1.9. 八神圭伍
近年、量子コンピュータと電子回路で構成された従来型のコンピュータを組み合わせた、ハイブリッド型のクラスターシステムが増加しつつあった。何千億もの量子ビットを持つ量子コンピュータが供給され、認証プロセスや最適化の処理等に用いられる様になった。
だが、問題はプログラムだ。従来型コンピュータから量子コンピュータの処理を呼び出すため、複雑なプログラムを必要とする。今、頭脳工房創界でオレが取り組んでいるプログラムは、このようなハイブリッド型のシステム上で動作させるものだ。このシステム構築のため、頭脳工房創界はレゾナンスとの共同プロジェクトを組むことにした。
レゾナンスは、その社名の由来となったコンピュータと人間の脳のインターフェースとなる脳波干渉システムや、僅かなパラメータ値と低品質の画像と音のデータから、量子コンピュータにより瞬時にVRの視覚や聴覚等を生み出すプログラミングツールを開発していた。これらを利用すれば、従来型のオンラインロールプレイングゲームに僅かな情報を追加するだけで、多人数が同時に参加可能なVRゲームサービスを提供するシステムを構築できる…かも知れない。このシステムの構築はなかなか困難で、まだ試行錯誤のフェーズだ。
この野心的なシステム構築のため頭脳工房創界では、三笠俊徳プログラミングチーフの元に、レゾナンスからシステムエンジニアの八神圭伍を迎え、オレを含めた数人のプログラマーが参加する体制を整えた。
三笠さんは、オレが高校生だった頃からのプログラミングの師匠で、社内ではいつもクールでキレ者との評判だ。ただし、彼のブースは家族の写真だらけだし、奥さんから電話があると上司や取引先からの電話より低姿勢なのを、オレは知っている。
八神さんは、関連知識が豊富で話し出すと止まらないが、いつも暗い感じで普通の会話にはほとんど加わらない。コミュ症のオレには気楽な相手だ。20代後半位で独身に見えるが、その生態は謎に包まれている。
そんな訳で、頭脳工房創界でムーコと顔を合わせる機会が、最近少なくなっていた。そこで、今日は木田の事を相談するために、仕事を早めに切り上げてエントランスでムーコを待っていた。
すると、ムーコと同じデザインチームの吉川さんが先に退勤してきた。吉川渚さんは、今年の春に美術系の大学を卒業したばかりの新入社員で、ムーコの話題に良く出て来る女性だ。
「桜井君、こんな所で何してるの?」
「駅前のファミレスへ一緒に行こうと思って、平山を待ってるんです。」
吉川さんとはあまり直接話したことがないので、つい緊張して顔が火照ってしまった。
だけど吉川さんは、オレが照れたと思ったみたいで、
「あなたたち、仲良いもんね―。平山さん、いつも桜井君の話をしてるよ。君たち、付き合っているのかなあ?」
と、からかってきた。
ところが次の瞬間、突然顔色を変えてオレの口を寄せて、小声で話を続けた。
「ところで、最近この時間にいつも同じクルマが停まってて気持ち悪いのよ。今日も、ほら、そこにいるわ。」
吉川さんが指した方向に、黒いワンボックス車が路駐している。
「オレは知りませんが、誰かを待っているんじゃ無いですか。…吉川さんのファンとか?」
吉川さんは頭をブンブン横に振った。
「ストーカーかも…。怖いから、私も駅まで一緒しても良いよね?」
心なしか、吉川さんが震えているようにみえる。
「もちろん、構いませんよ。」
それから間も無く、ムーコが来た。
「珍しいですね、桜井先輩と吉川さんの組み合わせなんて。」
少し驚いた様な表情をしていたが、吉川さんが事情を説明して納得した様だった。
そのまま、三人で駅まで歩いて行く事になった。ワンボックス車の横を通った時にチラッと車内を覗いて、今度はオレが驚いた。思わず、呟き声が漏れる。
「八神…さん…?」
まだ仕事中だったハズだ。休憩中だとしても一体何をしているのだろう?オレの声はムーコと吉川さんには届かなかったらしい。二人からは特に問われる事も無く、そのまま駅に着いて吉川さんと別れた。
駅前のファミレスでは、秋の季節限定メニューがおススメだ。それでもオレは条件反射で定番のメニューを選んでしまうのだが、ムーコはかなり長い時間考えていた。オレのおごりなので、デザートもじっくり選んだようだ。オレとしては、ムーコにおごるのだから、しっかり元を取らねばなるまい。
腹が満たされてデザートが来ると、本題に入った。
「ムーコって高木さんと仲良いよね?」
「高木さんって物知りで頭が良いから、いろいろと教えてもらえてありがたいです。」
「いろいろって?」
「いろいろです!」
1回目の実験直後と同じ展開だ。なんとなく「いろいろ」の内容が気になるけど、一先ず脇に置いておこう。
本題、本題。
「ところでさ、高木さんを気にしてる奴がいるんだよね。」
「えーっ、桜井さんは高木さんに気があるんですか?」
ファミレスにムーコの声が響き渡る。オレも思わず小声で叫んだ。
「声が大きい!落ち着け、落ち着くんだ。それに、何故そうなる?」
声を落としたものの、納得してないムーコは食い下がる。
「だって、桜井さんってコミュ障だし、友達少ないし、シスコンだし!」
いちいち気にしている事を言いやがって。
「それとこれとは関係無いだろ?」
「そんな事は無いです。友達が少ないから、高木さんに気があるのが桜井さんのお友達では無いとして…残るのは…。」
じーっとオレを見るムーコは、少し怒っている様に見えた。言い方にも棘があるし。
「その…、だから、オレの友達だって。」
「本当ですか?」
ムーコの表情が少し和らいだ。
そこで、木田の話をするとムーコの目が輝いて来た。そして、しばらく頬杖をついて考え込むと、突然ニヤッと笑った。
「それなら、ダブルデートなんていかがですか?」
「ダブルデート?」
「桜井さんと私のデートに、それぞれ同性の友人を誘ってお出かけする、という筋書きです。」
オレは少し目眩がした。オレとムーコだって付き合ってもいないのに、デートだなんて。でも、オレとムーコが付き合うべきだって、木田が言ってた事を思い出した。オレが里奈に何かしてしまわないうちに「シスコン病」を治す為にも、ムーコとのデートは良いかも知れない。
「木田にはオレから話すとして、高木さんにはムーコから話してもらって良い?」
「OKです。でも、自然に話を進めないと、高木さんは話に乗ってくれないと思いますよ。例えば、次回の実験の時とか?」
「ムーコは、次の実験にも来るの?」
「嫌ですか?これから一緒にデートしようと言う仲なのに?」
ちょっと拗ねて見せたムーコに、オレは降参して両手を上げた。
「嫌じゃ無いよ、彼女様。是非おいで下さいませ。」
「それじゃあ、連絡待ってますね。」
ムーコはそう言うと、ケーキの最後の一切れを口に運んだ。
夕食を終えてムーコと別れて家路につくと、途中でスマホの通知音が鳴った。高木さんからのメールで、次回の実験の日程が一週間後に決まったらしい。実験再開までには、木田に話しておかなければならない。さて、何て言えば良いのだろうか?




