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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【独立編】
144/288

016 江戸大地震と阿部正弘





安政2年10月2日(1855年11月7日)、江戸に震災が発生した。

震源地は関東地方南部、マグニチュードは7クラスであったといわれる。

もともとぬかるんだ湿潤な大地であった土地のうえに江戸の街はある。これは自明であるが地揺れによって地盤の軟弱化が相当な範囲で起こったであろうし、倒壊した家々はその瞬間によく燃える薪の燃料ともなりおおせた。

旗本御家人の拝領屋敷の八割が倒壊延焼し、堅牢な造りの諸藩邸も無残に被災したばかりか、街の象徴たる江戸城すら将軍家が逃げ出す危機的状況であったというから、市中の混乱への対応も早々は行うことも難しかっただろう。

颯太も地元が被災して間もなかったからその想定被害を軽視したわけではなかったのだけれども、豆腐のような地盤の上にあるという大都市江戸の特殊事情を失念していたのは明らかなミスであった。

巨大な災害に見舞われたメトロポリス江戸の変わり果てた姿を見て、時の幕閣首座、阿部伊勢守はどのような感情を抱いたであろうか。

史実では、この大震災発生からわずか1週間後の安政2年10月9日(1855年11月18日)、あっさりと老中首座を退き、後を堀田正睦(ほったまさよし)に譲っている。

若干25歳にして老中に就任し、その2年後には当時の首座であった水野忠邦の不正を暴き立てて場外へと蹴り飛ばし、27歳の時には天下の執権の座に登り詰めてしまった……まさに純粋培養のエリートの中のエリートだった阿部伊勢守は、そのとき《折れて》しまったのではなかろうか。

いや、それは言い方がおかしいのかもしれない。


「うわ、これはめんどくさい」


汗臭い事務処理作業に数日で倦んで、投げ出したのではないだろうか。

体調があまりよろしくなかったことも理由のひとつに上げられはするのだけれども、この大変なときにそれを言い出すのはいかにもずるい。

攘夷、開国で紛糾する幕閣内での対立もうまく調整して立ち回り、その間に襲来した諸外国への対応も迅速かつ柔軟に、ときには果断に改革を断行し新たな部署を設け有為な人材を積極的に登用した。

彼が有能であったのは間違いない。攘夷攘夷とうるさい水戸や島津の雄藩のご意見を聞きつつも、幕閣内の開国派には外国向きの人材登用を行いガス抜きを図る……とにかくバランス感覚に優れた人物であったのは確かである。

しかし彼は生まれたときから上流武家の人間であり、知的労力は惜しまねども事務作業などの単純労働はおのれのすべきことではないと見切っていたのではなかろうか。知的パズルあわせは好きでも、汗水たらす労働は大嫌い。そういう人物であったのではなかろうかと思われる。

長々と書いてなにが言いたいのかというと、大原で忙しく動いていた颯太のもとに継飛脚(つぎびきゃく)とかいうのがやってきたのだ。




「…で、ぼくをお召しになったと」

「お覚悟くだされ。江戸まではなかなかにきつうござるぞ」


いろいろな意味で血の気の引いた颯太であった。

江戸大地震があったことは分かった。そこで阿部様がかなりの優先度で颯太への使者を送ってよこしたそのあたりの事情が怖すぎる上に、なんとこのお使者様、帰りの馬に颯太を攫って行くつもりだと言うのだ。

継飛脚というのは幕府の緊急通信のようなもので、各地の宿場を馬を乗り継いで駆け抜けていく。東海道『江戸』~『大阪』間をなんと3日で駆け抜けるというから尋常ではない。ここ美濃の地まではわずか2日で到着したらしい。

おそるべし、継飛脚。

休憩もそこそこにすぐに大原の地を発った颯太は、想像を絶する強行軍に気を失うこと数度、最後はたすきでお使者様のおなかにくくりつけられるという悲惨な状況で2日後には江戸の地にたどり着いていた。

途中失禁してしまった黒歴史はお使者様の寛大なお心で闇に葬られたものの、継飛脚には今後二度と乗るまいと心に誓った颯太であった。

そうして直参となったがゆえに当たり前のように江戸城へと召され……迎えに来ていたお役人様から二本差を貸し与えられて……武士も女中も庭番も入り乱れて駆け回る慌しい城内を通って導かれたのは比較的人の少ない二の丸の棟のひとつだった。

この建物もいたるところで瓦が落ちたり柱の傾いでいたりするのだが、あまり政務に使われることがないとのことで復旧の優先順位が低いようである。

中へと通されて廊下を歩いていると、手入れされた池や築山などの庭園が目を引き、ああそういう主旨の建物なのかと想像する。やがて地震があったことなど微塵も感じさせないきれいな間に通されると、そこに書状をいくつか読み込んでいる阿部様が胡坐をかいていた。


