六十三話 命の危機
バランガという男の脳は、恐怖という感情を感じる部分が人よりもだいぶ未発達である。
その理由として、彼の恵まれ過ぎた人生が起因している。
生物が生き残るために必要な恐怖心も、彼にとってはそんなものがなくてもこれまでの人生で生き残ることになんら苦労はしてこなかった。
実の両親は彼を甘やかせて、叱ることなどない。
実家にいる使用人たちは彼を恐れ、敬い仕事をしている。
更には友人のほとんどは彼と対等な立場に立つことなく、おこぼれを貰おうとするような連中ばかりだった。
悪いことに、バランガの魔法使いとしての才能は、一般的に見て天才と呼べる類のものであった。
立ち向かってきた者も、そのほとんどが彼の前に成すすべなく屈している。
恵まれた家庭環境に、恵まれた能力値。
そんな状態で生きてきたこの男に、まともに恐怖心が発達するはずもない。
あり過ぎても困るが、なさ過ぎても困る。
故に普段から失礼で傲慢なバランガであるが、今日ばかりはその未発達な恐怖心を感じる脳の一部が急成長をしていた。
先ほどから来る、ブラロスとジェーンの戦いの余波も彼に珍しく恐怖心を与えている。
他の人よりも若干鈍い反応だが、それでもしっかりとやばさは感じ取っていた。
しっかりとした助走があったからか、この男は今人生で初めて受ける猛烈な殺意を敏感に感じ取り、猛烈に恐怖心を抱いていた。
愚か者なままで、恐怖心を感じていなかったらどうなっていただろうか。
おそらくだが、いやほぼ確実に、目の前で彼を睨みつけるスカイに殺されていただろう。
しかし、バランガには悪運がある。
今はしっかりと恐怖心を抱き、この場を何とか脱しなくてはという思考が働いている。
怒れるスカイに、一体に何に起こっているのか?
普段のバランガなら見当違いなことを考えついたかもしれないが、今日の彼には悪運が付いている。高速回転した思考は、見事に正解を導き出していた。
スカイが先に結界内に入った→やることを終えた→戻ってきた→誰かを迎えに来た→スカイとレメは仲が良い→レメを迎えに来た→レメが血だらけで倒れている→側に立つバランガ→やったのはバランガだと思われている→バランガ死ぬ
バランガの中で、冷静に第三者視点で、短くそして正確に上記の推測が出来上がった。
プライドも矜持も、そんなものはどぶにでも捨ててしまえ、とバランガの本能が訴えかける。
とにかく今は、上手な言い訳が必要だった。スカイの怒りを鎮めるために。
「こ、これは俺がやったんじゃいぞ!たった今俺が見つけた!」
身振り手振りも交えて、必死に誤魔化そうとする。
その顔の必死さは結構迫力があり、真実味もあった。
しかし、このくらいでスカイは止まらない。
杖を握ったまま一歩一歩バランガへと近づいていく。
「バランガ、俺がお前の言うことをまともに信じると思うのか?いいから、そこを動くな。すぐに楽にしてやる」
言い訳だけでは不十分なことを悟る。
このままではやはり死ぬ。
バランガはまだ死にたくないと切実に願い、その願いが通じたのか、いい案を一つ思いついた。
自分の有用性を主張すれば、まだ少しだけ生きられるかもしれないと。
「あ、あれだ!本当に俺がやったわけじゃないし、それにこいつ血を流し過ぎている!すぐに治療が必要だ。俺は水の性質を使うから、もちろん治療魔法も使用可能だ!」
よくぞ一瞬でここまでの回答をしたと、心の底から自分を褒める。
この言葉は実際、いい方へと効果をもたらした。わずかであったが……。
スカイも少しだけ冷静になったのだ。
バランガの言うことにも一理ある。
レメの頭部から流れる血はまだ止まっておらず、主張通りすぐに治療が必要だ。
体育館内で治療できる魔法使いを探すよりも、目の前のバランガにやってもらった方が早い。怪我の具合からも当然そっちの方が良いと判断出来た。
「ならやれ。その後殺す」
治しても治さなくて殺されるのなら、バランガは必死に逃げる選択を取るべきかもしれないが、研ぎ澄まされた彼の感覚はそうは告げていない。
一瞬だが、スカイが安心したのをバランガは見逃さなかった。
口ではああ言っているが、治療を終えたらスカイの気分も変わるかもしれない。
そうと決まれば、早速裾をまくって簡単な水魔法で手を清潔にしていく。
天才と呼ばれるだけのことはあり、バランガの教養は多岐にわたる。
自分の性質が治療に向いているのは知っているし、その縁もあって実家で治療魔法の基礎は学んでいた。
逆に言えば、それ以来やったことのない魔法でもある。
それでも、貴族の矜持として学んだ一生活用する予定のなかった魔法が、こんなところで役に立つとは不思議なものである。
頭に治療魔法の先生を思い浮かべながら、バランガは心の中で感謝の言葉を念じていた。恐怖心も抱かない男だが、感謝の心も、実に数年ぶりに抱いたバランガであった。前は、ズボンの股が破れた時にそっとロングコートをかけてくれた気の利いたお姉さんに感謝を抱いて以来だ。
