくお願いいたします。…The way, please. ただ……それはあなた方の善性をわれわれが信じることができたときのみ成立するものであることをご理解ください……Please understand that is concluded only when we could believe your virtue.」
『…正論です。ではわれわれがあなた方に信用してもらうためには、どうすればよいのでしょうか』
「…そうですね」
颯太は思案するように彼らの背後に浮かんでいるフリゲートを見やり、ぶつぶつとひとりごちる。
いろいろとかっぱぎたいものはあるのだけれども、彼らとていまは本国から遠く離れた異郷にいるわけで、武器の類を要求してもなかなか簡単には応じてくれないだろう。
こちらが欲しいのはむろん先進武器であり、なかなかに相容れるものではない。ここで考えるべきなのは、イギリス人たちがどこまでの武器を『必要不可欠』と考えているのか……限界のラインの場所である。
「我が方としましては、今後こちらが再び襲われぬよう、あなた方の武器弾薬をすべて接収したいところなのですが…」
『…それはとうてい受け入れられない。我々にもまっとうせねばならない作戦行動がある。その要求は度が過ぎている』
「もちろんこれは我が方の都合だけで述べたもので、現実的でないのは理解しています。…しかしいまここで問われているのは、あなた方がいかにして我が方の『信頼』を勝ち得るかと言うことです」
『………』
「そちらの大切な捕虜の命もかかっていることをお忘れなきよう。たしかトバイア・コクラン候補生でありましたか。偉大な提督の御身内と言うだけで、いろいろと扱いが難しそうで心中お察しいたします」
『…提督をご存知なのか!?』
「かの『英雄提督』のお名前は伝え聞いております。…それで、貴殿の『信頼』を勝ち取るためのお覚悟はどのあたりまでおありなのでしょうか」
『………』
大砲は、もちろん不可。
海上戦闘における決戦兵器である大口径砲を、手放せるわけがない。
幕府船の今後の安全を図るためには、大砲を封印するのがもっとも安全な措置なのだけれども、大砲そのものをかっぱぐことは難しいだろう。ならば砲弾、もしくは火薬を分捕ったら?
火薬がなければ大砲は撃てないし、砲弾も同義である。どちらのいまの幕府にとってはそれなりに価値が高い品でもある。
しかしイギリス側の回答は『NO』。
大砲が使えなくなるのはやはり論外なのだろう。
ならばもうほとんど選択の余地はない。答えを言い渋るイギリス人たちをまっすぐに見つめて、颯太は口を開いたのだった。
「…ではいただきたいものがふたつあります。ひとつ目はあなた方が所持する銃をすべて。弾丸、所定量の火薬も込みで全量を引き渡してください」
『…!! それはあまりに!』
「あなた方の戦いは……昔はその限りではなかったでしょうが、いまでは性能の上がった大砲で相手を沈めることがほとんどのはずです。完全に不要とは言いませんが、銃は明らかに優先度が落ちるはずです」
『………』
「貴殿がお持ちだろう短銃と、そうですね、申し訳程度の銃は残しましょう。そちらの海兵は30人ほどのようなので、例のミニエー銃を30挺、相応の弾丸と火薬、弾込めに使う布切れも応分引渡し願います。残していいのは士官の所持する短銃だけです」
『…いまひとつの『条件』のほうは?』
「…なに、あとは紙切れがひとつ欲しいだけです。武器ではないのでご安心ください」
なぜか揉み手している7歳児の様子を見て、ジャック・ベイカー氏は小さく『oh my god』とぼやいたのだった。
しばらく忙しいので、更新は遅れるかもです。




