表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
205/288

024 観光丸






どうにか引継ぎの形を整えた颯太は、阿蘭陀商館で行われた条約交渉の経緯をまとめた書状を懐に、江戸への帰路に着いた。

書状を渡しながら、


「わたしも同行したいのは山々なのです。此度の阿蘭陀との新条約の申し合わせ、その内容に幕閣がどのような反応をするのか、本心であればこの目で直接見てみたかった」


奉行の川村様が、座る膝の上で拳を握り締めていたのが記憶に残る。

商館長ドンケルクルシュース氏とのやり取りで、いままで見えていなかった世界情勢が一端なりとも垣間見えたのに違いない。江戸で幕府を震撼させたアメリカ黒船艦隊はもとより、フランス、ロシア、そしてオランダなどの南蛮列国が、川村様の中でただの知識から生々しい存在に変化したわけである。それはこの時代の未通女(おぼこ)のような幕府官僚の、貴重なブレイクスルーの一例であったろう。

ただ最初の国交のあり方を定義するだけの『和親条約』と、国際情勢を睨んだ国家間の国防的条約……『安全保障条約』の差が歴然であることはもとより……交渉如何でいくらでも実利が変化する外交折衝の融通無碍さ、交わす言葉と積み重ねた約束が国益へとダイレクトに跳ね返る空恐ろしさを、川村様は経験で理解できるようになった。人間、物がよく見えるようになると好奇心を刺激するものが一気に増えるものである。おのれのまとめた書状が江戸の雲上人たちにどれほどの衝撃を与えることになるのか、自身の目で見たくて仕方がないのだろう。

が、長崎奉行は2交代制が定められるほど重要な職であり、長崎の地をそう勝手に空けることなど許されない上に、颯太が起こしてしまった新地での阿片摘発騒ぎでさらに身動きが取れなくなってしまったのだ。

結局、颯太の江戸帰還に同行することになったのは伝習所総監理である永井様となったわけだが……こちらも新地の阿片騒ぎから無縁ではいられないようで、清国人船乗りの間に阿片禍が広がっている経緯から、伝習生らへの薬物汚染の有無を確認する必要が生じて、出発が2日ほど延びてしまうこととなる。




「清国人と特に接点のないあれらに阿片が広がるとは考えづらいかったが、幕閣に問われたときに口ごもるわけにはいかぬしな。…まあ遅れた分は、こいつでチャラにしてくれ」


海風に鬢の毛をなぶらせながら、永井様は舷側の手すりを叩いてみせる。

長崎を出て半日、永井様と颯太一行はいま船上にある。

なんと彼らが乗船するのは観光丸。阿蘭陀商館も今回の話し合いに大きく期待をしているようで、その全面協力のもと小倉近くの北前船泊地までの北九州半周の運航をベルス・ライケン大尉を艦長に阿蘭陀人教師らが請け負ってくれたのだ。

むろん乗船できる限りの伝習生らも同行している。


「あれらにもよい機会だろう。経験を積んだ阿蘭陀人が運行するなら難破する心配もなかろうし、実際の航海をその目で見るのが10倍の座学に勝るだろうからな」

「…まあ、ここから見える場所でやいやいと騒いでいる思慮の足らない手合いは、すっかり旅行気分でそれどころじゃなさそうやけどね」

「この玄界灘の勇壮な景色に見とれている間にも、暗くて暑苦しい機関室では値千金の蒸気機関技師の貴重な生の仕事が御披露目されてるっつうのにな。まあ察しの悪い凡人ってのは、そうやって人生を損していくもんだろ」

「艦長の指揮が船員たちにどうやって伝わっていくのか、掌帆の手順はどうなのか……舵取りもそうだし、水深計測も重要やし。甲板だって見どころは多いってのに、その貴重なもんを放り出してぽかんとしとるようじゃ、いろいろとダメでしょ。永井様は総監理なんやから、少しぐらいは注意して回ったほうがいいんじゃないですかね」