感情がいろいろと頭の中で爆発しそうな状況でも、とにかく治療は失敗できない。
失敗すれば……、跪いてレメの怪我具合を確認しているバランガを、立ちながら見下ろしているスカイの鋭すぎる眼光が今度は魔力弾となって彼の体を貫く可能性が高い。
誰よりもスカイの魔力弾を受けてきた男である、その痛みは誰よりも心得ている。
レメの怪我は、頭部を岩で打ち付けたことによる切り傷と、打撲、衝撃による失神だけだった。
骨に異常はない。
回復後は安静にする必要があるが、とりあえずこの場でやることは傷を塞いで血を止めることだけだった。
「……そんなに見られてはやりづらい。どこかに視線を逸らせてくれ」
「レメに余計なことをしたら殺す」
「わ、わかった……」
光るその眼光には監視の意味合いもあるらしい。当然視線はそらさない。スカイの今の集中力なら、例え知識がなくてもバランガが治療以外に余計なことをした場合、一切見落とすことはないだろう。
やはりバランガが生き残るには、治療に100%専念するほかはないのだ。
視線が離れないのは仕方がない。
治療は自分のレベルでもやれると思い、バランガも意を決した。
水の性質、初級魔法ヒール。
詠唱時間2秒、消費魔力量200。
軽度の怪我を治すのに使われる魔法だ。
バランガの見立て通り、切り傷くらいなら治せる。
スカイの眼光が指す中、優しい薄青の魔力がレメの頭部を包み込む。
血が流れ出ている傷口がみるみると塞がっていく。
内部の傷ついた血管などもきれいに治っている。意外とバランガはこの分野で器用な才能を示した。
治っていく傷を見て、スカイの眼光が段々と薄まる。
その顔が鬼の形相から、徐々に普段の少し抜けた表情に戻っていく。
バランガが気を利かせて、清潔な水を作り上げて、顔に纏わりついたレメの血も綺麗に洗い流した。
このくらいの水の操作はお手の物だ。
彼にしては珍しい気遣いは、この場では大きく役に立った。
綺麗に汚れが落ちて、いつもの清潔なレメに戻る。明らかに顔色の良くなったレメを見て、スカイは思わず安心してため息をついた。
その場にどかりと座り、意識を戻さないレメを見守る。
スカイは自分でも怒りが去りつつあることを自覚していた。
初め、レメが倒れていたのを見てスーッと頭に血が上るのを感じた。
あまりに頭に血が一気に集まったため、一瞬気を失いかけたほどである。
それでも何とか意識を保てたのは、やはり外敵のバランガがいたからである。
まずは排除せねばならない相手がいる、そうやって失神は耐えた。
しかし、バランガは自分の非ではないと言い張る。
そんなことはどうでもいい。とにかく怒りをぶつける必要がある。そうじゃないとこの気持ちが収まりそうになかったからだ。
バランガくらいなら殺してもいいだろうという黒い思いが先立っていた。
そんなクズなバランガでも、一生懸命治療している姿は結構真摯な様子でスカイの目に映った。
そしてレメの顔色が良くなったのも見て、少しだけ考えを変えた。
バランガくらいなら、いつ殺したって変わりないだろう。また今度にするか、という少しグレー寄りな思いになる。
今度気が向いたときにでも殺しておこう、なんてことを思われているとも知らず、バランガはすっかり安心しきっていた。レメ同様、穏やかになったスカイの顔で助かったことを理解した。
命の危機が去ったからか、急に疲れが出てバランガもその場に思い切り腰を下ろして休んだ。
「おい、あっちへ行け。これ以上レメに近づくな」
しっしっと汚いものでも払うかのように手を振るスカイ。
レメは決してスカイのものではないが、この場を独占したい気持ちが芽生える。スカイはまだこの気持ちを上手に扱いきれてはいなかった。
「無茶言うな。もうクタクタで動けん」
「その変なおかっぱ頭がレメに移ったらどうするんだ」
「移るか!」
お互いに憎き相手だったと今更に思い出したかのように、急にいがみ合う。
それでも二人とも本当に疲労していたので、その場を動こうとは思わなかった。
バランガが譲歩し、顔を背ける。
存在感をなるべく消すことで、この場は妥協してもらうことにしてもらった。
美しいレメの顔と、醜いバランガの顔が視界の端に映る中で、スカイは今後のことをようやく考え始めた。
スレインズはもうほとんど崩壊状態だ。
それでもブラロスはまだ戦っているが、それも時間の問題な気がしている。
ブラロスと違い、ジェーンの側には無数に仲間がいるからだ。
数は力、流石にあの化け物染みた力を持った男もそう長くは持たないと予測している。
取り敢えず自分は楽ができそうなので、レメが目覚め次第安全なところに移す。
それで今回の一件は終了だ。
そう考えて、スカイは杖を手放した。
宙に浮く杖は側を離れることはないが、結界内に入って以来、スカイはようやく武装解除をしたのだった。
「バランガ、レメがこうなった経緯を説明してもらってなかったな」
「うっ……」
命の危機が完全には去っていなかったことを、バランガは再確認させられた。




