チョコレートが食べたすぎる
交通手段の発達していないこの世界において、基本的に冬の旅というのは危険なものだ。徒歩でも馬でも、雪に降られたら命に関わる。ましてや海路など、頼りなく小さな小舟が風に煽られれば一発で転覆だ。というわけでこの冬も無理ない範囲で近隣の村々を歩く程度に留め、人々の記憶に残らないよう無害な旅人として私は宿を転々としていた。
ようやく寒さのピークも越え、そろそろ次の街へ移動する計画を立てようかという頃──ふと思いついてしまった。日本でいうと、今の季節はちょうどバレンタインのあたりではないか、と。私にはもちろんチョコレートを渡す相手などひとりもいなかったが、あの季節にだけ発売される美しく特別感のあるチョコレートを眺めゆっくり一粒ずつ食べるのが好きだった。ネットで美味しそうなものをお取り寄せしてみたり、たまたま外に出る用事があれば、ついでにデパートの催事場へ赴いたこともある。この私が、あの人混みの中、わざわざデパートに! それほどまでにチョコレートというのは私にとって特別なお菓子だったのだ。当時は深く考えたこともなかったけれど、失ってみて気付くことは案外多い。
「──チョコレート、食べたいなぁ……」
一度意識するともう、頭の中からあの濃厚な香りとコク深い甘さへの欲望が消えてくれない。チョコレートには、他の甘味では決して満たせない独自の魅力があるのだ。月のものが近いせいか、私の欲求は一気に天井を突破した。他人との接触を図ってでも、絶対に見つけてやると拳を握る程度には。コミュ障をここまで奮い立たせるだなんて、チョコレート……なんて恐ろしい子。
幸い次の目的地としているのは、この国の中でも規模の大きな街になる。貿易港もあるし、あそこであればもしかするとチョコレートだってあるのではないだろうか。百歩譲って、カカオ豆でもいい。豆からチョコレートを作る方法なんて詳しくは知らないけれど、材料さえ手に入れば神様から連絡が来た時に聞いてみることもできる。教会にお供えするからとか言えば、わりと教えてくれそうな気がするし。砂糖のように全く別の植物として存在していると見つけるのは難しいだろうが、再びチョコレートを口にするためならば多少の困難は乗り越えてみせよう。どうせこの世界において、私の為すべき使命などひとつもないのだから。目標があれば生きる気力も湧いてくるというものである。
力強く腕を振り街道を進む私の足取りは、先ほどまでよりもなんだか軽く感じた。
「ようこそ、ハーフェンの街へ」
愛想のいいおじさんにぺこりと頭を下げ、そそくさと門を通過する。
吹き抜ける潮風のぬるい香りにふと顔を上げると、予想よりずっと広いハーフェンの街並みを一望することが出来た。どうやらここから港に向けて緩く坂道になっているらしい。街道は整備されていて歩きやすく、ゴミや雑草で荒れた雰囲気もない。さすがは国内有数の港町といったところだろうか。ここならば人の出入りも多いだろうし、多少長く滞在したとしても周囲から注目されず過ごせるかもしれないなと期待が高まった。小さい村だと一晩泊まるだけで噂をされたり干渉を受けたりとどうにも居心地が悪いのだ。隣の部屋に誰が住んでいるかも知らなかった、要塞のように巨大なマンションでの暮らしを懐かしく思う。
「──やっぱりまずは、薬屋からかな……」
カカオが昔薬として使われていたとかなんとか目にした記憶がある。数軒回ってみて、なさそうなら八百屋や穀物屋などを順に回ってみることにしよう。
カララン、とドアベルが涼やかな音を立てた。見まわした簡素な木造の店内、壁面に作り付けられた棚にはどこかレトロにも感じる濁ったガラスの小瓶がずらりと並んでいる。軽い揺れでも大惨事になりそうだな、などと考えてしまうのは私が地震大国出身だからなのだろう。
「はいはいお待たせしました。いらっしゃいませ──おや、初めて見るお客様ですね?」
「……こ、こんにちは」
