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陶都物語~赤き炎の中に~  作者: まふまふ
【小天狗起業奮闘編】
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026 幕府の金銭感覚






「まことに、相済まんかった」


それが幕府の体面的にも衆目の中ではとても見せられる光景ではなかったのは確かである。

泣きべそをかく6歳児に、川路様が示したのは最大限の謝罪の意であった。

人目のない船宿の一室であったとはいえ、それは異例のことであった。


「済まんかった…」


人柄というのであろうか。

つまりはとても『いいひと』なのであったのだ。

このお役人様、川路聖謨(かわじとしあきら)という人は、幕府でどの程度の立場にいたかというと、大阪東町奉行をはじめ遠国奉行を歴任、この下田にてロシアとの交渉に当たっていた時期は『公事方勘定奉行』という要職についていた。

勘定奉行、というと某会計ソフトを思い出してしまうけれど、幕府の指揮系統上ではあの美濃幕領でチート行政官であった笠松郡代のさらに上、全国幕領の郡代や代官などを取りまとめるかなりの要職である。

その川路様が、翌日わざわざ次郎伯父たちの逗留する船宿にまで草太を送り届けたのちに、その潮風薫る船宿の2階で手をついて平謝りしたのである。

船酔いでごろごろしていただけの次郎伯父らには事の顛末が見えていないので、平伏するお役人様にきょとんとするばかりである。

そのとき草太はというと、川路様の対面で泣きべそかいて洟をすすり上げている。つまりは謝罪の相手とは紛れもなくこの6歳児であったのだ。帰りの船中で小早の舳先に身を投げ出すようにうつぶせになり、今にも死にそうな様子で静かにむせび泣く6歳児に相当に精神を削られていたらしい。


「あれが大切なものであることは重々承知していた。…だがこれも国のため、ここは怒りを飲んでこらえてほしい」

「…川路様」


小早の船底は常に水漏れがあり濡れている。そこで身を投げ出していたのだから草太の服は海水でべたべたであったが、ちんまりと正座する草太は心ここにあらずのていで、ぼんやりと畳に額を擦り付けている川路様の後頭部を見つめている。


「あれは《天領窯》で何度も窯を焚いてようやくものになった初めての『ていかっぷ』だったんです」

「もうしわけない…」

「焼いた器を何百と叩き割って、ようやっと人様にお見せできる出来栄えとなった、唯一のものやったんです」

「………」


何百、というところをさり気に強調する。

この川路聖謨というお役人様が、非常に開明的でこの時代の独善的な武家至上思想に染まっていない稀有なほどの理性を持ち合わせていることは、ここで子供相手に頭を下げられることでほぼ証明されている。

郡代様よりも偉い要人に頭を下げられているのだ。本来なら萎縮してしまって、頭をお上げくださいもうよろしいのですとか損をかぶることを覚悟してしまうシチュエーションであるのだけれど、《天領窯株仲間》勘定方にして普賢下林家の浮沈をもその小さな両肩に背負う草太には、快く引き下がるだけの余地が残されていなかった。


「まさかあのまま異人たちが翌日には帰ってしまうなんて思ってもみなかったので……ぼくは……わたくしは異人たちの反応を確かめてから、是が非でもという感じになったらしかるべき取引にてお上に買い取っていただくことを考えていました。製造には多額の金子が投じられています。江戸本家、林丹波守様にも売り上げのしかるべき割合を収めねばなりません。販売の取り決めをしている尾張の蔵元『浅貞』さんにも義理を欠いてしまうことになります…」

「…そうであるか」

「《株仲間》は受けた『損』も引き受けねばなりません。筆頭取締役たるわたくしの実家も、多額の負債を負うことになります。おそらくはそれを受けきれねば、一族郎党首をくくることになるやも知れません」

「………」


本当に運がよかったのかも知れない。

ともすれば「大儀であった」で済んでしまってもおかしくない状況なのだ。それに対してかなう限り誠意を示そうとしている川路様というお役人は、人の世の理非をわきまえた人物のようだった。


「阿部様に差し許された手土産代はもう些少しか残ってはおらぬ。幕府は彼らの饗応だけでなく、あのすくうなあ型の建造費をも出しておるのだ。すでに数千両を費やしてしまった。私の一存で動かせる額は知れたものゆえ、足りぬと申すのならわが川路家が何とかいたそう……いかほどの値を用意すればよい」


草太は洟をすすりつつ、思案した。

もはや江戸での営業などということは、『品』が乏しいだけに強行しても効果が望めそうもない。言葉巧みに聞こえのいい風聞を連ねてみても、その目の前に説得力のある実物がないと、実りある営業には結びつかないだろう。


(…ここはいったん引くべきか)


利がないのならさっさと引いたほうが吉。

ただし、泣き寝入りできるほどの体力はないのだから、それ相応の《天領窯株仲間》にとっての『利』を引き出さねばならないだろう。


「…川路様の裁量でお支払いしていただけるお上のご予算はいかほどあるのでしょうか」

「…私の一存でならば、10両がよいところであろう。それ以上となると、大目付の筒井様、勘定吟味役の村垣殿の了承が必要となるだろう」

「…ッ! …で、では、それだけで結構です」


10両!?

