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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【露西亜編】
211/288

005 7歳児、妄想に浸る





明治期に有力な外貨獲得手段として浮上した陶磁器は、産業として爆発的な成長を遂げていくことになる。

颯太の中のおっさんも、その明治期の熱気に包まれた陶磁器産業の様子を資料を通して知り得ている。明治維新によって尾張藩支配のくびきから逃れた美濃焼は、職人ひとりひとりの手ロクロ生産から機械化を推し進め、明治20年には多治見地区(作中で言う多治見郷で現多治見市の一部)だけで年産1987万5322個の陶磁器を出荷するようになっている。(※『多治見風土記』参照)


西浦屋(5代目円治)も維新後のビッグウェーブに乗っており、明治29年には『多治見貿易合資会社』を設立、当初年額にして2万円(現在の物価基準で7000万~8000万円)ほどの売り上げで、すべてを神戸の貿易商人に販売していたのだが、明治32年には北米のボストンに支店を作って直輸出に乗り出し、一気に売り上げを8万円以上(現在の3億円以上)にまで膨らませている。

あまり知られていないことなのだけれども、明治期に目端の利く商人はこぞってアメリカ進出を果たしている。


(…一番乗りは絶対に譲らんし)


老中会合までの数日、颯太は寝ても覚めてもそのことばかりを考えていた。

期せずして千両という大金が手に入った。派閥領袖が破綻した金銭感覚に気付くことなく振り出したこの資金があれば、いろいろとやれることがある。

生産効率のいい新型の窯を作るのもいいし、強制鋳込み製法の研究を始めるのもいいだろう。

トイレのような大物を試作してみるのもいいな。それになんと言ってもタイルだ。前世ではすっかり廃れてしまった商品であるのだけれども、一時はすべての建築物がタイルを張ることを前提に建てられていた時代さえあった。外壁や風呂場、キッチンやトイレなど、水回り関係にことのほかよく使われたものだ。そんな時代さえ始まっていないこのときだからこそ、とても有力な商品となることだろう。

絵付けも銅版転写が実現できれば、大幅なコストダウンと生産性の向上が期待できる。


(肝は工程の集中化だ。技術的な部分を可能な限り簡素化して、大勢の職人によって流れ作業させる。家内制手工業の範疇ではあるんだけど、可能な限り分業化して個々人の作業を単純化する。そうして始めて現在の未発達な工業レベルで大量生産が可能になる)


日本国内に天然石膏を求めて鋳込み成型の型作りをしてみよう。

鋳込みとなれば粘土を溶かす必要もあるから、ケイ酸ソーダ(水ガラス)の手配も必須になるな。この時代に発見されているのだろうか。

窯の形態も大量生産を睨むのなら、量が増えるほどに手配が困難になる薪とは早めに決別せねばならない。明治期の生産数の伸張は尋常でないペースなので、恐るべき薪不足に見舞われる運命が判明しているのだ。それはもう、窯周辺の山がはげ山になってしまう勢いになる。

そうなってくると、コスト的に石炭窯一択になるだろう。もうすでにこのぐらいの時代になると、石炭の需要が生まれて鉱山の掘削が始まるのだ。海外列強が日本に開国を求めた理由のひとつにこの石炭の補給がある。和親条約には補給物資として石炭が明記されていることからも、九州あたりの鉱山で採取が始まっていることが類推できる。


(…石炭を焚くと排煙がすごいことになるんやけど……設置場所や煙突の高さで何とか配慮するしかないか)


よし、まずは石炭窯を作ろう。

そして工場と大きな倉庫も作ろう。工場にはロクロを何十も並べて、絵付け作業もそこで行わせる。

工程の簡略化の一環で、この際銅版絵付け技法を確立しよう。型紙絵付けよりもあっちのほうが量産性が高い。


(うふ、うふふふ…)


想像があまりに楽しすぎて、我知らず笑いがこみ上げてくる。


「…また気色の悪い笑い方が始まった」


そんな颯太を横で眺めている人間がいることも失念している。

庫之丞は、「我が家での逗留を」と誘ってしまったことを若干後悔していたりするのだが、まあそのあたりを颯太が知ることはなかった。


「昨晩は、お酒は飲んでませんよね?」

「子供が飲むわけないし」

「さっきから酔っ払いみたいに笑ってばかりですよ。家人にお客人は大丈夫なのかと何度も聞かれます」

「天領窯の未来が一気に開けようとしとるのに、これがうれしくならんわけがないじゃんか」

「…そのあたりのこと、聞いてもまったく教えては下さらぬし、それがしには分かりませぬ。ともかく、お茶はここに置いておきますので」

「サンキュー」

「…さん、きゅう? …はぁ、陶林殿の奇言にはもう馴れ申した。聞かないでおきます」


老中会合当日までの間、世話になることになった江戸本家。

茶も庫之丞自身が淹れたわけではないのだろう、わざわざ茶柱まで切ってある。冬晴れの縁側で『構想』という名の妄想に浸っていた颯太は、阿部様に報告を終えた昨日のことをぼんやりと思い返した。

