032 君沢型一番艦
幕末も近い江戸後期の造船事情……幕臣となったことで期せずして颯太もその一端に触れることになるのだが、いまから2年前の嘉永6年(1853年)の黒船来航を切っ掛けとした幕府の大船建造の解禁により、深い夜の帳から曙がゆっくりと光輝を放ち始めるように、大船建造の大きなうねりが生じようとしていた。
安政2年(1855年)現在、いち早く大船建造に乗り出していた幕府が本格的な洋式軍艦として国内初となる大型船の建造に成功していた。阿部伊勢守が浦賀奉行に命じて建造させた『鳳凰丸』がそれである。
全長120尺(約36.4メートル)全幅30尺(約9.1メートル)、推定排水量600トン、大砲も10門積む本格的な軍艦である。腕っこきの船大工を掻き集めて驚くべき短期間にそのような立派な大船を作り上げてしまったこと自体、国内に潜在的ではあるものの世界水準に引けを取らない造船技術が蓄積されていたことの証左であったが、同時に大砲で撃ち合うことを前提として作られる海外列強の軍艦としての安全性についての認識が伴わず、その巨大な船体を作るのに和船の技術を流用してしまったことが悔やまれる船であったようである。
その外板の強度に依存する肋材の少ない構造を見て、後に勝海舟らに「見てくれだけ」と酷評されることとなる。
他には薩摩藩の『昇平丸』、水戸藩の『旭日丸』……この2隻も当時手に入るオランダの技術書をもとに藩財政を傾けてまで作り上げたこれまた立派な軍艦であったが……いかんせん、もとにした技術書が古すぎて新造時点ですでに旧式という笑い話にもならない運命が待っていた。まさに経験値のなさゆえに起こるべくして起こった悲劇であった。
…そして戸田村で颯太が出港を見送ったあのスクーナー……『ヘダ号』もまた、そんな建造熱のなかで生み出された軍艦のひとつと言えたであろう。実際に洋式軍艦を運用するロシア人船工たちが携わっただけに、このスクーナー(君沢型一番艦)は最も世界水準に近い技術が込められていると識者たちには目されている。ロシア人の遭難という奇貨から技術習得に成功したこの小型船は、こののち国産洋船の御手本として長く影響を与えていくことになる。
「…え、スクーナーがもう一艘できてるんですか…?」
おのれの健康問題から話を逸らすためであったか、急な話を切り出した阿部様。まばたきしてぽかんとしている颯太を見るといたずら心がむくむくともたげてきたのか、途端にドヤ顔になった。得意げなそのにまにま笑いに反省が見て取れず、颯太のこめかみにぴきっと青筋が浮かんだ。
「まだ進水したばかりで江戸まで持って来ることはできんが、戸田の入江にしかと浮かんでおるぞ。《ヘダ号》を作った船大工たちに引き続き作らせておったのがつい先だって完成したのだ。…どうだ、驚いたか」
「…あの戸田の入江で?」
「嘘を言ってどうする。…まあもともと技術習熟のために合わせて作らせたヤツがたまたま出来上がったというだけだが……露西亜との最初の取引にこの一艘を実際に引っ張ってゆけば、彼奴らにこちらの力を十二分に見せ付けてやれよう。取引の最初は、まずぶちかましが大事だからな!」
「驚きました……助かります」
まず交渉も何も、取引材料がなくては何にも始まらない。
その余分に作ったスクーナーがあるというのなら、鉄は熱いうちに打てではないけれど、相手の尻に火がついているうちに早いうちに交渉の場を持つべきであったろう。
先日の露西亜軍人ボリス・イワノフの冬篭り前の熊のような様子を、そして分厚い軍服を着て汗をかいていた全権使節プチャーチンのぷっくりした丸顔を思い出して、そのたった数ヶ月前の出会いをまるで遠い昔のことのように感じているおのれにいささか驚いた。いかんいかんと内心叱咤しつつ、いまおのれが来るべき時のために備えておかねばならない事柄を冷静にまとめ、脳内メモリに積み上げていく。