現れたのは、予想外に若い──といっても私とそう変わらないくらいだろうか──男性だった。チョコレートを求める気持ちだけでここまでやってきたけれど、やっぱり違う店にすればよかったかなと若干勢いが削げた。
長めの茶髪を首の後ろで括り、清潔な白衣を羽織っている。少し垂れ気味の瞳は若草のような緑色で、口角の上がった表情は穏やかそうな雰囲気だ。この世界の人間は総じて欧米人顔というか、色が白くて彫りが深い感じだ。神様に身体を作り直してもらったとはいえ、基本的な見た目はほぼ前世通りの日本人顔な私からすれば皆美男美女に見える。逆に向こうからすれば私は良く言っても、地味で小柄なあっさり顔というところだろう。周囲の反応から見るにおそらく実年齢より五歳ほどは若く見られていると思うけれど、外を歩く時は常に旅用のローブを羽織りフードを被っているのでさほどの影響はなかった。
「本日は何をお探しですか? よければお手伝いいたしますよ」
にこにこと尋ねられ、つい緊張に身体が強張ってしまう。
通販がまだ充実していなかった頃、私は洋服を買うのが怖かった。まずオシャレな店に行く服など持っていないし、勇気を振り絞って店に入ると獲物を見つけた狩人のように美人なお姉さんたちがわらわらと集まってくるのだ。
『何かお探しですかぁ?』
『あっ、その服今私も着ていてお揃いなんですぅ』
『お客様色白だから、絶対これとか似合いますよぉ』
怒涛の勢いで迫り来るお姉さんたちの圧に、罠に掛かったウサギの如くぷるぷる震えながら手近にある品物を差し出すしかない。試着? そんな怖いことしていられるか。一刻も早くお金を払って店を出なければ、財布が空になるまでお姉さんとお揃いの服を買わされるに違いないのだ。ただ着心地のいいTシャツが一枚欲しかっただけなのに、小洒落た刺繍の入ったジャケットなど一体どこへ着ていくというのか。
通販でポチッとすれば大概の物が買えるようになり、心底技術の発展に感謝を捧げたものである。
そう、私はコミュ障だ。だから、店員さんがお手伝いを申し出てくるタイプの店は本当に怖い。
それでも──絶対に、チョコレートを手に入れると決めてここまで来たのだ。じわりと汗がにじむ手のひらをギュッと握り、震える声を絞り出す。
「え……と、あの……カカオって、ありますか。チョコレートでもいいんですけど、というかチョコレートが欲しいんですけど、でも、あの、どこに売っているか分からなくて」
「カカオ、ですか。ちょっと聞き覚えがないのですが、見た目や効能など分かることを教えてもらっても?」
「多分……このくらい? の、楕円形の実なんですけど……割ると細かい種子のようなものが詰まっていて……その種子を発酵させたり炒ったり? して、使う……んだったような……」
私の言葉に一瞬目を見開いた店員さんはすぐに表情を元に戻し、爽やかに頷いてくれた。
「それでしたらおそらく、ラカオ豆でしょう。──何回分お入り用ですか?」
「あっ、よかっ、ありが……えっと、このお金で買えるだけ欲しいんですけど……!」
手持ちのお金のうち、生活に支障がないだけの金貨を取り出してみせる。旅の途中で珍しい果実を収穫したり、その地域の民芸品を仕入れて他国で売ると案外良いお金になったのだ。交渉などという高度な技術は持ち合わせていないし、言われるがままに卸しただけなのでぼったくられている可能性は大いにあるが。それでもいつ何時お金が必要な事態が起きるか分からないから、神様からの補償金以外に収入の当てがあるのは大事だと思う。事実こうして今、稼いだお金が役に立っているわけだしね。
私が取り出したそのお金を見た店員さんは今度こそぽかんと口を開け、次の瞬間には眉を寄せ表情を厳しくした。カウンター越しに少し身を乗り出すと、フードに隠れた私の顔を覗き込むように窺ってくる。
「──悪いがちょっと顔を見せてくれるか。主人のお使いかと思ったが、嬢ちゃんなんか訳ありだろう? アンタみたいな若い女がラカオをありったけだなんて、そんな物騒な売り方は出来ねぇよ」
