010 交渉
相手が軍人、と見て取った草太の思案がめまぐるしく回転する。
(この時代のシベリア総督とか、皇帝からなにを期待されてる人なんだろう)
西欧列強による植民地政策が全盛を迎えるこの時代、あまりの寒冷ゆえに手付かずであったシベリアを、陸伝いにしゃにむに侵食していった露西亜帝国の東征も基本植民地獲得の熱狂によるものである。
本国にいる支配者たちにとって植民地とは収奪のための草刈場でしかない。軋轢を生む搾取の現場は実際汚れ仕事で、自尊精神のはなはだしい王侯が自ら手を汚すわけもなく、汚れ仕事を丸投げする『植民地総督』という代理統治者を置く簡便なシステムがひねり出された。
前世で一時はまっていた某イギリス海軍小説をぼんやりと思い出しつつ、草太はシベリア総督の立ち位置を想像する。
(東南アジアとかインドとか、たとえば宝石や貴金属、香辛料……リアルに価値のある資源や産物があれば現金化するのも容易だけれど、人のほとんど住んでないシベリアの凍土で、総督さんはお偉方からなにを期待されてるんだろうか)
シベリアが豊かな地下資源を埋蔵していることをこの時代の人間はまったく知らないわけで、現状シベリアはただ住環境の過酷な土地でしかない。
コサック軍団を東征させてとりあえず押さえてみた的な格好であり、今のところ直接的な利益はほとんどないだろう。むしろコサックを養う経費で大赤字の可能性さえある。
(…いまシベリア総督は、安定した補給を得るためにも不凍港獲得に血眼になってるはず……いきおい彼らの当面の相手国は直接国境を接するようになった腐っても鯛の清朝ってことになるし、列強にやられ放題でルーピー状態の彼の国から北辺の領土……沿海州のあたりを掠め取るのが最上位の任務なんだろうな)
ご愁傷様というしかないが、末期の清朝は列強にとって最上のご馳走であった。ヒャッハーな拳銃強盗に屋敷に上がりこまれて乱暴狼藉を働かれている不幸な資産家のようなものである。この時代の国境線がどうなっているかなど知りようもないけれども、沿海州のあたりはもともと清朝の前身である満州族の根拠地の近くであり、歴史的には当然のように清に親和的な領域であったに違いない。
シベリア総督の目が清朝に向けられているのならば、まだ徳川幕府に対して何かを仕掛けてくるという可能性はあまり考えられない。
「いかほど支払えばよいか、と言ってるネ」
ボリス・イワノフの横には、彼が随行してきたという通詞が立っている。
仕立てはあまりよろしくなさそうだが厚ぼったいスーツに蝶ネクタイのそのアジア系の通詞は、独特のイントネーションからおそらくは清国人だと思われる。
まがりなりにも国境を接するようになった露西亜と清は、それなりに人の交流が始まっているのかもしれない。この通詞は総督府が現地通訳として雇い入れた人物だそうで、片言ながら日本語を解したので連れてきたのだという。
「Платить деньги」
「金は出す、言ってるネ」
ボリス・イワノフが、足元においていた麻袋をドン、とテーブルの上に置いた。
中を確認してくれとばかりに口もとを開いて、幕府の代表団に見せる。中身は露西亜の銀貨のようであった。
この時期の代表通貨である1ルーブル銀貨……それがおよそ百枚ほど入っているように見える。正確な価値はむろん分からなかったけれども、あれが純銀として、大きさ的に1分銀二枚ぐらいの大きさのようだから、1枚で半両ほどの価値があるだろうか。(※あくまで国内の貨幣制度に照らしたもののため、国際的な実勢価格ではその数分の一だと思われる)
目算で、だいたい50両ぐらいにしかならない。
好事家が100両出すといういまの『根本新製』の価値からして、おとといきやがれな額であることは間違いない。鼻を鳴らす草太に気付いたのかどうか、ボリス・イワノフの後ろに警護よろしく立ちん棒をしていた部下の一人がさらに何袋か捧げ持って見せる。さすが金満ロマノフ家。
その見慣れない大量の洋銀に弟さんたちがひそひそと相談しあう。そうして若干持て余したように後ろにいる草太にそれとなく目配せがきた。
草太はこくりと頷いて、手に持っていた『根本新製』のボックスをテーブルの上に載せて、こちらも商品を確認してくれとばかりに蓋を開けて見せた。
現れた純白の新製焼を見て、ロシア人たちからかすかにため息が漏れた。
「こちらがお求めの品です」
首から下が隠れてしまう草太の子供ッぷりに、ボリス・イワノフの厚ぼったいまぶたが胡乱げに細められる。なんでこの場に子供がいるんだと、問うような視線を代表団に投げてから、またそのまなざしが草太に向けられる。
「わたしはこの焼物の製造会社《天領窯株仲間》の渉外担当をつとめています。とつくにの方とお話させていただく機会もあまりありませんので、ご無礼な段がございましたら平にご容赦ください」
