016 伝習所の風景
西役所の表玄関へと上る石段に案内のお役人が足をかけると、立ち番をしていた男がそれに気付いて通用口から中へと声を掛けた。
「江戸の御目付殿ですな」と、門扉を開けようとしたので颯太は慌てて分不相応と謝絶した。この時代の屋敷の門というのは、武家社会の上下関係を周囲に示すための装置の一つであり、屋敷の主を基準として、同格かそれ以上の者にのみ開かれるものだった。身分の低い者は脇の通用口を使って出入りする。
どうやら変な噂が広がっているらしく、出島に重要な用で出向いた長崎奉行と伝習所総監理が『御目付殿』と肩を並べて帰ってきたところを見ていた者がいたらしい。
長崎の役人のツートップと肩を並べて歩く、というのはやはりそれだけで人の憶測を呼ぶものであったらしい。
出島でどのような話し合いがもたれたのかまでは分からないのだけれども、西役所に戻ってもどこか気ぜわしげな総監理の永井の姿や、昼頃からひそひそと気忙しい会話を交わすようになった阿蘭陀人教師たちの不穏な様子から、江戸からやってきたちんまい御目付殿が幕閣印の『鶴の一声』を発してひと波乱あったのではないかと……近頃の怪しい雲行きに神経を尖らせていた西役所のお役人たちは深読みしていたっぽい。
とりあえず分不相応な正門から入る羽目にならずに済んでほっとするのも束の間、颯太はそこで思いもかけぬ旧知の人とばったり出くわした。
「おおっ、いつここへこられるのかと気を揉んでおりましたぞ、林様……っと、いまはご家名を改められられたのでございましたな。お元気そうで、陶林様」
「あなたは…」
もうあれから何年も経ったように思えてならないのだけれども、まだ一年も経っていない……颯太の人生が大きく回天することとなる露西亜全権プチャーチンとの奇跡的な邂逅があったあのとき、この人物もまたあの場所に居合わせていた。
「たしか……本木、どの」
「本木昌造です。お久しゅう、と申し上げたらよいのでしょうか」
プチャーチンとの会談のときに、通詞をしていた男であった。
目の強い光は相変わらず、本木昌造は有能な通詞の一人として、蘭語で行われる伝習所の授業に参加していたのである。
午後の授業を終えていままさに帰宅しようと通用口を潜るところであったらしい。見れば西役所の本棟とは別の棟から、伝習生と思しき若者たちがやいやいと騒ぎながら吐き出されてくる。時代は変われど、放課後というのはどこも同じようなもので、独特のぬるま湯のような空気感がただよっている。
通用口にたたずむ大人の腰ぐらいの背丈しかない颯太の紋付袴姿が奇異に見えたのだろう、無遠慮な視線が方々から集まってくる。
「…あれから陶林様のご意見を参考に鋳造印の作成を進めておりまして……いちどその出来栄えなど見ていただきたいとお会いできる機会をうかがっておったのです。お忙しいのは重々承知しておりまするが、今日か明日にでも、ほんのいっときでもお時間をいただければ…」
暑苦しい強引さはあの時とまったく変わってはいない。
そういえばこの男、金属活字の印刷機を買い込んで、蘭書の複製をもくろんでいたんだっけか。磁器土で雌型を作ってみてはと提案した覚えがある。もしかしたらあのときのテキトーな提案をきっかけに国産印刷機史に歴史的なブレークスルーを実現したのかもしれない。
「最初は生の粘土など試して気泡の発生に難儀しましたが、素焼きすれば鉛の高温にも耐えるのが分かりました。あとは粘土の収縮の割合を掴むのと、文字の種類と数を充実させていけば何とかなりそうで……それでためし刷りしたものを是非お見せしたく」
「えっ、もうそんなレベルなの」
レベルとか英語を思わず口にしてしまって首を傾げられたが、驚きのほうが先に立って自然とスルーする格好になった。
本木昌造という人物を彼の歴史知識がフォローし得ていないために正確な評価が難しいのだけれども、西洋よりも圧倒的に字数が多い日本語で活版印刷を実現するのは相当に難易度が高い。
そのまま熱に浮かされたような印刷談義に花が咲きそうな気配であったが、そこに座学の教師と思しき異人が近付いてきて、いきなり恭しく挨拶されたことで会話が途切れた。
彼らも出島に帰るところだったのだろう、ふたりのオランダ人が帽子をとって挨拶するのを、それぞれの専属を自認しているのだろう同じくふたりの通詞が頼んでもいないのに和訳してくれる。
「お初にお目にかかり、光栄に存じます。…ファン・デン・ブルーク先生がそう仰っておられます」
手を差し出されて、よく分からないまま握手を交わす。
「幕府との、新しい条約の件で、昼間から、興奮しております」
「新しい時代が、両国の間に始まりますことを……とお言葉をかけられておいでです」
次々に握手を求められる。