先ほどまで人の良さそうなにこにこ笑顔で対応してくれていた店員さんが、急に態度を豹変させた。突然美形の男性に凄まれて、膝がガクガクと震えてしまう。これでは逃げようにもあっという間に捕まってしまいそうだ。いや、そもそも捕まるようなことをしてしまったのかよく分からないのだけれど。
恐る恐るフードを下ろしながら問う。
「……あ、あの、ラカオって、いいいいったいどういう……」
「……知らねぇで買いに来たのかよ……。これはな、媚薬だ。嬢ちゃんにも分かるか? 大人同士が仲良くする時、興奮して気持ちよ〜くなれるお薬だよ」
「──っ」
確かに、カカオが薬として扱われていたというぼんやりとした記憶があったからこそ、最初に薬屋へやってきた訳だけれども。まさかそれが媚薬だなんて思いつきもしなかったのだ。けれど考えてみれば納得だ。カフェインとかポリフェノールとか、よく分からないけれど栄養ドリンクに使われているような成分がチョコレートにも入っていたような気がするし。元気になっちゃうってことだろう……色々と。
恥ずかしさに頬がカッと熱くなる。もうなにも考えず逃げ出したいくらいだ──膝がまだ笑っているので無理だけど。生理的な涙がじわりと滲んで視界が曇り、店員さんの姿もよく分からなくなってくれたのでむしろ良かったのかもしれない。イケメン怖い。
「お、おいおい、別に泣くことないだろ。ああ悪かったよ、別に怒ってるわけじゃねぇからゆっくり理由を話してみなって」
「あの、ちが、えと……わた、わたしが食べたくて、わたし、チョコレートが……チョコ作ろうと、ただそれだけで……」
「さっきもそれ言ってたな。チョコレートってのを作るために、ラカオを使うってことか? そりゃ媚薬だとかの薬じゃねぇってことか」
「はっ、はいっ、ただのお菓子で、甘くて苦くてとろける美味しいやつでっ」
「──甘くてとろける、ねぇ……。まあ、嬢ちゃんがヤバい目的で媚薬を大量買いしようとしてるわけじゃなさそうだってのは、なんとなくわかったわ。──が、だからといって今日すぐにラカオを売るわけにもいかねぇ。そうだな……売るための条件を付けよう。これから何回か会って嬢ちゃんの人柄をしっかり確認させてもらうことと、出来上がったチョコレートとやらを俺にも見せること。これを受け入れられるなら、さっきの金貨分のラカオを売ってやるよ。どっちにしろどこの薬屋に行ったってそんな大量に在庫があるもんでもねぇからな。あるとしたら娼館くらいだろうよ、当然向こうさんは大事な商売道具だから売っちゃくれないだろうがな。取り寄せるまでの期間を使っての……まあ面接みたいなもんだな。──どうする?」
店員さんの問いにしばし考える。正直、このイケメンはちょっと怖い。けれども、言っている内容としてはそれほどおかしなことではない……気がする。
カカオ……ラカオがこの世界での媚薬だと知ってしまった以上、他の薬屋に行こうとも返って来るリアクションはそう変わらないだろう。色んな店で少しずつ買い集めてもいいが、こういう店は案外横の繋がりも強かったりする。あちこちで媚薬を買い集めている女がいると噂にでもなれば、私の怪しさは限界値を越えるのではないだろうか。せっかくチョコレートの材料を見つけたと言うのに、この街を出てまた探し直すのは正直面倒だ。その分だけ食べられる日も遠くなるわけだし……。
それにこの『ラカオを下さい』の件を今後幾度も繰り返さなければいけないかと思うと、さすがの私も心が折れてしまう。どうせこの店員さんには既に恥ずかしいところを見せてしまったのだから、この人ひとりで請け負ってくれるのならその方が楽なのかもしれない。
よし、と心を決めて、小さく頷く。
「──あの、それで、お願いします……」
「おう、分かったよ。そんじゃ品物が入荷するまでの間、よぉく見極めさせてもらうわ」
店に入った時の、愛想の良い彼はどこへ消えてしまったのだろう?
にやりと口角を上げる目の前の男は、どう見ても裏社会の売人みたいな悪い顔をしていた。