思いもかけぬ金額が飛び出して咳き込みそうになった

ティーカップ4セットで10両!? 50万円ですよ!

確かに末期の徳川幕府は、外国がらみになるととたんに金銭感覚が狂っていたような記憶がある。くだんのロシア人たちにも、破船した船の代わりにスクーナークラスの小型帆船を建造するだけの資金をぽんと拠出している。それだけでも数千両である。幕府の見栄っ張りも相当なレベルである。

扱う金額が大きいだけに、川路様の金銭感覚もやや一般からはズレてきてしまっているのだろう。まあプチャーチンがあれだけ欲しがったのを見ているからこその価値付けであったのだろうが…。

十分すぎる代金を得た上に、さらににチャンス券が残されているという思いもかけぬゾーン状態。生唾と一緒に鼻水も飲み込んで、草太は涙をぐしぐしとこすった。

今鳴いたカラスがもう笑ったどころではなく、その口許には黒いオーラまで漂いだした。

あくまで「損して得取れ」の謙虚な様子を取り繕いながら、金額交渉がまとまりそうな様子に顔を上げた川路様の目を見つめて、草太は少しだけ膝を詰め寄らせた。


「これからは幾度となく黒船が訪れてまいりましょう。お上としても、転ばぬ先の杖ではありませんが、彼らが喜ぶ品をあらかじめ手元に用意しておくのはいかがでしょうか?」

「それは……そうかもしれぬな」

「ひと月の間に別のものを用意いたしますので、それを値を改めたうえでお上にお買い上げいただけませんでしょうか」


草太は部屋の隅でぽかんとしているゲンに目配せして正気に返らせると、荷の中から7寸角の木箱を用意させる。

そうしてそれの蓋を取り、なかから絹に包まれたひとつの茶器を取り出した。


「…大目付様にご報告されるときに、何かその証明となるものが必要となりましょう。こちらを川路様に無償にて進呈させていただきます」


草太がすっと目の前に押し出したものは、先のロシア人に渡されたティーカップと対となる商品だった。


「…ほう。これを無償で?」

「はい。こちらは先の『ていかっぷ』とひと組にして売り出すべき品。その『ていかっぷ』が手元になくなったうえは、商家の旦那衆に見せて回るにもこれだけでは片手落ちですので、この際川路様にご進呈させていただいたほうがよいかと思いました」

「これは『急須』だな。またえもいわれぬ不思議な形をしているが」

「ていぽっと、と申すものです」


旧来からある急須とは違い、それは小ぶりであるがやや縦長、蓋の受け口にひらひらと造形の遊びが飛び出していて、さながらフリルのついた急須という感じである。注ぎ口は鷺の首のように優美なカーブを描いている。その反対側にはむろんティーカップと同じデザインの取っ手がついている。

絵柄も同じく犬なのだが、こちらは表面積も大きいため子犬が5匹ほど愛らしい怠惰さで転がっている。

進呈するのだから、それは川路様にその所有を託すのと同義である。

さきほど見惚れていただけに、そのティーポットがおのれのものになると分かった川路様の表情は分かりやすく喜悦に満ちた。文明の進んだ海外の偉人が恥じも外聞もなく欲しがった稀有な一品である。


「なるほど、それは確かに検討に値する提案である。いそぎ筒井様と諮ってそなたのカムパニー、《天領窯株仲間》に発注をいたそう」

「ご注文謹んでお受けいたします」

「相次ぎおとなって来るとつくにの異人たちに幕府の威光を示すにあたって、いろいろと差し出してみたりはしたのだが、彼らの趣味嗜好はなかなか分かりづろうてな……あれだけはっきりと欲しがられる土産を用意しておくのは悪い話ではなかろう。すぐに返事はいたしかねるが、…長くて数日ほどこの下田に逗留して待機していてほしいが」

「かまいません。お待ちしております」

「…身も世もなく泣きべそをかいておった童が、いまはこうして堂々と商談を進める。ほんとうにおかしな童よ」

「変わっていると、いつも言われます」

「林草太であったな。名は覚えておこう」


そうしてにこにこと微笑んだ川路様は、木箱を手に船宿を辞去していった。

能吏らしい切り替えの早さであった。歴史上の開国騒動では、常に『腰砕け』の印象が強い幕府であったが、その外交最前線ではこうした切れ者たちが動いているのだ。幕府という大所帯に有能な人材は多い。


「草太…」


そのときようやく風景の一部でしかなかった次郎伯父がぽつりと漏らした。


「おまえまたなにをやらかした。あれが10両やと」

「売れたね」

「あれは相当にお偉い役人様じゃないのか」

「たぶん江戸本家のお殿様と、…同格か上ぐらい?」

「おま…」


驚いて腰を抜かしているゲンのほうをちらりと見て、次郎伯父は「こういうやつなんやわ」と盛大にぼやいたのだった。


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― 新着の感想 ―
おもしろい!! カクヨムだったら投げ銭してました…おしい…
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