まさか本家のお世話になるとは、昨日までは想像さえしていなかった。

奥へと引っ込んでいく庫之丞の背中を見送って、颯太は温かい茶をすすったのだった。



***



時間は一日遡り、福山藩中屋敷での報告会が終ったあとのこと。

福山藩邸を辞して、日没近い空を見上げて誰とはなく「お疲れでした」と声を掛け合う長崎帰りの一団であったのだが……「打ち上げをするか」と永井様がいい、後藤さんと庫之丞、永井様のお付きたちがわぁっと沸いた後は、もう冬のごちそう、熱々鍋料理のある小料理屋へ一直線と相成ったのだった。

永井様が懇意にしているという軍鶏鍋の店で、鉄鍋でぐつぐつと煮えた鳥肉を見たときには、全員のテンションがおかしなことになった。

後はもう、食う、飲む、笑うの繰り返し。大人組は酒が入って仲居さんが困惑するほどに盛り上がったものだった。颯太は颯太でこちらも軍鶏鍋に夢中になっており。ノンアルコールのままナチュラルハイを達成して、羽目を外した大人たちの会話にぐいぐいと入っていく。酒の席の他愛もない男どもの天下国家の壮言は、まあご愛嬌のようなもの。

とろっとろの鳥肉が分かりやすい醤油みりんの汁と絡み合い、たいへんおいしゅうございました。この時代でまさか肉料理を食べられるとは思ってもみませんでした。

そうして夜五つ(20時ぐらい)で宴が果てて、そのまま2次会とばかりに永井様の屋敷へと誘われたところで、ノリの悪い男がひとり「今日は実家に帰りたいので」と言い出した。その男とは、酒が強いのか、まだほろ酔いという感じの庫之丞である。

そうして「またいずれ機会があれば」と彼を残して颯太もまた永井様についていこうとしたのだけれども……なぜか庫之丞くんに襟首を掴まれて身動きが取れなくなりました。


「我が家は、あなたにとっても『実家』のはずなんですが」


そういえばそんな『設定』だったなと他人事のように感想を思い浮かべた颯太であったが、庫之丞くんの『お誘い』はもう決定事項のようであった。


「…えー、四谷新屋敷、こっから遠いじゃんか」

「お願いします。後生ですから、うちに一緒に行っていただけますか」


願い倒されてしかたなしに永井様にご無礼することを伝え、庫之丞の実家、江戸本家へと向うこととなった……その成り行きの始まりである。




四谷新屋敷にある江吉良林家……颯太にとっては養子縁組された本家である……の拝領屋敷は、大身旗本ならではというか、後世の資料にはその敷地549坪、と記録されているなかなかに広壮な邸宅だった。市街地の只中に、田んぼ2枚分くらいの土地をいただいているということになる。

当然ながら2000石の大身ともなると、門番も常番をしているようで、通用門を叩くと、覗き窓が開いて、中からじろりと睨みつけられた。

そこで顔を見せるように近付いた庫之丞に、束の間疑わしそうに目をすがめていたが、ようやくそれが逐電した御曹司だと知れると後はもう大変だった。


「若様が戻られた!」


それからの騒動はまあ予想はしていたのだけれども。

ひとりで言い訳するよりは、分家であり当事者の一人である草太を巻き込んだほうがいろいろとクッションになってもらえる。そんな庫之丞の自己保身計画と分かっていて付いてきていたので、颯太は居住まいを正して第三者的な距離感で並んで歩く。

出迎える中間らしきお年寄りや女中らに頷きつつ、硬い表情で入口を見ていた庫之丞が、半歩たたらを踏んだ。

見れば前に会った当主の内膳様と、その奥方らしき頬骨の高い女性が並んで立っていた。


「…父上、母上」

「庫之丞…」


母親の方はいまにも泣きそうな感じに涙ぐんでいるのだが、父親の意向を慮って身動きが取れない様子である。そして父親の内膳様はというと…。

いまにも感情が爆発しそうな雰囲気で、顔を真っ赤にしてわなないている。

ゆっくりと半歩踏み出して、そのまま教育的指導のゲンコツが飛んできそうな体勢になったところで、庫之丞のこずるい目配せに誘導されてようやくその横に立つ颯太に気づいたようだった。


「途中で送った手紙でだいたいのことはお伝えしてありますが、オレは……陶林殿に付き従って旅したことを、間違いではなかったと信じています。今まで想像もできなかったいろいろな物事を見て聞いて、大旗本の跡継ぎよと安閑としていた愚かな自分から生まれ変わることが出来たと思っています」


そこまで言って、庫之丞は足を払って草履を脱ぐと、膝を地に付いて深々と頭を下げた。ほとんど土下座である。


「旅立ちに際して一言も相談しなかったこと、大切な刀を質草に路銀を作ったこと、そして課されていた文武の手習いを放り出して、ひと月以上無断で家を空けたことについては弁解の余地もありません。それらに対しての仕置きは謹んで受け入れます。…ですがその前に、オレが……わたしが見聞して来たいろいろを、この庫之丞の血肉となった体験を聞いてください。お願い申し上げます!」


土下座という、万人にとてもよく伝わりやすいパフォーマンスで始まった、家出青年の『保身プロジェクト』。

江戸林本家の、騒がしい夜の始まりであった。


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