4.2. あの日の出来事
「上泉先生の世界」に転移したオレは、梨奈の手を取り、駆け落ちしようとしていた。上泉先生の邸宅から一歩足を踏み出そうとした瞬間、梨奈が叫んだ。
「祥太様、アレを見て下さい。」
何か巨大な光がこちらに向かって来る。隕石だろうか?
そして次の瞬間、視界が真っ暗になった…。闇に囚われて、ようやく思い出した。これはデジャブなんかじゃない。夢で見た通りだ。オレは予知夢で見て、こうなることを「既に知っていた」のだ。思わず眼を閉じた。
次に眼を開くと…闇は消え去り、視界に梨奈の顔が広がっていた。梨奈が何かを言ったようだが、はっきり聞こえない。抱きついてきた梨奈を抱き返して頬に口付けると、涙の味がした。
だが、次に彼女が発した言葉は、ちゃんと聞こえた。
「こんなところで…ダメだよ、お兄ちゃん…」
オレの腕を振り解いた彼女は、顔を真っ赤にして、少しオレから離れた。
彼女が離れて、オレの目に入ってきたのは、眩しく白色の人工的な光。そんなものは「上泉先生の世界」には無いハズ。すると、ここはAM世界なのか?
だが、ここには梨奈がいる。…梨奈?いや、梨奈は白無垢を身に纏っていた。目の前の彼女は、上はセーター、下はロングスカート。…洋装?梨奈が身に纏っているハズが無い。彼女は梨奈では無いのか?
焦ったオレが辺りを見渡すと、彼女の他にいたのは叔母の倉橋香、高木さんに木田、時宮准教授と二階堂先生。他に、見たことのない男性の医師が1人…それがオレの担当医の思宮教授だと後で判った。
そして、オレが寝ていたのは「睡眠学習装置(仮)」のベッドのようだが、「睡眠学習装置(仮)」とは何かが違う。周りに配置された装置とか、他にも色々違うような…。それに、オレたちが居る部屋は、時宮研の実験室よりもずっと狭い。
そこで、ようやくオレは気づいた。ここにはオレの知らない人がいる。あまり頻繁に会わない叔母や二階堂先生がいる。彼ら彼女らの容姿や表情を、オレの記憶で再現するのは難しい。つまり、ここはAM世界では無い。きっと、現実世界だ。
すると、現実世界でオレを兄と呼んだ女性…それは「妹」?
梨奈だと思っていた彼女は、オレの「妹」の「里奈」に間違い無いだろう。それにしても、「妹」は梨奈に驚くほど良く似ている。だから、梨奈に初めて会った時から、どこかで会ったことがあると感じたのか?たとえ、AMのオレが「里奈」を忘れてしまっていたとしても。
やがて、医師がベッドサイドに近づいてきて、話し始めた。
「初めまして、だね?私は思宮と言います。眼は見えてますか?私の声、聞こえますか?それに、気分はどうですか?」
えっと、オレの感覚が正常かどうかの確認だろうか?
「…えっと、初めまして。見えているし、聞こえてます。気持ちが良いとか悪いとかは特に無いですが、混乱してます。」
オレにも確認したいことがあるので、尋ねてみた。
「ここは、『睡眠学習装置(仮)』内の人工意識体が創った世界では無いんですよね?」
「そうです。ここは現実に存在する湊医科大学の大学病院、記憶改善処置室です。」
オレは、湊医科大学の大学病院がどこにあるのかを知らなかった。少なくとも、先駆科学大学や家の近くには存在しない。とすると、事件現場からも遠く、襲撃されたオレは別な病院に救急車で運び込まれたハズだ。では、何故ここにいるのだろう?
オレは医師に疑問をぶつけた。
「どうして、オレはここにいるんでしょうか?」
「1か月半ほど前に、貴方は何者かに襲撃されました。最初に運び込まれた病院で、診断と救命措置が施されましたが、意識を回復させる目処が立たなかった。そこで直ぐに、意識や記憶を扱う認知機能科のある当院へ、転院されたからですよ。」
医師は続けて、オレの記憶状態を確認する質問を投げかけた。
「何か覚えてますか?」
オレは、少し躊躇したが、
「…いいえ、何も。」
と答えた。
AM世界で、現実世界のオレとムーコが襲撃される様子を見ていたオレは、この状況について全く覚えがない訳では無い。しかしそれは、被害者である現実世界のオレの記憶では無いのだ。だから、「覚えていない」と応えることにした。
この時、もう一つ、オレには即座に知っておきたい情報があった。「睡眠学習装置(仮)」でAM(人工意識体)として存在していると、物理的な時間の進み方にはあまり影響を受けない。でも、現実世界で生きていくためには、現時点の日時は絶対必要だ。
そこで尋ねた。
「それじゃあ、今は何月何日ですか?」
すると、医師は腕時計を見ながら答えた。
「1月1日…になったばかりです。」
そう言えば、どこからか除夜の鐘が聞こえてきた。
医師もその音を聞いて、ハッとしたような表情を浮かべた。そして、皆に告げた。
「明けましておめでとうございます。今回は、桜井さんの意識が戻る兆候があったので特別許可しましたが、病院としてはとっくに面会可能な時間を過ぎています。桜井さんも無事意識が戻りましたし、今は皆様にはお帰りいただきたいと思います。」
すると、皆から拍手が上がり、「里奈」が質問した。
「今日の面会時間は、掲示されていた通り15時から17時で良いですか?」
「その通りです。ご都合がよろしければおいでください。」
高木さんと手を繋いだ木田から、
「桜井、また明日来るわ」
と声をかけられ、時宮准教授からは
「桜井君、正月明けにゆっくり話そう。」
と言われた。二階堂先生と叔母は、何やら話しながら手を振って出ていった。
「見舞客」の中で最後に残った「里奈」は、オレに携帯端末を手渡しつつ言った。
「お兄ちゃんの意識が戻って、本当に良かった…。これまでにかなり思宮先生にご迷惑をかけているから、今はこれで帰るけど、今日の午後にはまた来るから。」
そう言った彼女の眼は、まだ赤く潤んでいた。
その時のオレには「里奈」という「妹」の存在に実感が無かったものの、一般的に「兄」が「妹」を心配して発するだろう言葉を返した。
「遅い時間だし、気をつけて帰れよ。」
すると「里奈」は、
「お母さんと一緒に帰るから、大丈夫。」
と手を振って、記憶改善処置室を出ていった。…「お母さん」って誰のことだろう?一瞬疑問が浮かんだが、その時はオレの記憶が混乱しているだけだと思っていた。
最後に、思宮先生とオレだけが残された。そして、その思宮先生も、ベッドサイドに付けられたナースコールと部屋の照明について説明すると、真っ暗な廊下へ去っていった。