次の交渉は、おそらくあちらも『本職』が出てくるだろう。茶器一式に大砲を10門も分捕られたシベリア総督から見れば、次はまさにやり返すべきおのれのターンとの認識があるだろう。
本職の外交官がやってきたなら、かなり壮絶な言葉の殴り合いになるだろう。もっとも、そのときは取引の対価物としてこちらもスクーナーという大型商品を携えていくのだ。五分五分の痛み分け覚悟でもそれなりの結果を引き出せるだろう。
ただ気になるのはすでに幕閣では周知され始めている、露西亜帝国の苦境……クリミア戦争の情勢が時とともにどのように推移していくのかがまだ判然としないことである。今回のスクーナー取引に対する露西亜の食いつきっぷりに有能な幕閣が不審を覚えたのは仕方のないことで、阿部様指示のもと長崎界隈で出入りの南蛮人たちから情報の聴取が進んでいる。
(クリミア戦争は最終的にロシアの敗北で終わるはずなんだけど……それがいつなのか分かんないし。まいったな)
何十年も悠長に続く中世の戦争ではないので、火力戦の消耗に耐えきれなくなったときにあっけなく勝敗は決する。国家財政を傾けざるを得ない近代戦は長くても数年ぐらいなもので、たとえばあの太平洋戦争ですら、日中戦争の端緒から数えても10年続いていない。
遅くとも数年内にはクリミア戦争も決着してしまうのだろう。
そうして敗戦した後の露西亜帝国が、ツケ払いの武器取引にまともに向き合ってくれるとはとうてい思われない。そうなった場合、売掛金はほぼ間違いなく焦げ付き、不良債権と化すだろう。
ゆえにツケ払いはこの取引では厳禁。『表向きには通商ではない』と鎖国政策を盾に、物々交換を墨守するのが正しい。
(…こうなると『銀』っていう現物になるルーブル取引とかやっぱりお手軽かつ確実なんだけど……そうなると、やっぱりこっちから乗り込むしかないか)
颯太は思い描く。
この時代にウラジオストクがあるとは思えないけれども、沿海州のどこかにある露西亜の極東の港で、白い息を吐きながら市場の値切り交渉もかくやの激しい取引をしている幕府使節の情景はなかなかに不思議な感じである。
停泊する露西亜軍艦と軍事物資の集積する要塞……右も左も指差せば交換物にぶつかるような状況が一番望ましいだろう。最初の一度である程度の筋道さえつけてしまえば、あとはその都度次回取引の対価を取り決めて運び込んでもらえるようにすればいい。
ともかく最初の取引がすべてといっていい。物々交換の未知のレートに『前例』を刻むことで基準のものさしが発生する。最初の取引に『勝つ』ことができれば、以降すべての取引で幕府側が有利であり続けられるだろう。
(なら次回取引は、こっちから向こうに出向く一手だな…)
颯太は頭の中で纏め上げたそれらのことを順序だてて阿部様に提案する。
この時代常に受動的である外国との接触で、こちらから相手先に出向くというのはまさに革命的な変化を幕閣に要求することになるだろう。
颯太の提案を聞き、難しい顔をして耳打ちしあっていた阿部様と岩瀬様。幕府の弱腰によい顔をしない保守派……外国船打ち払いを求める攘夷派には水戸斉昭をはじめとする雄藩の大名が名を連ねている現状……幕臣になったことでうろ覚えであったあたりの歴史情勢が見えてきた颯太から見ても、この積極商売は相当な逆風を覚悟せねばならない類のことだった。
(そういえば安政の地震で、たしか斉昭の懐刀だった藤田東湖とか死んでるんだっけか……喪中だとこの手の話には過敏になってそうだな…)
果断な阿部様が判断に迷っているのがありありと分かる。
