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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
122/288

035 カステラ将軍






第13代将軍、徳川家定。

自分で焼いたカステラを箸で崩しながらもくもくと食べている小男が、徳川八百余万石の頭領であるのだという。

こちらが平民であるとはいえこれから会見しようという展開であるのだから、改めてどこか別の部屋にでも通されるのかと思っていたのだけれど、なぜだか将軍様はお勝手の板の間に胡坐をかいて座ってしまい、勢い草太は土間に膝をつけたままの会話が始まった。


「これが此度買い上げた例のやつか」

「左様にございます」


カステラをむぐむぐと咀嚼しながら客の相手をしようというのは、いささか礼を失していると思うのだけれど、絶対権威である将軍さまであるならたいていのことは許されてしまうのだろう。

カステラといえば包丁か何かでスライスすべきだと草太は思うのだが、勝手場の隅で息を潜めている板前や女中たちがそれを進言するわけでもなく静かに眺めている辺り、これはいつものことなのだろうと想像がつく。食べるのは自分ひとりなのだからきれいに切り分ける必要もない、ということなのだろう。

わがままひとりっ子が、クリスマスのホールケーキに直接フォークをブッ刺してしまうノリに近いのかもしれない。

たまに喉に詰まるのか、傍らに置いた湯飲みから茶をすすっている。驚くことに、その茶すら急須を手元に置いて自分で淹れていたりする。

差し出されたケースの中から『根本新製』を取り出した将軍様は、そのときばかりはほうっと嘆声を漏らして、ひとつひとつ手にとって眺め始めた。


「『鶏図』か」


将軍様の言葉に誰も相槌を打たないので不安になった草太がほんの少し顔を上げて様子を伺うと、なんと将軍様と直接目が合ってしまった。どうやら草太に話しかけているらしかった。


「…はっ、新色の『朱』がよい発色でしたので、その鮮やかな色合いを鶏冠に託してみました」

「このように小さな器だというのに、まるで狩野の屏風絵のような見事な出来栄えである。なるほど、白磁の白が鶏の白の地色というわけだな」

「『根本新製』の妙はまさにその透けるような柔らかな白にこそあります。ただきれいな絵をかぶせるだけではその地色が生きません」

「うむ、気に入ったぞ」


木箱の中には、カップと対になったソーサーも収められている。

その小さな皿の使いようを分かっていない将軍様は、取り出したそのソーサーに手製のカステラを載せてみて悦に入っていた。


「天目【※注1】皿が一番合うと思っていたが、この柔い白ならばかすていらの黄色も馴染むようだ。…どうだ、なかなかうまそうだろう?」


箸でグズグズにされたカステラはいかにも食べかけ然として食欲をそそらなかったが、ここは将軍様の面子を慮ってリアクションしておくべきなのだろう。ほんの少し躊躇していた草太よりも先に、こうした状況に耐性のあるらしい筒井様が子供にも見抜かれよう作り笑いで揉み手せんばかりに追従する。


「まことに。皿の出来栄えもそうではございますが、上様の玄人顔負けのかすていらが見事な焼き色をみせていてこそのよい塩梅なのでございましょう」

「ふはは、そうか。でも分けてはやらぬぞ」

「いずれ何かの折に恩賞として賜りとうございますれば」

「卵と蜜を目利きできねばおいそれとこの色と香りは出ぬのだ。そうか、色の違いが分かったか」


なんだよ、かすていらの焼き色って…。

どんだけカステラ作りにこだわってるんだこの将軍様。箸で崩してる時点で美意識は相当に疑わしいだろ。

もう構図としては、筒井様の手のひらでコロコロと転がされている扱いやすい子供というていである。すっかりと自意識を満腹させた将軍様は、ティーカップの取っ手に指を這わせながら、型取りしたその独特の形状を堪能しているふうであったが、つと膝を進めるように草太のほうに身を乗り出すと、


「ずいぶんとメリケンの茶器に詳しいそうだが、その歳でなかなかの博識ではないか。大学【※注2】にも問うたが、日の本にメリケンの茶器を講ずるような蘭書は見たこともないと言うておったが、どこでこのようなものを見聞きしたのだ? わずかな聞きかじりでここまでのものを作れるとはとうてい思われぬが…」

「それは…」


ずばりと、聞いてほしくない急所に切り込んできた。

生唾を飲み込みながら将軍様の目を見返した草太は、言葉を濁しつつおっさん脳で言い訳を模索する。『大学』と言うのはこの時代の幕府付き学者のことなのだろう。たしか大学頭とかいう役職(?)があったはずである。そんな知的権威に諮問した上でこちらの怪しげな部分を突いてきたのだから、なにか狙いのようなものがあるのではないだろうか。

