036 ホワイトエンサイン
海はどこまでも広い。
広いものなのだけれども、船の通り道というのは存外に限られている。
港と港を結ぶ最短経路、あるいは陸地をなぞりながら進む道、狭隘な海峡、難所避け……さまざまな理由から、海上には船の通り道、航路というものが生まれる。
船の行き交う航路上のすれ違いは常に起こりうる。
今回のそれも、偶然のニアミスであることを心のどこかでは期待していた。
(…でも、アレはそうじゃない)
交易船同士はお互いに海賊船と誤認されないように、視認しても闇雲に距離を詰めるようなことはしないものだという。現に船影を確認したのはここ数日でも2、3度あり、それらは水平線にちらりと見えるぐらいですぐに見えなくなることが多かった。
今度もそんな『同業者』であれば……颯太は淡い期待を振り捨てる。
鄭士成からは事前にこう言われていた。
「迷わずこっちに向かってまっすぐ近づいてくるようなら、そんな手合いはもう二種類しかない……こっちを獲物と見定めた海賊か……もしくはもっと質の悪いやつらのいずれかです」
そういうヤバいのを確認したら、即座に逃げを打つ。そのように事前の確認がとられていたし、見れば君沢型を曳航する鄭家の船のほうも風下の船足が早くなる方向へと舵を切り始めている。あ、旗が揚がった。
「『逃げる』だとよ!」
船頭が声を上げた。
それを合図に、水夫たちが一斉に動き出した。よく訓練されたいい動きだと見惚れてしまうほどに、一個の生き物のように彼らはそれぞれに求められた役割に取り掛かる。
「すくうなぁを守るぞ! しんがりに付けェ!」
君沢型を曳航させる代わりに、幕府船はその防衛のためにしんがりに位置付ける。ともかく迅速に守備態勢を整えねばならない。
「後藤殿ッ!」
あわただしく人が動き出した船上で、小栗様の指示が飛ぶ。
少な過ぎて気休めにしかならないとは思うのだけれども、後藤さん以下警護隊が船倉から取り出した火縄銃を担いで舷側に並び立つ。むろん刀を振り回すならばともかく、全員がそうやれと命ぜられたからやっているだけで火縄銃など触ったこともない。あくまで抗戦のポーズに過ぎない。
手空きの船大工らにはともかく弓を構えさせた。永持と石井が弓勢をまとめる役になっているものの、戦いごとはずぶの素人ばかりであるから、こちらも数並べるだけのはったりの世界である。
そんななか、高島流砲術を収めた中島がひとりだけ手早く発砲までの準備を済ませていく。火薬込めの小袋や突き棒など、こちらが用意したものではなく自前の物っぽい。
砲術など無用なのにと密かにのたまわっていたおのれを思い出して、恥ずかしさに歯を噛みしめる颯太。取扱い熟達者がたった一人いるだけで、ほんとうにかなり頼もしく見える。
その立って構えた筒先が、少しずつ近づいてきている船影に向けられる。その黒鉄の筒先に陽光がきらりと撥ねた。
(…いずれ暇な時間に、みなにちゃんと最低限の訓練はさせなかんな)
歯噛みしたところで時間は巻き戻らない。海を甘く見ていたツケがいま回って来ただけのことだった。
深呼吸をして、高ぶりそうになる気持ちを落ち着ける。
ダメだったときは、ただ死ぬだけ。とっくに腹をくくってしまっている七歳児はまだ中天に差し掛かったばかりの日輪に目を眇め、『最悪』を受け入れることで胸の鼓動が収まっていくのを待った。
(…しかし海賊のほうはほとんど心配ないはずじゃなかったのかよ、あのクソ商人……それとも『アレ』はそれ以外の『質の悪い』ほうのやつなのか)
颯太の中ではめまぐるしく色々なことが検討されていく。
もしも相手が海賊であるのならば、それはどういう性質の海賊なのか。
鄭士成は、こうも補足していたのだ。
「まあ海賊についてはほとんど心配することはないと《鄭家一門》の人間として申しておきましょう」
何気ない。それでいて自信に溢れる断言。
鄭成功を輩出したという鄭氏一族は、古くから交易を生業とし海に生きてきた者たちである……単純にそんなプロフィールを鵜呑みにして、初代が廃船寸前のボロ船から商売を始めました的な成功物語を想像していたのならピンとは来なかっただろう。
ものごとにはたいてい順序というものがあり、鄭氏はただ交易をしていたから発展したのではなく……古くからこの海域で一定以上の『安全』を確保しえた者たちであったからこそ、交易ができていたのだ、と捉えるほうが正しいのだと思う。
奴の一族自慢を信じるのならば、その歴史は二〇〇年以上前にさかのぼる。
その時代はまさしく倭寇の『最盛期』であり、明末清初にかけては王朝の混乱もあって、海上は法の手の届かぬ無法地帯だったろう。そんな海賊が猖獗を極めた時代に、彼の一族はへっちゃらで交易をしていたのだ。
ではどうやって? どんな秘密兵器で安全を確保したっていうのか?
