3.44. 時宮准教授からのメール
その後のムーコは、オレが風呂に入っていると裸になって入って来ようとするし、翌朝ベッドで目覚めると知らないうちに隣りで寝ていた…。だが、璃凪姫や梨奈を思い出して、いくらムーコが魅力的でも放置した。少なくとも、璃凪姫に誓ったように、妹の「里奈」を思い出すのが先だ。
それにしても、積極的なムーコに少し辟易する。こんなことは、以前のAM世界のムーコには無かったことだ。AM世界のムーコは、オレの理想を反映してか、もっとお淑やかだった気がする。やはり、何かが違う。
何故ムーコが復活したのか?復活したムーコが何者なのか?まだ、謎は残ったままだ。ムーコが帰ってきた翌日、ムーコとまったり過ごしながらも、頭の中からこの2つの謎が離れなかった。
ふと、今のムーコがオレの知らない「片岡病院の不思議な装置」を知っていた、という事実に思い至った。同じようなことが、現実世界のムーコからムーコの艶姿を送付された後に起こった。オレの知らないムーコの「裸体」が、「見える」ようになったのだ。
もしかすると、現実世界でムーコについての情報が「睡眠学習装置(仮)」に入力されたのだろうか?それで、AM世界のムーコが、より現実世界のムーコを反映するようになったと考えれば、辻褄が合う。
とすれば、このムーコはオレが知らないことを知っている…かも知れない。そこで、オレの妹の「里奈」について知っているかどうかを尋ねた。
すると、ムーコはあっさり答えた。
「桜井先輩の妹さんの里奈ちゃんなら、良く知ってますよ。」
「えっ、本当?」
「もちろんです。先輩ったら、ひどいシスコンなので、少し妬んでましたけど…。」
むむっ、現実世界のムーコの性格なら、何かイタズラをしていそうな言い方だが…。そう思ったオレは、しらばっくれてムーコに引っ掛けの質問をした。
「だから、イタズラしたのか?」
「えへっ。してないと言えば嘘になるかな?でも私がやったことって、『睡眠学習装置(仮)』の刺激反応調査で録った『先輩の妹への思い』のデータを、正負反転して2倍に強化して入力した位ですよ。どうせ、何かに影響するとも思えないし…。」
ムーコは見事に引っかかった!しかし、こんな情報は知りたく無かった。ムーコのイタズラが原因で、このAM世界に妹の「里奈」はいなかったのか…。
だが、そのイタズラが無ければ璃凪姫が存在することは無かっただろう。すると、このAM世界は「ヨハン君」に奪われ、オレは無限地獄に囚われたままだった。このAM世界が平穏になったのは、現実世界のムーコのおかげ…なのか?
いずれにしても、今のムーコの記憶には、オレの知らないムーコの情報が含まれていることは確実なようだ。やはり、AM世界のムーコが眠り続けている間に、現実世界でムーコについての情報が「睡眠学習装置(仮)」に入力されたと思わざるを得ない。
それを詳しく知っているのは、現実世界の時宮准教授だろう。そこで、彼にメールで尋ねようとPCの電源をオンにした。ところが、メーラーを開くと彼からのメールが届いていた。そこには、こんなことが書かれていた。
––––
既に知っていると思うが、1ヶ月半くらい前に、現実世界で桜井君と平山さんが襲撃された。2人とも生命の危機は回避できたものの、意識が戻らなくなってしまったと風の便りに聞いた。
それから5日後、里奈さんが研究室にやって来た。彼女は、桜井君の意識が戻らないから助けて欲しいと言った。桜井君は襲撃された後、湊医科大学に運ばれた。その後、病院に通っていた里奈さんに、桜井君の意識が回復する可能性は低いと医師から言われたそうだ。
湊医科大学認知機能科の思宮宏教授とは、以前から、いつか共同研究したいと話し合っていた。そこで、里奈さんと一緒に彼を訪問して、桜井君の状態について聞いてみた。
すると、犯人から撃ち込まれた薬物により中毒性の脳症を引き起こしたため、植物状態になったという。桜井君が回復出来るかどうかは運次第だが、この状態のまま1か月が過ぎると、確率がかなり低くなると説明された。