6歳児の意想外な『能弁』に面食らったような通詞が、少し遅れてボリス・イワノフに耳打ちする。やはり『会社』という辺りがまだ一般的ではないようで、ボリス・イワノフばかりか通詞も少し首をひねっている。
草太としてはこの交渉に当たってのおのれの立ち位置とする重要な言葉なので、しかたなく念押しする。
「It is a porcelain manufacturing company……belongs to me」
突然英語をしゃべり出した草太に幕府代表団もぎょっとしたように肩を揺らしたが、そうだろうことをプチャーチンのときに経験している草太は落ち着き払って火消しする。
「あー、全権使節様のときも驚かれましたが、しゃべれるのはこれだけです」
前回同席しているものは誰もいないので、平然とうそぶいて見せる。
見た目は幼くとも高い知性を持つことを証明した草太に、ボリス・イワノフが手をさし伸ばしてきた。求められて躊躇した草太が代表団を顧みるに、ことの展開についてきていない彼らの様子を見て取って、仕方なしに握手に応じた。
「この焼物を売ってもらいたい、言ってるネ」
ボリス・イワノフの分かりやすい表情に、もう商談が半ば成立したものとほっとしているのだろうとあたりをつける。
ここまで成り行きを推し量っていた草太も、この軍人がただの『お遣い』に過ぎないということを理解し始めていた。
金を持たせて、あれを買ってこいとお遣いにやられただけなのだ。ゆえに交渉力に乏しい軍人でも支障ないとあちらは判断したのだろう。対価であるルーブルを積み上げれば、基本この世界で商談が成立しない場所はないのだろう。
草太に続いて順に握手した代表団たちであったが、このあたりのことは事前に打ち合わせ済みである。
「残念ながらその申し出は請合いかねる。寄港した折の補給物資のみの受け渡ししか認められてはいないことは、先日あなた方と取り交わした条約ではっきりと謳われているはず。この焼き物は確認のために持ってきたに過ぎない」
代表リーダーである筒井様が固い口調できっぱりと言上した。
残念ながら、現状では両国の交渉はこのレベルからスタートすることを要求されている。相次いで結ばれた各国との和親条約は、立ち寄る船の生活必需品の補給のみを限定して認めているに過ぎない。
大金を見て前のめりになっている代表団ではあったけれども、目の色を変えない節度を示しえたのは清貧たれとの武家社会の美徳の賜物であったろう。
(…ここでこっちがうかうか新製焼の代金を受け取ったりすると、通商行為の既成事実とみなされて後で外交カードにされかねないしな……外国との通商経験を積みたいところなんだけど、こういう難しさが『外交』ってやつなんだよな…)
露西亜はうちの新製焼を欲しがっている。
幕府はそれを分かっていても……扶持米を削らねばならないほどかつかつの財政にあえいでいても、鎖国の建前上売りつけられない。まさに絵に描いたような自縄自縛で、喉まで出かかった言葉を飲み込んで代表団も耐えている。
もしも事前にこの展開を予期してすり合わせをしていなければ、異人に対して過剰サービスになりがちなお役人様たちは「どーぞどーぞ」と簡単に土産物として差し出してしまっていたかもしれない。
(この国向けに餌はもう必要ないし)
露西亜向けにはすでにプチャーチンに渡したもので十分なのである。何度もタダで渡すとそれが当たり前になってしまうだろう。
わずかにだがボリス・イワノフの表情が険しさを増している。シベリア東征で物分りの悪い北方部族をひねりつぶしてきたに違いない彼にとって、アジア人は基本下等な征服すべき原住民に過ぎないのだろう。沸点の低そうな相手に草太は焦りつつタイミングを見計らっている。『商談』が通らないのならばこの会見は政治的な色合いを強くせざるを得ない。結果、持参した『根本新製』は彼らの望みを聞く形でお持ち帰りとなるだろうことは想像に易い。
ロマノフ家にプレミア感を与えるためにも、ここは安目を引くわけにはいかなかった。
お金がダメならば……それ以外のもので対価を要求せねばならない。
「わたしはその焼物を持って帰らねばならない。どうすれば譲ってくれるのか、言ってるネ」
どれほど困難で理不尽な『戦場』であったとしても、任務を完遂することが求められるのが軍人である。
目の前のロシア人の軍人的なスイッチが入ったことを草太は察知した。勝つために多少の損害にも目をつむるぐらい、彼らは日常茶飯に違いない。
そうして考えに考えを重ね、可能な限りの推測の糸を束ね上げたと思い切った草太が、ついに満を持して口火を切った。
「…そちらの蒸気船をいただきたい」
かっぱぎタイムが始まろうとしていた。




