016 円治 vs 草太
美濃の東、『東濃』と呼ばれる地域は、本来ならば山がちの地勢のなかにわずかな盆地があるばかりの、耕作地に恵まれない貧しい土地にしか過ぎなかった。
この地に良質の粘土鉱物が多量に堆積していなければ、多治見はおそらく発展の糸口すら掴むことなく僻地の狭小な田畑に露命を繋ぐ寒村のままであったことだろう。
数百万年前、まだひとの営みが生まれるはるかな昔、この地には名古屋の都市圏を丸呑みする規模の『東海湖』と呼ばれる巨大な湖があったらしい。その時代に周辺から流れ込んだ土砂が堆積し、やがて豊富な粘土層を形成したというのが後世の学者先生の論である。
うそのようなほんとの話である。専門家ではないので詳しくは分からないけれども、『東海湖』が存在したのは氷河期か何かで海岸線が後退していた時期のことなのであろう。蛙目粘土はそのとき堆積風化した花崗岩の成れの果てであるという。
かくして数百万の星霜がめぐり、いまこの地に窯業が確立し、焼物で豊かな暮らしを実現した人々はおのが郷土を『陶都』などとはばったい言葉で呼ぶまでになった。
いまは江戸時代後期……まださすがに『陶都』などという自賛は生まれてはいなかったが、その大地の恵みを吸い上げて身代を肥え太らせた男がここにいる。
3代目西浦円治……この地の立志伝中の人物である。
地域の焼物業界に関わっていれば、おのずとその名前に触れる機会が多くなる。
郷土史に残るほどの功績を挙げる一方、競争相手を圧伏させるのに強引な手法もいとわない業の深い特権商人としての一面も持つ、なかなかに興味深い人物である。
(前世では、美濃焼の救世主とか誉めそやされてたけど…)
口許を引き結び、端然と坐る老人がじっとこちらを見つめている。
大原郷の庄屋の孫がどんな人間なのか、すでに十分調べはついているはずなのに、じろじろと穴が開くほど無遠慮に眺めやってくる。草太はつとめて平静にそれを受け流し、軽くお辞儀したあとまっすぐに顔を上げた。
《天領窯株仲間》の敵対的『既得権勢力』として立ちはだかる西浦屋の周辺情報は求めなくても昨今いやでも草太の耳に集まってくる。
いわく、西浦屋さんには苦しいときに助けてもらった。
いわく、瀬戸物に圧され気味な美濃焼の将来を憂い、立ち上がった郷土の英雄である。
多治見郷の庄屋であった初代円治は質商で家産を太らせ、2代円治は地域産業であった窯業用の薪を扱う燃料商として業界に参入、恵那五ヶ村から窯株をごっそりと巻き上げたあとに急速に家産を太らせ……そして当代、3代円治は父祖の積み上げた基盤を元に商売に辣腕を振るう。
美濃焼が不振であった時期、西浦家は金の回らなくなった窯元に前倒しに資金を注入し窮状を救ったことがあったという。最近知りえたことだが、尾張藩公認の蔵元に成りおおせる前、西浦家は既存の蔵元商らに買い叩かれて貧窮にあえいでいた美濃焼を救うべく陳情団を組んで江戸表にまで乗り込み、幕府役人相手に美濃焼独自の蔵元組織を立ち上げたいと、身命を賭して上訴したという。
「西浦屋の旦那がおらなんだら、美濃焼はとっくにつぶれとった。だから裏切るようなことは出来ん」
ある窯大将がそのようなことを言ったらしい。
言葉通りに捉えるならば過去の恩義に殉じようという清々しい言葉であったが、その経営難にあえぐ窯大将のとほうもない債務は、西浦家の『救済』で生じ続ける利息の降り積もったものであったから、草太も素直にその言葉を受け取ることが出来なかった。
絵に描いたような大人の世界の『しがらみ』が蜘蛛の巣のように地域の人の輪に広がり、西浦屋の影響力を形作っている。西浦円治の力の源泉は、その地域社会のしがらみであるといって言いすぎではないだろう。
情報が多くなるほどに、一口に評しえなくなる人物……地域の実力者とは大なり小なり同じような側面を持っているものである。
「…ご息女の祥子殿にありがたくもお誘いいただき、遠慮もなく上がらせていただいておりました。…大原の庄屋、林貞正の孫、林草太にございます」
軽く挨拶はする。
しかし平伏はしない。
家格は同じ庄屋。商家としてならば草太もまた《天領窯株仲間》の幹部の一人である。必要以上におのれを卑下すれば、それは株仲間の価値さえも下げることになる。
少し頭を下げたのみで、そのまままっすぐに見返してくる6歳児を前に、円治翁は口許のしわを少し深くして、用意させた茶を口にはこんだ。
「たしか《窯株仲間》とかいう寄合を作ったのだったかな」
「《天領窯株仲間》です。大原、根本郷のご領主江吉良林家2000石、そのお殿様をはじめ根本代官様、その代官所与力衆などが名を連ねる株仲間です」