我々が議論した結果、桜井君の意識を「睡眠学習装置(仮)」にコピーしたのとは逆に、「睡眠学習装置(仮)」にある桜井君の意識を桜井君の身体にコピーしては?ということになったのだ。そうすれば、桜井君の意識が戻る可能性が高まるかもしれない…と。
現在、ヒトの記憶をコンピュータにコピーするのは、かなり一般的になって来た。しかし、ヒトの意識をコンピュータ上で再現できたのは「睡眠学習装置(仮)」だけだ。まして、コンピュータ上の「意識」データをヒトにコピーする試みは、失敗例を含めてもまだ報告は無い。
さすがに私も躊躇したが、他に方法は無い。やってみることにした。里奈さんはもちろん、高木さんと木田君も、毎晩遅くまで「睡眠学習装置(仮)」の改造や調整に付き合ってくれたよ。思宮教授にも頼み込んで、大急ぎで共同研究を組んで倫理審査をやってもらったし…。
それで改造した「睡眠学習装置(仮)」を湊医科大学に持ち込んで、病院内の機器と接続し「睡眠学習装置(改)」として、桜井君自身へ量子状態のコピーを始めたのは1ヶ月くらい前のことだった。そして、ついに一昨日、桜井君の意識が戻った。だが、その後の里奈さんからの連絡では、里奈さんについての記憶が曖昧だということだった。
「睡眠学習装置(改)」の動作に何か問題があったのだろうか?理由はまだ不明だが、私としては里奈さんや桜井君に申し訳ないと思い、謝罪した。Artificial Mindの桜井君にも謝っておきたいと思い、このメールを送った。申し訳ない。また、何かわかったことがあれば、教えて欲しい。
それと、平山さんのことだ。
実は、桜井君のArtificial Mindを創った直後に、平山さんに「睡眠学習装置(仮)」の次の被験者になって欲しいと頼んだのだよ。2人目のArtificial Mindは女性にしよう、と思っていたのさ。
だけど、平山さんの父君が反対されたらしい。それに、被験者を増やすための量子回路増設資金も確保できなかったので、Artificial Mindを増やす話は立ち消えになってしまったよ。
ところが、昨日になって突然、平山さんの父君が研究室に来られた。どこかの病院で読み込まれた平山さんの「記憶データ」を使って、平山さんの身体に意識を書き込んで欲しいと頼まれた。多分どこかで、桜井君の復活を聞きつけたのだろう。
どうやら、記憶を読み込んだ病院では失敗したらしい。私もお断りしたよ。そのデータは、電気的な脳や神経の情報であって、量子ビットデータに含まれる「意識の情報」が入っていない。そんなデータはヒトの身体に書き込みようがない…。
すると、平山さんの父君はすぐにお帰りになった。ただ、研究室を出る前に、データが書き込まれたデバイスを、何も告げずに手渡しされた。私としては、どう扱ったら良いか困惑した。
だが、よく考えてみれば、我々の関係者で最も平山さんと親しかったのは桜井君だ。そこで、「睡眠学習装置(仮)」のAMとなった桜井君に届けるべく、そのデータを「睡眠学習装置(仮)」にコピーしたと言う次第だ。
少し脱線したが、そんな訳だから、里奈さんの記憶について心当たりがあれば教えて欲しい。
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こんな殊勝な時宮准教授は、初めて見たような気がする。「妹」の記憶がオレから失われたのは、時宮准教授のせいでは無くムーコのせいだと思うのだが…。
だけどそれは、出所不明なデータが加えられたAM世界のムーコが言ったことに過ぎない。正しい答えは、きっと現実世界の時宮准教授や高木さんが解明してくれるだろう。だから、先ほどムーコから聞いた話は、現実世界の連中には黙っておくことにした。
それにしても、「妹」の「里奈」は、現実世界のオレの恩人だ。だけど、「里奈」は現実世界のオレに何も言わないかも知れない。だから、現実世界のオレに、意識が戻った経緯をメールで伝えた。
それに加えて、この世界で起こった体験した概要を記した。どのタイミングで、AMのオレの記憶が現実世界のオレにコピーされたのかが分からない。もしも、半端な状況で現実世界に引き戻されたのなら、その後のAM世界の状況が気になるだろうから。