いや、あるいはこのカステラ将軍っぷりからしてそこまで深い考えがあるようには見えないので、だれか『二人羽織』した識者に操られてのことという可能性もある。

だとすれば誰だろう。幕府という巨大組織に知恵の回る能吏が多いのはもう分かっているのだが、いかんせんなまっちょろい歴史好き程度で幕府の組織図やら人物相関やらが分かるはずもなく、高まる不安感に思考が空転しそうになる。

将軍様の耳にささやける人物などは、幕閣でもほんの一握りの主要な人物だけであろう。

この時代の老中首座は誰だ……あの有名な井伊直弼はたしか最後の将軍慶喜のひとつ前の14代将軍様の後継問題で首座に躍り出たはずである。…と言うことは、このカステラ将軍の跡継ぎの治世で幕府の実権を握ったわけであり、いまはまだ実力はあれど押さえ込まれた状況であるのだろう。

たしか井伊直弼の前は……この時代の権力闘争はごちゃごちゃしすぎていまひとつ分からない。

そこまでの考えをめぐらせるまで数瞬。

返答に窮したという印象を残すわけにはいかない。ここは煙に巻くのが常道だろうと草太は意を決して口を開いた。


「…絵師探しに京に赴いた際、たまたま知己を得た学者先生のお屋敷で見聞きした知識でございます。根っからの本の虫でありますので、ずいぶんと読み散らした覚えがございます。…どなたかが直接書き付けたような帳面で、あれはもしかしたら本でさえなかったのかもしれません」

「帳面…?」

「はい、書き散らしたものをあとで綴ったような……紙も不揃いでめくりづらかったような覚えがあります」

「図帳のようなものだな……なるほど、本でなければそうは出回らぬか」

「そのときは世にもずいぶんとおかしな器があるものだな、と。…長崎あたりで蘭人の生活雑器を書き写したものではないかと思います」


言い終えて、ぺろりと唇を湿す。

梁川星厳先生の名前を出そうとも思ったけれども、人物を特定してしまうと迷惑をかけるかもしれないので思いとどまった。正式な本ではないと言うことにしておけば、いくら博識な学者でも追及は難しいだろう。

相手が将軍様でなければ「企業秘密」で突っ張っているところだけれど。


「ふむ…」


少し思案するふうに顎を指で掻いていた将軍様は、肩越しに廊下のほうを見返して「らしいぞ、伊勢」と呼ばわった。

草太が思わず顔を上げてそちらを見ると、勝手場の廊下のほうでこそりと人の気配が動いた。


「ばらさぬお約束でしたぞ、上様」

「どうせ余の『ひとりごと』なのだから、後には残らぬだろう。興味があるのなら、自分で問いただせばよい。余は忙しいのだ」

「これはこれは。余計な手間をおかけいたしました」


小男の将軍様と比べて、なんとも大柄でふくよかな人物が膝をするように身を進めて来た。

前世では町でよく見かけたものだが、この時代にメタボな体格はなかなかに珍しい。まろやかな鼻筋が公家然としたその人物が、『二人羽織』のもうひとりであったのだろう。

そのとき草太の周りにいた板前やら女中やらが慌てたように平伏した。筒井様ほかお歴々たちも、さらに深々とお辞儀する。


「これでは伊勢のほうが偉いようではないか。まったく、面白うないの」

「お勝手場で鍋を振るう公方様など普通はおりませぬ。いちいち平伏するなと命ぜられたのは上様でございましょうに」

「面白うないのは面白うないのだ」

「…上様は、どう思われました」

「どうもこうも、平然と小難しい言葉を使いよる舌の回る小鬼よ」

「そうですか、小鬼ですか」


むふふと上品ではあるけれど含むような笑い方をする。

将軍様が対等な物言いをするその人物、むろん幕閣のお偉方の一人であるのだろう。


「老中首座、阿部伊勢守様であられる」


川路様の呟きが草太の耳に届いてくる。

老中首座、阿部正弘。

草太に間違いを起こさせぬよう川路様が教えてくれたのだろう。伊勢とは、伊勢守という福山藩主でもあるこの人物の名乗りに対してのものであったようである。

幕閣の最高権力者にしてはずいぶんと若い印象がある。まだ三十路半ばという感じで、てかてかと汗で光る頬には若さの艶もある。

が、その若さには似つかわしくない油断ならない厳しさを目元に漂わせる阿部正弘に、草太は圧し負けぬまいと下腹に力をこめた。

会見が予想外の次のステージに移ったことを、草太は察知していた。






【※注1】……天目(てんもく)。黒く焼きあがる鉄釉を『天目釉(てんもくゆう)』と言います。ここでは黒く焼きあがった皿そのものを指して『天目』と言っています。

【※注2】……大学(だいがく)。この時代の幕府役職のひとつ。林大学頭。朱子学の権威である(りん)家が家督とともに継いでいたようです。


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