別段隠すこともないとすらすらと言葉を並べる草太に、円治翁が少しだけ眉を動かした。
「株の半分は、大原の庄屋殿が持っとるんやろう。その程度のことは知っとるぞ」
さすがに調べは進んでいるらしい。
実際のところ、草太の実家、普賢下林家の持ち株は41株。どうせ知られてしまうことなら、少し揺さぶってみようか。
「いえ、半分には届きません。もともと江吉良林家の窯であった《天領窯》が地揺れで崩れたのを再建すべく、出資者を募ったのがこの株仲間の始まり。大原の我が家にそこまでの金子は工面できません」
まっすぐ見つめながら、にこっと笑みをこぼしてみる。
それを見て円治翁は嫌そうに眉をしかめて、
「最近大原の庄屋殿の羽振りのよさがよく聞こえてくるんやが。新しい商売を始めるときは、ともかくまとまった金子が必要や。それを用意できるやつとできんやつとで、商売の先行きもどえらい変わるもんや。金づる握っとるなら話は簡単やが、何もないところから大金を掴み出したって言うんなら、わしも少し見る眼鏡を換えなあかんやろうな」
なにを言い出すのやらと身構える草太に、今度は円治翁のほうがしわをゆがめてなんか嫌な笑みを作った。
「商売も始まっておらんのに、郡代様に冥加金を10両もぽんと差し出したそうやないか。体面ばかりのお武家はどこもピーピーや。そんな金子は逆さにしたって出てはこん。…そうなればどこから出てきたのかは大体察せられるというものやないか。…そうやろう、鬼っ子どの」
「さあ、どうでしょう…?」
むろん、はっきりと答えてやる必要などない。
そらっとぼけた草太に、円治翁の横でおとなしく坐っていた祥子お嬢様が、父親に見えない角度だと油断したのか、笑いの発作に襲われて肩を痙攣させている。世が世ならサムズアップでも飛び出しそうな様子である。
「…まあええ」
ふむと息をついた円治翁が、少し腰を浮かせたと思った瞬間、いきなり足を崩して胡坐になった。やや立て気味の右ひざに肘をついて、頬杖するように草太の低い目線に合わせてくる。
「正座なんぞ崩して楽にしなさい。わしも歳でな、ながく正座すると膝が痛んでかなわんのや。わしだけ楽にするのもおかしな話やし、あんたも足を崩したらええわ」
「…えっ」
「こっからは、腹を割った男と男の話し合いや」
人を飲み込むような底の知れぬ笑み。
それは蛇ににらまれた蛙……そんな陳腐な言葉がはまりすぎるようなシチュエーション。
…って、やばいよ!
このクソじじい、ここでこのハメ技発動するってか!
『男と男の話し合い』モード…。
それは交渉のテーブルが男清一色(チンイツと読む)で、かつ決済権を持つ当事者同士が相まみえた場合にのみ発動条件が揃う危険な寝技モード、『男と男の話し合い』というやつである。
稲妻に打たれたように草太は束の間硬直したあと、耳を塞ぎたい衝動に耐えながらいやいや足を崩した。
この「腹を割った話をしよう」というモードが発動すると、交渉であるにもかかわらず相手の話を断りづらくなるという魔法がかけられる。前世の時代、この手で何度あり得ない金額の契約に判をつかされてきたことか。
『男と男の話し合い』は、映画や小説などでは通常ざっくばらんな本音トークと認知されるものだが、実際の契約交渉の場では自称人情派の狡い手合いが多用するもので、ハメ技に分類すべきものである。
なにを言い出すのかと身構えている草太に、円治翁は意外な言葉を投げかけた。
「大原の鬼っ子は、美濃焼の未来をどうするつもりなんや」
ずいっと、身を乗り出すようにしてくる。
ギラリとしたその眼差しは、生半な詭弁などたやすく粉砕しそうな圧力を持っている。
「わしは美濃焼を安く庶民のものとして、広く薄く売ればええと思っとる。質では瀬戸物にはかなわん。有田や萩になど比するべくもない……だが美濃焼を生きながらえさせるためには、高値で取引されるそいつらの入り込めん『隙間』に押し込んでいくしかない。そこに活路があると思っとる」
「………」
「廉価商売は正直きつい。場合によっちゃ江戸に運ぶだけで足が出ることもある。しかしそれでも売ってやらな、美濃焼の窯元は全員首をくくらなならん。有田ものほどでなくとも安いといわれとる瀬戸物と比べても、正直美濃焼は落ちる。窯も古い本業ばかりやし、なにより専門の職工が減ってかつての技術はなくなってしまっとる。まっとうには、勝負にもならんのが現実や」
円治翁の右ひざに置かれた手指が、込められた力できつく食い込んでいる。
その眼差しは、草太に逃げることを許さない。
「あんたのとこの窯は、見たこともない『新製』を焼き始めた。…《天領窯》は、美濃焼をどうするつもりなんや」
美濃焼業界を背負って立つ男の言葉は、ただ重かった。




