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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第3章 メメントモリ
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3.43. AM世界への帰還

 「真っ暗でコンソールしかない世界」をログアウトすると、「睡眠学習装置(仮)」のシェルが開いて、AM世界に戻ってきた。ベッドの周りに、時宮准教授と高木さん、それに木田がいた。皆、不安そうな顔をしている。


 高木さんが口火を切った。

「桜井君が帰ってくる10分位前に、例の記憶領域がまた急拡大したと思ったら、マップから情報が消えたわ。何かトラブルが発生して、もうこの世界が終わってしまうのかと思った…。」

少し青ざめた顔をした時宮准教授と木田も頷く。

 そこで、オレも答えた。

「実際、そうなりそうでしたよ。『フォンノイマン博士の世界』ではフォンノイマンの葬式の最中でした。葬式に参加したオレは、密かに『フォンノイマン博士の世界』をコントロールしていた、『ヨハン』という名前の少年時代の『フォンノイマン』に捕まって監禁されたんです。そうすることで、彼は『睡眠学習装置(仮)』全体を支配しようとしたんです。」

 すると、時宮准教授が尋ねた。

「それなら、どうやってその状況から脱出できたんだ?」

「オレには『里奈』という妹がいるそうで、その『里奈』の分身を名乗る女の子が脱出させてくれました。脱出後、直ぐに『フォンノイマン博士の世界』を消去しましたが、『ヨハン』がどうなったのか不明です。彼は『フォンノイマン博士の世界』だけをコントロールできるようだったので、おそらく消滅したと思いますが…。」

少し目が潤んできた。

 今度は木田が言った。

「大変だったようだな。でも、このAM世界が維持できて良かった。お疲れ様。」


 精神的に疲れたオレは、ムーコがいなくなった仮眠室で着替えると、3人に別れを告げて帰宅した。研究室の時計は、午後3時を指していて、少し陽が低くなってきていた。

 帰り道、いつものように、のっぺらぼうの人たちとすれ違った。オレはこの世界を守ることができた。そう思ってホッとする反面、この世界をもっと良くすることができるのではないか、と思い始めた。

 のっぺらぼうの人たちだって、適切に外部から情報を入力して個々に顔を設定するとか、個性を設定する方法はありそうだ。それに、オレが内容を覚えていない本やモノに書かれた文字が読めない問題だって、解決方法はありそうだ。

 今回の事件で、オレがこのAM世界に愛情を持ちつつあるのを、実感した。このAM世界そのものや構成する人々のことが、かつてないほど気になってきたのだ。そのうち、この世界の人たちにも声をかけて、この世界をより良くしていこう。…そう思った。


 家に着いて、ドアの鍵を開けて中に入った。すると、玄関にパンプスがあった。これは?…見覚えがある。そういえば、仮眠室のベッド脇にパンプスが残っていたかどうか、確認しなかった。まさか…?

 リビングのドアが開いて、見慣れた女性が出てきた…最近の彼女はずっと寝ていたが、直ぐに誰だかわかった。…ムーコだ。ムーコがいた。声も出せずに固まっていると、彼女は言った。

「桜井先輩、おかえりなさい。まだ時間が早いけど、何か食べますか?それとも、お風呂?それとも…わ・た・し?」

 彼女は、悪戯っ娘ぽい笑顔を浮かべていた。こんなのは、ムーコじゃない…いや、これがムーコだ。オレは混乱しつつ、思った。これは、オレが知っているAM世界の素直なムーコではなく、むしろ…現実世界のムーコ。

 でも、ムーコはムーコだ。生きて、目の前にいる。オレは心のタガが外れて、靴を履いたままであるのも忘れて、ムーコに駆け寄った。

「おかえり、ムーコ。」

そして、抱きしめた。

 ムーコは少しびっくりした様だったが、彼女もオレを抱きかえして言った。

「ただいま、先輩。」


 だがその後、オレから離れると、すぐに怒りだした。

「先輩、何やっているんですか!廊下を汚しちゃったじゃ無いですか!」

そう言って、廊下掃除を始めた。

 その様子を眺めながら、オレはますます思った。この天真爛漫で悪戯っ娘な感じのムーコは、オレが作ったイメージの存在であるAM世界のムーコではなく、現実世界のムーコみたいだ。一体何があったんだろう?


