閑話元嫁 砕けた幻想
たぁくんの家に挨拶をしてから二か月ほどが経過していた。
生活は、とても順調で日々平穏な毎日を過ごしている。
あの時の挨拶は、今でも心にしこりのようなものを残している……。
思い出すだけで何やらもやもやとして、嫌な空気があったけど……そんな気持ちを彼は消してくれる。
——ああ、幸せだなぁ。
私は幸せを噛みしめ、キッチンでお皿を洗う。
ソファーに腰掛ける彼を見ると、生まれてくる赤ちゃんの名前を考えるために、わざわざ筆で名前の候補を書いていた。
ふふっ。
たぁくんったら、気が早いんだから~。
そんな彼を見ていると口元が自然と緩んでしまう。
優しくて、お金もあって ……。
幸せな未来しか見えないし、言うことないのよね。
私がそんなことを思っていると、たぁくんが私の方に視線を向けてきてにこりと笑った。
「ねぇ。あや」
「どうしたの、たぁくん」
「近いうちに引っ越そうと思うんだ」
「え、またなの??」
私は驚き、思わず声を大きくしてしまった。
でも、無理もない。
だって、この家は引っ越したばかりで特に不満もないのだから。
挨拶から帰ると、すでに引っ越しの準備は終わっていて、それから住んでいるのが今の場所。
たとえ金持ちの道楽だとしても、引っ越しというのは体力を使うから……。
正直、何度もっていうのはやめたいのよね。
「ねぇ、たぁくん。思ったんだけど、前もどうして引っ越しなんてしたの?」
「前にも言ったけど、お父さんは結婚に反対するでしょ? だからこうやって実力行使に出ているのさ」
「でも……」
「まぁ、遅めの反抗期だと思ってよ。だから、また荷造り手伝ってね」
「うん……」
何故そんなことをしないといけないかわからない。
私は首を傾げて、不思議そうな顔をすると、彼がキッチンまでやってきて頭を優しく撫でてくれる。
その優しい仕草に私はうっとりとした。
あれ……?
ふと、彼のズボンに視線を落とすとポケットから見覚えのある茶封筒が顔を出していた。
「たぁくん、その封筒って」
「もちろん、お金だよ」
「それって……。もしかして私が渡されたもの?」
「そうだよ。これは僕たちに渡したんだから、有り難く貰おうと思ってね。ほら、お金はいくらあってもいいでしょ?」
「ああ~。たぁくんいけないんだぁ!」
「ふふ、ごめんごめん」
悪戯をした子供のような無邪気な顔に私は苦笑した。
「それにしてもお義父さん。結婚、認めてくれなかったね」
「そうだね」
「どうしよう。認めてもらわないと困るよね」
「関係はないよ。親がいなくても結婚はできるんだから」
「それはそうだけど……」
親が協力的でなければ資金の援助を受けれないでしょ!!
結婚して、家計が火の車なんてごめんだわ!!!
って、ダメダメ。
ここで嫌われて捨てられたら目も当てられないわよね。
愚痴は心の中にしまわないと ……。
でも、文句のひとつも口にしたくなるわよ。
子供だって生まれるのに認めてくれないなんて!
大きな家だから世間体を気にして、せめて責任を…………うん?
頭に妙な引っかかりを覚えた。
それと同時に、たぁくんの厳格そうな父親の顔が脳裏に蘇ってきた。
規則に厳しそうで、煩そうな ……それでいて疲れたような表情をして ……。
そう思ったら口が自然と開き、
「妊娠のことって話したの?」
と、私はたぁくんに訊ねていた。
すると彼はにこりと笑い。
「子供のこと? 勿論——言ってないに決まってるじゃないか」
「……え?」
彼が口にしたことに私は唖然とした。
そんな私の様子を気にすることなく、たぁくんは話を続ける。
「だって、言ったら全力で反対されるのは目に見えているしね。ただでさえ、世間体を気にする親なんだから、ばれたらきっと全力だよ~。でも、そうはさせないけどね」
当然のように彼は言う。
えっ……私がおかしいの?