話は簡単だ。
そもそも、鄭氏自体が海賊であったからだ。それも大清朝にさえ抗いえるほどだったのだから、おそるべき大海賊だったに違いない。海賊自身が、その持てるツール……『船』を有効活用するすべとして、交易という経済行為を覚えた……そう捉える方がおそらくは順序として正しい。
商売倫理をどこかに置き忘れてきたかのような胡散臭いこの男を、なにゆえシベリア総督ともあろう者がうかうか任用しようとしたのか……それはその『鄭氏』という看板が持つ特別な『効用』……『海賊に襲われない』という保険を見込んだのだと推測できる。
「海賊には襲われない」と口にできるだけの根拠を、鄭士成はたしかに持ち合わせていたのだ。
(…でもヤツの船もためらいなく『逃げ』に入った。近海に跋扈するこの時代の海賊は、ほとんど鄭氏一族の影響下にある……逃げ出さねばならない理由があるとするなら、そこからあの船が海賊でない、『もっと質の悪い』ほうのヤツなのだと仮定できる)
颯太は瞬きもせずその船影を見つめている。
遠目が利く物見役の水夫も、艫の縁に身を乗り出すように見続けている。
「…見慣れねえヤツです」
言いよどむような物見役の声。
そうしてわずかな間の後に、はっきりとした叫びが上がった。
「よ、洋船でさぁ! …はええ!」
明らかな優速。
無情なほどの船足を発揮してまたたくまに接近してきたその船は、300メートルほど離れた位置に舵を切りつつ並んだかと思うと、今度は停船の気配を見せないこちらの進路をさえぎるように切り込んできた。君沢型という大荷物を引っ張ってのこちらの鈍足も原因であったのだろうけれども、その洋船の動きはとてもスムーズで、素人目にも練達していた。
スピード違反者を押さえ込みにかかる白バイみたいだな、と颯太は思った。
間近で見て、颯太は相手の船のスペックをざっくりと読み取った。
(…しっかりと大砲で狙ってきてる……大きさはこっちと大差ないけど、帆の枚数が5倍くらいあるな。…たぶん単艦行動してるっぽいしフリゲートやろう。…片舷12門の単層24門、アメリカの重フリゲートが手に余り始めた旧式なタイプのやつだな)
おっさんのイギリス海軍小説好きがこういうときに役に立つ。
リアルに大砲を向けられるのはあまり気持ちのよいものではなかったけれども、まさか見るからに非武装な和船をいきなり撃沈しようなどとは思うまいとたかをくくる。
観念して船足を落としたこちらに念を押すように、するすると一枚の旗が掲げられた。
風にはためくその旗は、白地に赤十字、左上四分の一にユニオンジャック。
イギリス海軍の軍艦旗だった。
その甲板にはかなり大勢の海兵が銃をこちらに向けている。
これはまいった。明らかに武力では勝ち目がなかった。
「永持殿! 船頭に『幟』を上げるよう言ったって!」
単純な『武力』で立ち迎えられないのなら、ほかの方面から攻めてみる必要があるだろう。颯太は叫びつつ小栗様の姿を探して歩み寄っていく。
颯太と同じく相手の姿を観察していた小栗様が、袖を引かれて颯太の存在に気がついた。
「…やつら臨検しようとしてるんだと思う。小栗様、葵のご紋を上げさせました。…わが国と英吉利との間には、和親が取り結ばれて日が経ってはないので、御紋の威光で外交的観点からも無茶なことはできんくなると思います。それで小栗様には幕府の『やんごとない高官』を装ってもらって、のっけから居丈高にかまして欲しいんですが…」
「…出してもよかったのですか、『御紋』を?」
「このままでは最悪『接収』って言う形であのすくうなぁを奪われるかもしれません」
「……わかりました。腹をくくりましょう」
こちらが掲げた葵のご紋を見て、イギリス艦の船上で騒ぎが起こっている。こっちを見て指差す制服を着込んだ士官っぽいやつらが、おそらくは将校なのだろう。割と小型なフリゲートなので、あるいは士官候補生なのかもしれない。
「なにを聞かれても『知らぬ、言う必要はない』と繰り返してください。幕閣から『秘中の秘』を預けらた石頭な役人っていう感じで……それでもやつらが止まらず、こちらに乗り込んでくるような状況になったら、…そうなったら、あとはそれがしが受け持ちます」
「幕府の公船なのですが、まさかそのような狼藉を…」
「たしかあちらの国では、拿捕した船は海軍で買い取られて、その収入の一部が関係者の臨時俸給になりますから、隙を見せたらがっついてきますよたぶん」
「…ほんとに詳しいですね」
「………」
読んだイギリス海洋小説の某シリーズではそのように書かれていた。
私掠船ではないのだけれども、イギリス海軍でもその名残りのようなシステムは残っていて、この時代の劣悪な仕事環境に耐えている船員たちのモチベーションの源泉にもなっていたりする。ほとんど艦長の独り占めみたいな感じにそれは配分されるのだけれども、程度のいい軍船なんかを拿捕したとなれば、高く査定されて下っ端船員にも酒代以上の現金が当たるだろう。
未使用の君沢型など、やつらの目には垂涎の獲物に映っているに違いない。
颯太が真顔でスルーしていると、小栗様はわずかに吹き出したのちに、「まあいいでしょう」と言った。
「その場合は、陶林殿の知恵に期待いたしましょう」
さあ、戦いの始まりだ。
昔イギリス海洋小説にはまってたことがありました。
しばらく趣味に走ります。