 廊下掃除を終えたムーコは、コーヒーを淹れてくれた。家の中で、他の人と共にする飲食は久しぶりだ。ずっと、独りっきりだったから。お茶菓子を食べながら、コーヒーを一口啜ると、とても満ち足りた気持ちになった。


 気持ちが落ち着くと、ムーコへの質問が溢れ出てきた。

「ムーコは大学の仮眠室で何日も眠っていたのに、数時間前に突然姿を消してしまった…。今までどこにいたんだ?」

「それが、良く分からないんです。気がつくと、このソファーで横になっていました。」

ムーコはそう言いながら、自分が座っているソファーを軽く叩いた。

 ムーコの回答は、さらにオレの疑問を深めた。

「家に帰ってきた記憶も無いの?」

「そうなんです。」

「それじゃあ、その前に何をしていたのか覚えていない?」

「そうですね…。大学の仮眠室で眠っていた記憶は全く無くて、大学の仮眠室でゲームにログインしようとしていた記憶と、病院で不思議な装置の中に入った記憶が重なっている感じです。」

 仮眠室でゲームにログインしようとしていた記憶があるのはともかく、「病院で不思議な装置の中に入った」って、一体どう言うことだ?

 そこで、それを問うと、ムーコの回答はこうだった。

「よく分からないんです。ですが、時宮准教授が私にも『睡眠学習装置(仮)』の被験者になって欲しいと頼んできたのが、きっかけなんだと思います。私はぜひ被験者になりたかったんですが、それを聞いた父は『そんなの信用出来るか…』と反対しました。」

 ムーコはコーヒーを一口啜ると、話を続けた。

「ところが、その内、父が片岡という知り合いの医師から面白い話を聞いたと言ってきたのです。その時、『あの時宮とかいう若造のやることは信じられないが、片岡なら問題無いだろう。片岡の言う通り、保険にもなるだろうし。』と言っていたのが、記憶に残っています。」

「保険?」

「私の身に何かが起こった場合の『保険』という意味だと、私は感じました。ですが、ワンマンな父は、何も説明してくれなかったのでよく分かりません。」

 現実世界のムーコに起こった「何か」なら、オレはよく知っている。彼女はストーカー、いやテロリストに襲われたのだ。そのことと、ムーコの言う「私の身に何かが起こったら」ということと、関係があるのだろうか?だが、ここにいるムーコは、現実世界で起きた事件のことを知らないのだろうか?

 そこで、オレは言った。

「AM世界のムーコが眠り続けているうちに、現実世界のムーコはテロリストに襲われたんだ。現実世界のオレと一緒に。知らないのか?」

ムーコは絶句した。ここにいるムーコは、現実世界のムーコが襲われたことを知らなかったようだ。

 ムーコは声を絞り出すように言った。

「片岡病院の不思議な装置は、『睡眠学習装置(仮)』と良く似ていました。そして、桜井先輩が『睡眠学習装置(仮)』の実験で被験者になった時のように、スーツを着て睡眠薬を飲み、その装置の中で眠ったんです。だから、もしかするとこの世界は、私のAMが作り出した世界かもしれません。」

 だが、オレは即座に否定した。

「ここは、オレのAM世界だ。ムーコのでは無い…と思うよ。その証拠に、ムーコは時宮研の仮眠室でゲームにログインしようとしていた記憶はあるんだろう?」

「そうですが…。」

「それは、間違いなくオレのAM世界での出来事だ。」

 オレに自分の意見を否定されたムーコは、少しイラついた。

「それなら、私は一体何者なんでしょう?」

「オレのAM世界の『同居人』かな?」

 オレはそう答えつつ、疑問を感じた。

「…だけど、片岡病院の不思議な装置の中に入った記憶というのは、間違いなくオレのAM世界での出来事では無いぞ。だったら、ムーコのその記憶は一体どこから…?」

 オレとムーコは顔を見合わせたが、2人とも辻褄の合う答えを思いつくことは無かった。


 でも、それは些細なことだ。ムーコがここにいて、話ができて、生活している。それこそがオレにとってどれほど重要なことか。振り返れば、ムーコの意識が戻らなかったのはほんの数日のことだったのに、ムーコとの平穏な日々のありがたさが身に染みて良くわかった。


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