「やっときたか」


書状から顔を上げた阿部様を見て、颯太はうっと言葉に詰まった。

目の下のできたくまがその疲労の度合いを易々と想像させる。気安く慰労の言葉をかけられるほど偉くはないので、颯太は動揺を隠すように平伏した。


「すまんな。半年ほど猶予を与えてやる約束であったが、やめた」


いいわけとか一切なく、男らしく方針の転換を告げる。


「おまえが先の遠州の地揺れで、地元大原の領民たちの生活をまたたくまに復興させたというのは分かっている。いささか興味が湧いてな、おまえの身辺について調べさせておったのだ。内膳はおのれの代官の手腕だと言い張ったが、当の代官は大原の庄屋林貞正なるものの功が大きいと言ったそうだ。……おまえの祖父だそうだな」

「………」

「おまえのだんまりは、あまり信用しないことに決めたからな。…領民護助の指図をしたのは、おまえだな? 村人たちを瞬く間に組織化して、数日ですべての家を建て直したとか……普通の庄屋がやることではないな」

「阿部様…」

「江戸の街を立て直して見せろ」

「…ゲボ吐いてもいいですか」

「吐いた後でちゃんと仕事を見せれば許そう」

「吐くのやめますんで、勘弁してください」

「仕事をまっとうしたら、おまえの要望をいくつか通してやろうと思ったんだが……そうか、できぬか」

「…そういうことならがんばってみます」


結局餌に食いつくほうもどうかと思うのだけれども。

かくして陶林颯太(6)は、幕臣としてのはじめての任務をおおせつかることとなったのだった。




与えられた役職は、『支配勘定並』…。

何がどうすごいのかよく分かっていない颯太であったが、その場で略儀ながら老中(阿部様)より沙汰が下された。その沙汰を廊下で聞くともなく聞いていた案内のお役人様が一瞬にして表情を引き歪ませていたので、相当に順番飛ばしな大抜擢であったのだろう。

そうしてさらに待たされることしばし、状況がいまひとつ分からないまま阿部様と歓談していた颯太であったが、そこに阿部様の招いた人物が現れたことでおおよその流れが判明することとなった。


忠震(ただなり)、忙しいところ済まぬな」

「国のこの大事のときに阿部様にお召しを受けたとあれば、何事かと思わぬはずもございません。…して、御用の向きは」

「まあ茶の一杯でも飲んで少し息を整えてくれ……これから馬車馬のようにこき使ってやるゆえ」

「はっ…?」


現れた壮年のお役人様の名は、岩瀬忠震(いわせただなり)

阿部派の俊英の一人であり、下田での日露和親条約締結の場にも赴いている。颯太の見た感じでは『頭は回る生真面目な男』という印象であり、実際にいま目の前で彼はただ融通が利かぬためにその人生を阿部伊勢守という怪物に振り回されつつあったりする。

やや釣り目気味の目尻をひくつかせて岩瀬が腰を浮かせかけたのは、無意識に体が逃亡を図ろうとしたためなのかもしれない。


「沙汰はいま少し後になる予定であったが、おぬしにもそれなりの貫目が必要になるだろう。…喜べ、忠震。近いうちに従五位下伊賀守の宣下がくだされる運びゆえ、これからおぬし、伊賀守を名乗れ」

「はっ、あ……伊賀守でございますか」

「この小僧をおぬしの下につける。くれぐれもその助言をおろそかにせぬよう、江戸市中八百八町復興の陣頭指揮をとれ」

「………」


ああ、いまこの人妄想のなかに逃げ込んだよ。大丈夫か、このお役人様。

颯太の心配は杞憂に終わり、岩瀬様はすぐに再起動を果たして練習なしとはとても思えない長々とした御礼の口上を述べ立て始めた。

そのやたら持って回った長ったらしい口上が、岩瀬様のひそやかな意趣返しであると颯太が気付いたころに阿部様が音を上げた。


「使えるやつが少ないのだ。許せ」

「ほんとにあなたさまはまわりの人間をこき使いすぎです。…何でわたしごときの肩書きがこんなについてるんですか……ほんとに迷惑してるんです。事情を知らぬ無役のものには毛虫のように疎んじられ、奥には何で帰ってこないんだと噛みつかれ…」

「有能なやつに休む暇など与えられるものか。…その分役料で家は潤っておろう。グチはそれぐらいにしてきりきり働け」

「言われなくともやります」


…その後阿部様、岩瀬様、颯太の3人で復興計画の大枠を話し合った。むろんそのために呼びつけられたわけで、颯太はマヨラーがマヨネーズボトルを絞るように大原でのやり方を白状させられている。

阿部の秘蔵っ子。

そんな噂が立ち始めるそれは幕開けでもあった。


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