4.3. 睡眠学習装置(改)
記憶改善処置室の前のイスで、15分位待っただろうか?今度は携帯端末に、オレの診察番号と記憶改善処置室が表示された。「睡眠学習装置(改)」の準備ができたのだろう。
処置室のドアをノックすると、
「桜井君、どうぞ。」
と聞き慣れた人の声が聞こえてきた。でも、こういう時って、普通「桜井さん」って呼ばれるはずだろう?高木さんらしいけど。
中に入ると、他の3人の看護師に混ざって、ナース姿の高木さんがいた。高木さんのナース姿は中々良い。眼鏡っ娘でスタイルの良い高木さんは、良く似合ってると思う。
いつもなら時宮研から2人、思宮研の研修医と学生1人ずつ、それに看護師1人がいる。高木さんと木田がセットでいることが多いが、今日は木田の姿が見当たらない。
そこで、高木さんに、
「今日は時宮研からは、高木さんお1人ですか?」
と尋ねた。
すると、高木さんが1人だけで近づいて来て、耳元で囁いた。
「今日は特別ゲストが来ているわ。時宮研所属ということにしてるんだから、そのつもりでね。」
高木さんの言っていることが理解出来ず、首を傾げながら、辺りを見回した。すると、一人の女性看護師に目が止まった。彼女は照れ笑いを浮かべている。
ナース姿の里奈が、そこにいた。里奈は先月から西玉美術大学に通う大学生になったが、今日は時間を割いて来てくれたのだろう。他の看護師や高木さんと並ぶと、初々しさが際立つ。個人的な感想ではあるが、控えめに言って可愛い。多分、今のオレは目尻が下がっている。
そんなオレたちを見て、高木さんがウィンクした。大学生に成りたての里奈を、時宮研の学生と誤魔化しているのだろうか?そんなの、ひとめ見ればすぐに分かるだろうに。
そんなオレの不安を他所に、高木さんは「睡眠学習装置(改)」の開発者の1人として、その場を仕切った。看護師には睡眠導入剤の準備を、思宮研の研修医には思宮教授のカルテの確認とバイタルチェックを、オレには検査服への着替えを指示して、自身はコンソールの前に陣取った。
ただし、「睡眠学習装置(改)」のコンソールは「睡眠学習装置(仮)」とは大きく異なる。最初から、AM世界の高木さんが見せてくれたような、オレの量子状態を示すマップが大型ディスプレイに示されるようになっている。そして、オレの量子状態を反映した「睡眠学習装置(仮)」の量子状態を示すマップもその隣に。さらに、そこに情報を書き込んだ場合の量子状態をシミュレートしたマップが、もう一つの大型ディスプレイに表示される。
AM世界で味わったように、オレ自身の心が赤裸々に表示されるようで、少し気恥ずかしい。だが、AM世界とは違って、オレの心自体は他人から観察できない。だから、解析され表示されるのは、あくまでオレの心を反映した量子状態だけ…と思うことにした。
さて、いつものように別室で検査服に着替えて戻ると、準備された睡眠導入剤を飲む。その後、「睡眠学習装置(改)」のベッドに横たわった。やがて、シェルが静かに動いて視界が暗くなり始めたが、完全に閉じる前に内部照明が点いて明るくなった。
「睡眠学習装置(改)」を使う治療の流れは、「睡眠学習装置(仮)」の実験と良く似ているが、違う点もある。例えば、「睡眠学習装置(改)」ではつなぎやヘッドセットは不用だ。検査服は、普通に入院患者が着用する服と何ら違いは無い。つなぎやヘッドセットにセットされていたセンサーの機能を、「睡眠学習装置(改)」自体が持っているのだ。
「睡眠学習装置(仮)」では、核磁気共鳴装置により、オレの細胞内のポズナー分子に含まれるリン原子のスピン状態を読み取った。だが、「睡眠学習装置(改)」では、強化された核磁気共鳴装置でオレの細胞内のリン酸原子のスピンを読み取りつつ操作する。
リン酸原子のスピン状態の操作は、観察するよりも高い技術が要求される。核磁気共鳴装置のパワーと精度をかなり向上させたのだと思うが、オレには詳細は分からない。だけど、そのためには電場と磁場を精密に制御する必要がある。だから、量子回路周り以外の装置はかなり大きくなった。それに、シェルもかなり分厚くなったような気がする。
それにしても、AM世界のオレから来たメールでは、10日位で「睡眠学習装置(仮)」を「睡眠学習装置(改)」に改造したそうだ。時宮准教授のことだ。前々から、設計はしていたのかも知れない。
それでも、パーツを発注しても、すぐに手に入るハズが無い。時間がかかるハズだ。それに、量子回路を増設する金も無い時宮研で、どうして改造に必要な費用を捻出出来たのだろう?高木さんも木田も、知らないと言ってた。時宮准教授には、はぐらかされたし…。
そういえば、里奈が言ってた。時宮准教授に相談しに行った時、時宮研究室には山積みのダンボール箱があった…と。そして、改造を手伝った時には、そこから部品を出して使ったとか。
まさか、時宮准教授は里奈が来る前から準備していたのだろうか?でも、オレが襲われてから里奈が相談しに行くまで、5日しか無かった。費用の捻出と特殊な部品の納期を考えると、5日ではとても間に合いそうに無いのだが…。
そんなことを考えているうちに、オレは眠ってしまったらしい。気がつくと、「睡眠学習装置(改)」のベッドで横たわっていた。目を覚ましたオレの視界には、ナース姿の里奈がいた。彼女は携帯端末に集中している。
オレは起き上がって、里奈に声をかけた。
「おはよう、里奈。いや、おはようじゃないか?」
「あっ、お兄ちゃん起きたんだ。他の人達は、みんな帰ったよ。」
目線をオレに向けて、里奈が応えた。
いつもなら、誰も居なくなった記憶改善処置室を一人で出て、ナースセンターに向かう。そこで看護師に声をかけて、帰宅するのだった。今日は里奈が待っていてくれて、なんかハッピーな気分だ。
そんなオレの気持ちを知ってか知らずか、里奈が続けて言った。
「お兄ちゃん、この後、時間ある?」
「あるけど?」
「叔母さん…いや、お母さんが一緒に夕食食べようって言ってきた。」
そう、叔母の倉橋香が今の里奈の養母だ。昏睡状態から目が覚めたとき、里奈は倉橋里奈になって、叔母と同居していたのだ。「妹」だけど「従兄妹」。
当時のオレには、里奈についての記憶がほとんど無かったから、何の感傷も無かった。でも、近頃のオレは、心の奥底でいろんな葛藤を感じる。
里奈が近くにいなくて寂しいけど、女性として魅力的な「血の繋がった妹」が近くにいなくて、ホッとしてもいる。何しろオレときたら、意識が戻って直ぐに里奈に抱きついてキスしてしまったのだ。それも衆人環視の中。それなのに、オレだけが取り残されたような寂寥感は消えない…というより最近芽生えてきた。
一方、記憶が少しずつ戻って来ると、里奈も叔母もある意味オレの家族だと思えるようになって来た。それに、AM世界じゃないから、財布のお金は自然に戻ったりしない。経済的にも助かるし、夕食の誘いを断る理由は無い。
だから、
「いいよ。それで、何処に行くの?」
と答えると、里奈は笑顔で言った。
「赤煉瓦亭だよ。」
記憶改善処置室から見える外の景色は、既に夕闇の中で瞬く光に彩られていた。