「…ここで親切に馬鹿どもの尻を叩いてもつまらんだろ。あえて何も言わず、航海から帰ったあとに伝習生の半分が『ついた差』に愕然とするまでが筋書きってもんよ」

「…競争を煽るってわけやね。人が悪い」

「みな国許に対して体面があるからな。その『差』を取り戻すための努力に心血を注ぐことになるだろうな。ただでさえ貴重な洋船の航海術を学ぶ機会を、幕府が大枚をはたいて用意したってのに、その『貴重さ』がいまいち分からん愚図が多い。…こういうのは『刺激を与える』というんだ」


長崎海軍伝習所は、生徒の個々の生活まで面倒を見ているわけではないのだけれども、その伝習所のハード……最新の蒸気船の準備や有能な事務官の配置など、幕府も相当に出費を強いられている。

国費によるそうした運営は、ともすると『得られて当たり前』なサービスと取られやすく、もともとあまり蒙の啓かれていない封建社会どっぷりの田舎の藩士などは特に、学習態度に難のある生徒が多い。むろん彼らとて勉学に怠惰であるわけではないのだが……同じ学習でも目的意識の有無で個人差が生まれるように、蒸気船航海術という新しい世界技術がおのれたちになにをもたらすのか、そのあたりをあまり理解できてない手合いはてきめんに学習効率が落ちてしまったりする。幕府にとって、そういう生徒を抱えるのははっきりと金の無駄だった。

永井様のいたずらっぽい笑みの裏には、老獪な官僚ならではの腹黒さがある。


「まあそれよりも、オレたちのなすべきことについて、いろいろと考えておこうじゃないか。阿蘭陀と組んでメリケンを追い払うってのは分かっちゃいるが、そのなんだ、やつらに潜んでもらう『湾内』ってのは、浦賀奉行のあの辺りのこったろ? 江戸の内庭みたいなところの港を阿蘭陀に貸すなんてのは、さすがに説得するにも無理があると思うんだが」

「えっと、ここで話すんですか? 艦長室でも借りたほうが…」

「このつええ海風でほかにゃぁ聞こえねえよ。それにこんな途方もねえ話を、せまっ苦しい部屋ん中でする気にはなれねえしな。…海を眺めながらやったほうがしっくりくる気がするんだ」

「…まあ、なんとなく分かりますけど」


観光丸は、玄界灘の沖合いを、しっかりした足取りで帆走している。若干風が強すぎて、帆の張り方が小さくなっているぐらいである。


「浦賀近辺を開港するってのは、さすがに難しいと思うんだが、どうやって上を説き伏せるつもりなんだ」

「難しく考えすぎなんじゃないですか」


颯太の割合に軽い返しに、永井様がやや半眼になる。

阿蘭陀相手に大風呂敷を広げてしまった手前、幕府の代表としてその約束を履行することにずいぶんと責任を感じてしまっているのだろう。

やはりこういう条件闘争的な駆け引きは、武士には肌に合わないのかもしれない。口に出したからと言って、是が非でも実現せねばならない……そんなことはないのだけれども。


「メリケンが次にやってきたときのみ、と限定すれば、上も納得しやすいんじゃないですか? 黒船艦隊の背中を脅かすには必要なことなんやし。…阿蘭陀への開港の約束? 無理に決まってんじゃないですか」

「おい、おまえなぁ」

「ちょっ、ものは言いようってことで! ゲンコツは無しで」

「あちらは幕府と約束したつもりになってるんだぞ。それをそんな簡単に…」

「下の人間が取りまとめた話が、上のほうでひっくり返るなんてのはよくある話じゃないですか。いいんですいいんです、こういうときに責任取るのが上の方たちの仕事なんですから」