どうやら今日の午前に行われた出島商館でのやり取りがオランダ人たちの間に伝わっているのだろう。出島の絶対君主である商館長、ドンケルクルシュース氏と丁々発止やり合ったお子様役人は、今日付けでオランダ国の要注意人物に赤丸急上昇中であるらしい。
幕府の重要人物と目される颯太が何の用もなくここにくるわけがないので、彼らは一礼してさっと道を空ける。ファン・デン・ブルークと名乗った丸っこい男は、にこにこといつまでも手を振っている。
おそらくはこのオランダ人教師たちも歴史上で重要な役どころを持っているのだろう。彼らの名にピンとこないおのれの知識の足りなさがどうにももどかしい。
「陶林様もすっかりと有名人ですな」
感心したような本木のつぶやきに小さくため息をつくと、「今日は所用がありまして」と、本木の誘いをさりげなく流すように言った。歴史を早回しするような印刷機の誕生に興味はあるものの、そうゆっくりもしていられない現況で彼の誘いに乗ることはほぼ無理なのである。
「そうだ、それがしが案内いたしましょう!」
この一度掴んだコネを是が非でも手放したくないという太いバイタリティこそが、この男を幕末の激流の中で輝かせていくことになるのかもしれない。
颯太たちの先に立って案内を始めた本木に、立山役所からついてきているお役人様が少しいやな顔をしたけれども、そういうところには相当に鈍感らしい本木はまったく気付かない。颯太も西役所本棟の同僚たちならばいざ知らず、伝習所の異空間にはあまり明るくなさそうなお役人様よりも、そこで通詞として働いている本木の案内のほうが効率がいいと割り切ってそのままにした。
伝習生たちの視線を集めながら颯太が案内されたのは、役所の本棟から離れた別棟であった。伝習所の授業が行われているのはこの棟の大広間なのだという。
障子の開け放たれた大広間は外からでも丸見えになっている。
いくつも並んだ文机。
三々五々と手荷物をまとめるものもいれば、広間の上手にいるオランダ人教師の一人を囲んで質問攻めにしているものもいる。
「あちらの教師は、算術を教えられるデヨング先生です」
痩せた丸眼鏡のオランダ人がデヨングという教師らしい。その周りに群がっているのは、その授業についていけていない生徒たちなのだろう。
颯太の目はやはり探してしまう。
(あっ、いた)
勝麟は士官候補生となる幕臣のなかでも彼らをまとめる『生徒監』を命じられている。教師に粘着している生徒たちが粗相をせぬよう、デヨングのそばに膝をついた格好で備えている。
「先生」
本木の呼びかけにデヨングが顔を上げ、助かったとばかりに立ち上がった。
生徒たちの発する質問がいくつか颯太にも聞こえていたのだけれども、こと『算術』に関して現代知識チートが発動する余地は限りなく少ない。
江戸時代の数学知識は、大学入試程度の教養では言葉に詰まることが多いほど進んでいる。高等数理とかいう単語が飛び交っているところにうかうかと飛び込むほど颯太も馬鹿ではない。彼のチートはそうした計算能力にあるのではなく、その上積みの中で形成される『成果』を知っているところにある。
おそらくは微積分的な計算について質問攻めにされていたようであるが、デヨング先生の不運は、計数の素養がない奴は徹底的にないという玉石混交の伝習生にともかく教えねばならなかったことであり、さらには生徒たちがおのれの主君に恥をかかせぬよう必死すぎることであっただろう。
「お客人が参られております」
「Oh, doe je daar Mr. Ometsuke!」
名詞的に「オメツケ」と聞こえてきたので、この人も商館での出来事を伝聞しているのだろう。
生徒たちの間を割って濡れ縁へと出てきたデヨングが、颯太の手を捕まえて何度もシェイクハンドする。
「…それでわたしに何の御用ですか、と先生はおっしゃられております」
「ああ、いえ、見学させていただいていただけで、御用などと大それたことは何も」
デヨングは少し残念そうであったのだけれども、質問攻めから逃れるきっかけになったことだけでも助かったらしく、それ以上気にすることもなく荷物をまとめると、会釈を残して先に帰った同僚たちの後を追いかけていった。
「これは陶林様」
勝麟と目が合った。
そうして騒いでいた伝習生たちが幕府の『要人』に気付いて、その場で一斉に平伏する。幕府の権威とはいえちょっと敬意を払いすぎじゃないかと思ったのだけれども、どうも出島の王たる商館長ドンケルクルシュースをやり込めたという噂を彼らも耳にしていたらしい。
まずはここの管理者である永井様に面通ししてからと思っていたのだけれども、ここに居合わせた生徒たちを逃がしたくないので一言釘を刺しておくことにした。
「どなたか、海外視察とかに興味ありませんか」
きょとんとする彼らに、颯太はにっこりと笑みを造った。




