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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【長崎編】
197/288

015 長崎海軍伝習所

遅れました。





「…それで、露西亜国とのやり取りは首尾よく行ったのですか」

「なにをして『首尾よく』と言っていいのかはよく分かりませんけど……まあ話は進んだんじゃないかと思います」

「…また喉元がモヤっとする言い回しを……おまえさまが平然とした顔でとんでもないことをやらかす奴なのはいやというほど味わいました。先方でまたとんでもないことでもやらかしてきたのではないのですか」

「…はは、自分が少々『やらかす』のはいまに始まったことじゃないですし、伊勢様もきっとその辺は織り込んでおられると思いますよ。お奉行様、そんな細かいことを気にしすぎるとそのうちハゲますよ」

「………」

「ちょっ、お奉行様、痛い痛いッ!」


いわゆるグリコという拳骨ぐりぐりに足をばたばたさせて抵抗する颯太。グリコで足が浮くとか本気すぎる。

還暦らしい川村様の年齢を考えれば、生え際が多少後退気味なのは仕方のないことなのだけれども。『ハゲ』ネタは川村様にはタブーなのかもしれん。この時代の月代(さかやき)という習わしは、頭髪の寂しい男性への思いやりを含んだ優しい文化であった。


「…まだ充分に髷は結えます」

「他愛のない冗談じゃないですか。そんな本気で怒らなくても……ああいえ、その…失言でした」


しかしまあずいぶんと砕けた付き合いになったものである。会ってわずか数日であるというのに、厳しい戦いをともに潜り抜けてきた戦友的な気の置けなさが長崎奉行川村様との間には出来つつある。

唐人屋敷から戻った颯太は、組織人の常識として上司への報告を行っているところである。

帰る早々、玄関の框に腰を下ろして虎視眈々と待ち構えていた川村様の姿を見たときにはぎょっとしたのだけれども。どうやら急ぎ足での大任で駆け回る颯太のことを心配してくれていたらしい。

そのとき川村様が新聞のように広げて読んでいたのは、幕閣へと提出する条約がらみの奏上書の下書きであったらしい。それを折りたたんで懐にしまうなり、颯太は襟首を掴まれて川村様の執務室である書院に連れて行かれ、冒頭の会話へと繋がる。


「…彼の国との連絡役をする人を出せ、と」

「自分が長崎にとどまるわけにはいきませんし、こちらでの連絡役をお任せできるのはこの奉行所だけ、人手不足とかいわれそうですけど選択の余地はないのでその辺ご協力お願いいたします。それで相談なのですが……明日にでももう一度出向いて、先方の胸倉を掴んで振り回してやろうかと思ってるんですけど、ついでにお役の引継ぎ方々その候補の方を連れて行こうかと…」

「…大切な列国との話し合いなのでしょう? 胸倉掴むのですか」

「代理人が少々舐めくさった輩でして」

「………」


小天狗の問題発言に、こんなことならばそちらも同行すればよかったと嘆く川村様であったけれども、長崎奉行というその肩書きはいまの段階ではあまりに大げさに過ぎるのでしょせんはたらればの話でしかない。

そもそも長崎奉行所自体が先の日蘭条約がらみの書状の清書作業で大忙しで、奉行である川村様が抜けられるような状況でもなかったりする。


「その唐人屋敷の露西亜国代理人との連絡役、今後も続くというのであれば、専任の常役を決めておいたほうがよいですね…」


何人かのそれらしい部下の姿を思い起こすように、川村様の天井を見上げる目はすでに人選を始めている。はたしてこの奉行所に、異国人の胸倉を掴んで揺すれる豪の者がいるのだろうか。


「いずれ長崎にまでスクーナーを回航して来た折には、露西亜国スイビーリ提督がいるニコラエフスク港まで武官を同乗させる予定です。…できうるなら縦も横もふた周りは大きいこわもての紅毛人に怖気づかない胆力と、言葉が通じなくても身振り手振りで何とかさせてしまいそうな機転を持ち合わせている方が推奨なんですけど」

「…そんな都合のよい者が早々いるわけがないでしょう」


遠慮の『え』の字もない超絶ハードルを持ち出されて、これには川村様も苦笑するしかない。頭痛をこらえるようにこめかみを押さえつつ、頭の中の算段がぶつぶつと口をついた。


「目端の利くのと腕っ節の強いのをふたり組ませましょうか……いやいや、ただでさえ人の手が足らぬ奉行所の人数を右から左にするわけにもいきませんね。そのニコラエなんたらの港にまで行く同乗武官は、伊勢様にお頼みして船と一緒に江戸から連れてくるかしてもらいましょうか…」


そこまで口にしてから、急に川村様が晴れやかな顔でぽんと手を打った。


「…おお、そうだ、そんな船での大航海を大喜びでやりたがりそうなやつらが近くにいるではないですか! ふふふ、われながら良い思いつきです」

「川村様?」

「うってつけの人材があの掃き溜めのような場所に群がっているではありませんか。…伝習所の悪太郎どもから適当なのを選びましょう! あやつらはあれでも武士の端くれであるのに違いはありません」


ちょ、なにそのドヤ顔は。

幕府組織の中でも本筋ド本命のエリート長崎奉行から見れば、才気煥発なだけでそれ以上のものではない冷や飯食いの若造たちに過ぎないのだろうけれども、歴史好きである颯太にしてみれば後の明治維新に影響与えまくりの恐るべき偉人集団である長崎海軍伝習所一期生たちである。

えっ、あの人たちが絡むの?