「…あのなあ、『上』は伊勢様みたいな物分りのいい方ばかりではないのだぞ」

「浦賀は作戦期間の一時のみ、それ以後の開港地は下田か大島か、江戸への距離を考えたら鎌倉の辺りとか、そのあたりを打診してはいかがですか。現状の長崎一箇所から見たら、それだけであちらにとっては大きな一歩になるはずですし」

「…最初っからそういうつもりだったんだな」

「当ったり前じゃないですか。阿蘭陀はいままで江戸に登城するにもすべて陸路だったみたいやし、大島あたりまで船でこれるとなっただけで、大喜びしそうですけど」

「…悶々と悩んでいたてめえが馬鹿馬鹿しく思えてくるが……まあ、基本はそういう流れでいくとして…」

「そういうことで、がんばってくださいね。応援してます」

「…って、おい! おまえが話すんだぞ!」

「えっ、だって……報告の重大性を考えれば、幕閣にも報告しなきゃならないし、それだとぼくの貫目が足らないから永井様が同行するって流れですよね? …もともと阿蘭陀との交渉だって永井様のほうが主なんやし、やっぱり筋目的にはそうなるんじゃないですか。自分なんてしょせん支配勘定並程度、幕閣と直接口を利くなんておこがましすぎますよ」

「…この、ていよくオレを風除けにするつもりだな? いっとくが、オレがやるのはその場の地ならしだけだかなら! 絶対におまえも同席させるし、口をつぐもうとしてもオレがこの手でよく回る八寸舌を引きずり出さす!」

「7歳(数え)の子供になに期待して……いひゃひゃひゃ」

「…対幕閣の塩梅は、伊勢様にご報告したときにしっかりと『役割』を決めようか。…逃げられるなどと努々思うなよ?」


目尻をひくひくさせながら牽制し合うふたりのやり取りを、庫之丞と後藤さん、そして永井様のお側用人が壁となって周囲の耳目から守っている。むろん背を向けてはいても、彼らが話の内容に聞き耳を立てているのは明白であった。

ちんまい子供役人に上級幕臣たる伝習所総監理、永井玄蕃頭がすっかりペースを握られているさまは、どうやっても彼らを苦笑させるしかなかった。




颯太一行と永井様は、小倉の沖合いで出発したばかりらしい北前船を捕まえて乗り移り、出港待ちのタイムラグさえ惜しむように東進した。

先日、日程を読み違えた颯太一行が長崎行きの船便を捕まえられずに右往左往したのがうそのように、北前船の船頭は協力的だった。まあ巨大な軍船に追いすがられ、停船命令されたら一気にしびれるわなあと思うけど。

移乗後もそれはもう下にも置かない歓待振りで……あの時小船の上からお願いしまくったのに無視された当人としては、正直引っかかりまくりではある。

そうして颯太たちを降ろした観光丸は、帆を張り進み始める北前船を見送ってから、ゆっくりと舵を切って引き返していく。観光丸は蒸気船としては比較的小型のものであったが、いわゆる千石船である北前船と比べれば倍以上大きい。

イギリス海軍の等級で言うと、5級、6級のフリゲート艦よりも小型の船種であるコルベット艦の観光丸ですら、和船の倍以上の大きさである。たしか浦賀にやってきた黒船艦隊の旗艦は正規のフリゲート艦であったから、さらにその1.5倍くらい大きいことになる。

こうして並び見る機会に恵まれると、『現行世界標準』と和船の技術格差はまだいかんともし難いレベルだと分かる。いまおのれの足元にある、波にぶつかるたびに大きく揺れるその船体の小ささこそがまず第一等の明白な『差』であったろう。船体の形状と大きさ、なにより搭載蒸気機関の重量のためか、観光丸の乗り心地はかなり良かったのだ。

西欧列国との差を噛み締めながら、颯太は観光丸の雄姿をいつまでも見送っていたのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
永井様と颯太の伝習生の学びの話は怖い話として披露したら震え上がる人が大勢でそうですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