なんで、肩を竦めて …… 。
相も変わらず彼の笑顔。
いつもは癒される筈なのに、妙な寒気を感じた。
「ほんと、法律は厄介だよね。自分の誕生日が遅いのが恨めしいよ。結婚するのにまだ親の同意書が必要なんだから」
「……それってどういう」
「ああでも、問題ないよ。後、数ヶ月で大丈夫だしね。10代最後をあやと過ごせるなんて幸せだなぁ~」
「あはは……たぁくん。それだとまだ大学生みたいじゃない。嫌だなぁ悪い冗談なんて」
「冗談?」
「そうそう。だって、もう働いてるんでしょ~?」
「ははっ。まさか。僕は19歳の大学生だよ」
さらっと、とんでもないことを口にした。
突然のカミングアウトに開いた口が塞がらない。
え、なに?
どういうこと ……?
たぁくんが学生???
嘘よ ……じゃあなんであんなにお金を?
ダメだ。
頭がついていけない。
それにこんな不味い事実なのに、どうして平然としているの ……?
ちらりと横目で彼を見る。
私の困惑した様子がそんなに不思議なのか、彼は首を傾げた。
私は『何かの冗談であってくれ』と、そんな願いを込めてあの時、戯言だと決めつけたことを聞き直す。
「じゃ、じゃあ……お義父さんが言っていたことは」
「本当だよ」
「けど、大学生ならあんなに毎日会えないでしょ?」
「大学? あー、やめたよ。あんなところ行く価値はもうないからね」
「そんな……。それじゃこれからどうするのよ」
「うーん。何か悩むことなんてあるの? 僕とあや、そしてお腹の子供がいれば何にも恐れる必要はないし。他に何もいらなくない??」
「生活はどうするの……」
「家族で一緒にいれればそれでいいかな。そんな幸せが一番だよ」
「一番って……」
「だって、僕と結婚したくて別れたんでしょ? 何を迷う必要があるんだい。僕がいれば幸せ、愛している。前の旦那では手に入らなかったこれが真実の愛なんだ。そう、あやは言ってたじゃないか」
……この人は一体何を言ってるの?
愛も生活もお金がないなら成立しないじゃない!
そんなの真実の愛とは言わないわ!!
でも、平然と……当たり前のように言っている。
じゃあ、もしかして、今まで気づかなかっただけ ……?
それとも騙されていた??
どうすればいいの。
逃げようにもお腹に子もいるし、走って逃げるわけには……。
「こんなんじゃ結婚なんてできーー」
「そんなの許さないよ」
柔和な笑みが崩れ、無表情の顔が私をまっすぐにとらえてきた。
それから私の肩に腕を回してくる。
少し前までは甘えてくるように見えたのに、今は『いつでも首を絞めれるよ』と脅されているような感覚に陥る。
命を握られている。そんな恐怖が私を包み込んでいた。
その恐怖心を増長させるように彼は言葉を紡ぐ。
「愛してるって言ったあの言葉は嘘だったの? こんなに尽くしたのに、それも全部嘘だったってこと? ……それはないよね??」
「いや、そんなことは」
「そうだよね!? 違うよね!?!? まさか、遊ぶだけ遊んで、僕のお金目当てだったなんて……ないよね……?」
「ええ……そんなことないわ。私はたぁくんを愛してるから」
咄嗟に出た言葉だけど、震えることなく言えたと思う。
これなら、違和感を持たれる心配はない。
こいつはヤバイ……。
私の中のアラートが鳴りっぱなしだ。
こんな危ない人だったなんて……騙されたわ……。
けど、今更後悔してもしょうがない。
ピンチで非常にマズイ状態ではあるけども、そういう時にこそチャンスは来るもの。
だから、私は諦めない。
今の状態から抜け出して、幸せを掴むなら凌ぐために何でもやってやる!!
私は甘えるような上目遣いでたぁくんを見る。
ニコリと笑う彼の首に手を回して、耳元で囁いた。
「大好きだよたぁくん。どこでも一緒だからね」
「うん。僕たちの愛は本物。だって、“真実の愛”は揺らぐことがないんだもん。あー愛してるよ、あや。ずっと僕のそばにいて」
「うん……」
私は幸せを感じている女性の演技をする。
優しく抱き着く彼に応えるようにして……。
――次の日の早朝。
寝ている隙に私は、彼の家から抜け出した。
……これはヤバい。
ヤバすぎる。
私の中で危険を知らせるアラートが鳴り続けている。
だから、私は逃げた。
「はは……ばぁか。あなたの思い通りになんて、絶対にさせないんだから」
私は、自分がさっきまでいた家にそう言葉を吐き捨てたのだった。
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次回、元嫁回終話です。