彼らにおのれが直接絡むことなどないとたかをくくっていた颯太は、普段の面の皮の厚さにひびが生じてつい真顔になってしまっている。


「いろいろと要望があるようならおまえさまがその目でしかと選んでくればよいでしょう。なに、選りすぐられた俊英とか総監理殿(永井)が自慢しますが、どうせ貧乏旗本か実家も継げぬ次男三男の無駄飯ぐ喰らいどもです、長崎奉行所付きの常役と聞けば仕官の取っ掛かりと群がり寄って来るでしょう。選び放題ですよ」

「ちょっ、えっ?」

「この時間なら悪太郎どもも伝習所に雁首並べておる頃でしょう。奉行所には浮いた人材などおらぬし、そも見たことも聞いたこともない海の向うに、喜んでいくような型破りな人間などいません。南蛮人に大喜びで教えを請う彼らのような、神経の太いのがまさに適任」


まあそれが真理ではあるのだろう。

颯太の知る明治維新も、ほとんどの偉人たちはただ無鉄砲で不満家で脳筋であったような気がする。冷静に考えれば、異人との体当たり的な付き合いには彼らこそが適任なのは間違いなかった。

しかし理屈はそうであっても、簡単に割り切れないのが後世の歴史を知る転生者の難しいところである。

歴史という壮大な織物の重要な横糸を故意に抜いてしまったら模様が台無しになってしまうように、明治維新という革命のシナリオに改変を加えるのは相当にためらわれた。日蘭和親条約をチート知識で吹き飛ばした奴がいまさらではあるのだけれども。

少し機転が利いて、胆力のある人間なら、例えば蘭学者とか民間人から登用したっていいと思うし…。


「なにを小声でぶつぶつ言っているのですか。聞こえませんが」

「………」


…そんなすぐに幕府の信任が得られる適当な民間人など見つかるわけもないことは、彼も分かっている。歴史の整合性がどうとか、そんなこと言ってられないくらいに好き勝手くちゃくちゃにしてきているのはほかでもないおのれ自身なのだ。

日露秘密交渉? そんなトンデモヒストリー仕込んでる時点で、整合性だとかそんな生易しいレベルはすでに突破してしまっている。

ああーっ、もう!

腹くくれや、自分!

もうとっくに毒を食ってしまっているのだから、皿まで食い尽くせばいいんだってば! 伝習所一期生? 明治維新の異人の卵? いいじゃん、見事使い倒してやろうじゃないか。


「…いまなにを飲みました」

「…必殺常備薬の半魂丹ですけどなにか?」

「………」


薬の苦さに、少し安心する自分が怖いのだけれども。



***



長崎海軍伝習所…。

改めて説明するまでもなく、それは歴史上に輝かしい名を刻む超有名組織なのですが、例えばこのように問われて答えられる人がどれほどいるのだろうか。


『長崎海軍伝習所』って、実際どんな建物だったの?


ちょっと思い浮かべてください。

そして生半可知識の持ち主ならば、なんとなくお役所チックな棟門を構えた立派な新築物件を想像するのではないでしょうか。蒸気船にお金をジャブジャブ遣う幕府ですから、さぞや立派な建物でも作ったのではないかと。

むろんのこと、颯太も知らなかったりする。

ぶっちゃけそんな立派な施設は、長崎にはありませんでした。


「…えっ、『伝習所』っていう建物があるわけじゃないの?」


案内されつつ、真面目に驚く颯太であった。


「出来たばかりのところですので、誤解されるのも無理はありませんが……伝習所があるのは『西役所』のほうで」

「西役所?」

「陶林殿がお泊りになられたところがお奉行様の居所ともなる『立山役所』と申すところで、『西役所』は出島や新地に程近い場所にあるもうひとつの奉行所になります。そこに間借りする形で『伝習所』は開かれています。急に学問所を作ると御下知がありましたときは、準備に長崎奉行所の役人が総出で駆りだされました。それがしなどは嫁と両親まで呼ばれまして、そのときは往生いたしました」

「伝習所って、えっ? 間借りなの?」


予想外にしょっぱい話に、颯太は目をしばたかせる。

実は『長崎海軍伝習所』は、長崎奉行所の施設を間借りして、居抜きテナントのようにローコスト設営されているのだという。

朝方出島に向ったときも、気付かずにその近くを通っていたようである。思い返せば出島入りするときに、すでに伝習所の生徒たちとニアミスしていたのかと思うと、いまさらながら鳥肌が立ってくる。


「あれが西役所です」


お役人が指差した先に。

夕刻近い暮れなずむ空をバックに、立派な門から大勢の若者たちを吐き出しているお役所が見える。まさに放課後の校門のような風景に、颯太の胸が高鳴った。

あのぞろぞろと歩く者たちが、伝習所生徒らしい。



その西役所の門前に、颯太は立った。


月代(つきさや)⇒(さかやき)

普通につきさやで覚えてました。お恥ずかしい。

どこかで聞いて『そんな読みなんだ』と感心しつつ覚えた記憶があったのですが……思い込みというのは怖いですね(^^)。


震度8については気持ちのゆとりが出来てから修正いたします。

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