まさかこちらから相手先に出向くことになるなどとは想像もしていなかったのだろう。このあたりグローバリズムに慣れてしまっている現代人の感覚はまさに異端である。
(その相手国にまで乗り込む、という積極性がなければ、ずるいヨーロッパ人はけっして先進の軍事物資など与えてはくれないし)
現状を打破するために必要な『積極的な一歩』を決断できるのは、この国広しといえども老中首座である阿部様をおいて他にはないのです。
「…この露西亜との取引、いよいよ極秘とせねばならぬな」
「しかしこの取引で南蛮人どもの鼻をあかしたとなれば、たとえ話が漏れたとしても、水戸様、尾張様らもあるいは痛快がる気もいたします。…要は結果を出せばよいことだと」
「メリケンと対等に向き合うには、ないない尽くしの国内であがくよりも外地で物を購ったほうが早いのは間違いないのだ。それに彼奴らはおのれの優位性を保障している最新式をどうしても隠し立てするからな、いくら千両箱を費やしてもここで座したままでは旧式を押し付けられるのが関の山……ここは決断のしどころだな」
「さいわいに紅毛人にまったく気後れしない鬼の子がここにおりますし」
「まともな交渉ができることが大前提ゆえ、この『鬼札』は天佑であったな」
くつくつと阿部様は笑う。
それを受けて岩瀬様も怜悧な笑みを浮かべた。
ふたりの目がこちらに向けられるのを静かに受け止めつつ、颯太は手のひらに浮いた汗をごまかすのに苦労していた。
この国家間のあまりに重要な取引の責任が、いつの間にかおのれの両肩に乗っかってしまっているのである。それを背負い込んで見せたからこそ、彼はこの国の政権の中枢にその座を許されているのであるが、やはりそれが重過ぎることに変わりはない。
あのプチャーチンと交渉の場を持った戸田の砂浜で、ロシア人と大工や村人たちが浮いた《ヘダ号》を眺めて賑やかに騒いでいたときに、その背後でいまだ作業中の船台があったことをじわりと思い出す。
木枠を組んだ駅のプラットホームのような船台と、組み上がりつつあるなにかの構造物……それが阿部様の言うところの今回の2艘目のスクーナーであったのだろう。あれがまさか、この国運を賭けた『勝負札』になるなどとは、颯太ばかりでなく作った船大工たちも想像もしていなかっただろう。
「…よかろう。その案に乗ってやる」
阿部様の言葉に、颯太は平伏する。
かしこまりつつも、颯太もおのれの保身の保証を求める。
「…その任を果たした後は、本業にしばらく専心してもよろしいでしょうか。忘れられてるかもですが、半年の猶予も取り上げられております」
「幕臣としての栄達に興味はないのかおまえは」
「いまのままでも過分だと思ってます」
どんな立派な豪華客船でも、いずれ沈むだろうことが分かっていてその乗客になることを喜べるわけもない。彼の介入で歴史が変わってしまっているかもしれなかったが、人生の目標を美濃焼での成功に定めてしまっている颯太の気持ちにぶれは生じない。
そのあたりの『気分』を察している阿部様は苦笑するしかない。
「任を果たした後は、多少配慮してやろう」
それでも譲歩幅は、「多少」でしかなかった。
浮き輪に乗ったまま沖に流されてしまった子供のような気分になる颯太であった。
いろいろとヒロインに対してご意見が…。
たぶん美人で、頭がいいのに内助の功もこなせるスーパーヒロインがそりゃ理想ではあるんですけど(^^;)
ままならぬいろいろが絡み合って人生って造られていくんじゃないかと思うのです。作者の中では誰がメインかなどとは考えてもいません。おそらくそのときに空気がそのような『結果』を引っ張ってくるんじゃないかと。
祥子さんの露出が多いのは、彼女の積極性の賜物です。




